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I LOVE ひろしまながさき

これは、広島とわたしのお話です。
記憶を語ることへの思考の旅の記録でもあります。
こわがらせるようなことはほとんど書いていません。
愛と信頼のお話。
よかったら読んでくださるとうれしいです。
( 2020年に書いたものを大幅に加筆修正しました )


1. 祖父の平和すぎる写真

祖父の写真があります。
晩年の祖母が、身辺を整理しようとアルバムから写真を引き剥がしているのを見つけて、あわてて止めて、救出した写真たちです。

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昭和7年、少年時代の祖父。わりと美少年、と思いたいのは孫の欲目です。
廣島の写真館で撮ったようです。
わんちゃんを抱えて写真を撮るサービスがあったんでしょうか?
帽子のつばがぼろぼろでも、学生服姿がかわいい。
(写真を囲むように切り込みが入っているのは、晩年の祖母が自分の帳面にはさむため切り取ろうとカッターナイフを入れた跡です。お気に入りの写真だったんですね)

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時代は下り、昭和13年9月の広島です。
祖父の勤めてた会社のひとたちと川遊び。
母は「他に娯楽がないから川しか遊ぶ所がないのよ」と言っていました。
日傘の女性は、社長の奥様です。東北地方のある藩の家老の家に生まれたひとです。戊辰戦争後、東京に出て、結婚を機に、この広島に来ました。
このひとが、わたしの祖父の命を助けてくれた恩人でもあります。

ボートを漕ぐひとたちは祖父を見て笑っています。
撮った祖父もきっと笑ってるんだろうと思います。
この7年後、この空の上から、原爆が落ちてくるとは、誰も知りません。

今は消えてしまった広島がこの写真の中に保存されています。
でもどんな広島だったのか、ひとりひとりはどなたなのか。
それを語る言葉はもう残っていません。

2.  1945年8月6日、午前8時15分以後の広島

午前8時、廣島駅の近くにある会社の前にわたしの祖父はいました。
一旦入隊したものの、病気で兵役免除になったのです。
その日は仕事の日。会社に行き、就業前に外に出て、近くの商店の人たちと抜けるような青空を見上げて「今日は天気がいいね」と話していました。そろそろ仕事が始まるので、「それではまた」と挨拶して、会社の建物の中に入り、お手洗いに行きました。用を足したその瞬間、いきなり爆風を受けて、地下の石炭部屋に吹き飛ばされました。
しばらく気を失っていて、目を覚まして気付くと、腰に大きな釘が突き刺さっていたそうです。こげくさいにおいを感じて、必死に石炭まみれになりながら地上に這い上がりました。外に出ると、さきほど「天気がいいね」と話していた近所の人たちは全員、道の上に並んで黒焦げになって死んでいたそうです。

壁1枚で生と死が分けられたこの事実を、わたしはどう解釈したらいいのか分かりません。祖父にも説明できなかったと思います。

火事が起きた町は、逃げるひとたちでいっぱいでした。全身ひどいやけどをしたひとが手を前にして歩いている姿が恐ろしかったそうです。「助けてくれ」という声も聞こえたがどうすることもできず、とにかく火から逃れたといいます。

会社から2キロ、廣島駅の裏、尾長まで逃げて、会社の奥様の家に辿り着いた祖父は寝込みました。そのころ祖母は疎開して無事でしたが、身重のため駆けつけることができず、代わりに毎日魚を送りました。
戊辰戦争を経験した奥様が「食べなければ。とにかく食べさせて生き延びさせる」と毎日鶏肉を手に入れて懸命に看護してくれました。幕末の戦争体験が昭和の戦争で生かされた稀有な例だと思います。おかげで、祖父は一命をとりとめました。腎臓や膀胱に病を抱えて手術を繰り返す生涯を送りました。

3.  わたしと広島

原爆をめぐる、広島のおとなのひとたちのおしゃべり。
広島の言葉のやわらかいイントネーションで覚えています。

「今日も暑いねえ。あの時もこんな暑い日やったね」
「そうそう、よう晴れた、抜けるような青い空でね」
「あんたあん時どこおったの」
「比治山の向こう」
「はあ、そりゃ命拾うたね」
「そうなんよ」


「命を拾う?」と、幼いわたしがきくと

「そうよ、拾いもんよ」
「ほんま拾うたようなもんよ」
「ようたくさん死んじゃったからね。生きとる方が不思議なくらいよ」
「あのころは死ぬるんが当たり前やったよ」
「怪我ひとつなくぴんぴんして平気じゃと笑っとった人が急に死ぬる」
「ほんまよう死んだんよ、あんた生まれとらんから知らんやろうけど」
「ほれ、あれよ、AさんとこのBさんもあとになって死んだよね」
「そうそう。大変やったらしいねえ」
「後で死ぬるは大変、その場で死んだ方が楽かもしれんね」
「もしまた原爆が落ちてきたらわたしは走ってあの真下に行くわね」
「ほんまほんま、その方がぱっと死ねて楽じゃ」
「あんたもそう思うんね」
「そうよ、それがいちばん楽じゃろ」
「あはははははは、そうじゃね」

幼い頃、広島のおとなたちは、「死ぬ」(古語の連体形の「死ぬる」)という言葉を日常で多用していました。ほんとにカジュアルに「死ぬ」といってました。死の概念は日常に身近にあったのです。
原爆は、広島という街、彼らの日常空間に割り込んできてそのまま居座ったのだから、それは当然のことなのかもしれません。

わたしは大阪で育っていますが、生まれたのは広島のどまんなかにある病院です。広島で生まれた女です。言いたいだけ。
小学校が休みになると、わたしと兄は、大阪から新幹線に乗り、広島の母方の祖父母の家で楽しく過ごしました。母はそのあいだやっとのんびりできたそうです。ワンオペ育児大変でしたねおつかれさまですと思います。

祖父にとってわたしは初めての孫娘。
かわいがってくれたんですよ。えへへ。
わたしも祖父が好きでした。
父方の祖父はいなかったので、唯一の祖父でした。
夕方、NHKの相撲中継を一緒に見るのがわたしと祖父の楽しみでした。
相撲のあとはお風呂。
小学校低学年まで、祖父は私をお風呂に入れてくれました。
祖父はいろんなお話をしてくれました。
いちばんよく覚えているのは
「吉永小百合がぼくの理想の女性だから、あやちゃんも吉永小百合のような女性になりなさい」です。
祖父はサユリストでした。
推しのようになれ、と孫娘に命じる。
すごい発言ですね。
そんな祖父が好きです。

わたしは湯船につかりながら祖父の話に相づちを打ちつつ、
祖父の身体の傷を盗み見ていました。
祖父の腰には、爆風で転落した時に大きな釘が刺さった傷痕がありました。身体のところどころにも痕。その原爆の傷痕を正面から見る勇気はないけれど、目が離せませんでした。

わたしは、一緒にお風呂に入る祖父の身体から原爆の「毒」がわたしの身体にもうつり、その「毒」で自分も病気になって死ぬんだろう、とひとりで勝手に思い込んでいました。
でも祖父が大好きなので、それでも別にいいと思っていたのです。

幼いわたしには、きちんとした知識を学ぶ場はまだありませんでした。
家族から原爆の話は聴き、『中國新聞』に載る広島長崎の被爆者の体験手記を読める限りひとりで読んでいました。
「みんな死ぬ」
これが無知による思い込みだと知る日まで、この考えを誰にも話すことなく、自分の中だけで結晶化させていきました。


4.  わたしは広島がこわかった

わたしは広島がこわかった。原爆がこわかったのです。
祖父が亡くなり、おとなになった今でもとてもこわいです。
原爆に関する写真をわたしは一切見ることができません。

原爆ドームですらこわい。
広島駅の構内にある原爆ドームの絵を見るだけでドキドキして、チンチン電車で通る時も絶対に原爆ドームを視界に入れないようにしていました。
広島では夏になると「原爆」がテーマになります。テレビでも原爆当時の写真を映すことも多く、そのたびにこわくてあわてて頭を下げて、冷や汗をかきながら自分の膝をじっと見ていました。
広島の中心街で「この下には亡くなったひとたちの遺骨がたくさん埋まっているんだよ」と母に教わって以来、歩くこともこわくなりました。
蝉がこわいのもそのせい。連想してしまうのです。

年に一、二度は原爆が落ちる夢を見ました。こんな夢です。

ドーム型の天井がある建物の中で、窓ガラスの向こうに川が見えている。もうすぐこの真上に原爆が落ちると知ってるので、みんなに知らせなきゃと思う。螺旋階段を降りて外に出る。外に友だちがいっぱいいる。言おうとする。でも声が出ない。そのとき、目の前の景色全てがぱっと黄色になる。

そこではっとして目が覚めます。ものすごくドキドキして汗をかいていました。真っ暗闇の中でひとり目が覚めてこわくてたまりませんでした。まぶたを閉じても開けても、暗闇に原爆ドームの姿が浮かび上がって見えて怖かったのです。


5.   小学校の修学旅行は広島でした

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小学生のとき、わたしは祖父の被爆体験を作文に書き、それが文集に載りました。この小学校では被爆者の家族を持つ児童は同学年でわたしひとり(上の学年には兄)だったのです。
その作文を授業中に読み上げて、拍手されました。なんだか居心地が良くなかったです。

小学6年の修学旅行先は広島でした。
兄の学年は伊勢だったのに、わたしの年に広島に変わったのです。なんでーー!うええええん。原爆資料館にも行くことがわかって、怖くて悲しくて泣きながら寝たのを覚えています。

修学旅行の当日、祖父母が広島駅で出迎えてくれました。
わたしが乗っている新幹線の号車を母が事前に知らせていたので、祖父母は駅のホームで待ち構えていました。仕事を休んで来てくれたんでしょうね。
新幹線の中から窓の外を見ていると、着いたホームに祖父母がいて、窓を叩いて、ここにいるよと熱く伝えていました。
気付いた友だちが「おじいちゃんとおばあちゃんが呼んでるよ」と言いました。わたしは下を向いて、祖父母の顔を見ませんでした。

ホームに降り、担任の先生に言って、祖父母と話す時間をもらいました。
担任の先生とクラスのみんながこっちを見ていました。
祖父は、元気か、と声をかけてくれました。
わたしはうなずきました。
祖母は、わたしの好きな「もみじまんじゅう(にしき堂のこしあん)」をクラス全員分大量購入した紙袋を手渡してくれました。
「ありがとう」といって受け取ってみんなの列に戻りました。
祖父母が手を振って見送っていたので、振り返って手を振りました。
手を振って見送る祖父母に手を振り返す。
それが精一杯だったのです。

「なんでおじいちゃんおばあちゃんが来てくれたのになんにもいわないの」と、修学旅行から帰ると母に叱られました。

今思い出すとやるせなさに涙が出ます。
ごめんね、本当は会えて嬉しかったのに。素直に喜んであげれなくて。

被爆者である祖父たちへの視線。わたしへの視線。
それがこわかったのです。

「被爆者の孫」としてわたしをみるまなざしの中に感じたのは、壁でした。
祖父の体験を作文にして読み上げて拍手をもらったとき、祖父の体験を売りにしていると思われてるような気がしました。
作文の良いネタを持ってていいねみたいな。
違う世界ですね、みたいな。
そうじゃなくて、そうじゃないのに。
わかってもらいたかったのは、原爆がこわい、こんなことが起きて悲しい、という気持ちです。
でもわたしの作文ではそれを伝えることができませんでした。

今もそうです。
だれか複数人で話していて、話題がなぜか広島の原爆に転がっていったとき、きゅっと心が苦しくなります。何か語らなくてはというプレッシャーと、また壁の目で見られるかもしれないという不安がわたしを緊張させます。語ろうとしたらまた原爆ドームの映像が頭に浮かぶので、こわくなります。結局、冷や汗をかいているうちに、話題は別の話にかわっています。語れないのです。

語りたくても語れない、そんなつらさをわたしでも体験するのです。ましてや直接体験したひとのつらさは、想像するにあまりあります。

6.  綾瀬はるかさんが戦争を聞く

「NEWS23」で毎年夏になると戦争に関する特集番組を放送します。

綾瀬はるかさんのこの特集はずいぶん前から続いています。
こちらは原爆特集の記事です。

こわい原爆の話も綾瀬さんと一緒だと不思議と聞けるのです。この番組だけは見ることができます。

けれど、広島にも語れないひとがいることを、2020年8月6日に放送されたTBS『NEWS23』の綾瀬はるかさんの特集でみました。
あの日のことは絶対語らない」という被爆者の方の声が(顔もわからないように声も変えて)収録されています。

やはり決して語れない方がいらっしゃるんだと思いました。
記憶を言葉にできないまま沈めてらっしゃるのだと感じます。
あるいは、語ったことで、とてもつらい目にあわれたのかもしれません。
わかりあえることを絶望してらっしゃるのかもしれません。

7.  理解と愛と信頼

大学に入って言語学の講義を受けた時、衝撃を受けました。

「言語による完璧な相互理解は、存在しない

人間関係の中で抱えたわかりあえなさの悲しみの理由がわかったからです。言葉でわかりあえなくて当然なんだ、と腑に落ちたのです。言葉で完璧にわかりあえないのに、なんとかわかってもらおうとする人間を切なく感じました。

けれども同時に、わかりあえないと知っていても、わかり合うことをあきらめず、言葉を探し表現を模索し続けてきた人間の愛おしさと努力にも触れた気がしたのです。なぜなら、個人的な体験は、そのひとのものにとどまるだけでもないのです。他者の語る記憶なのに、その記憶が自分のものになることがあるのです。

わたしは1945年8月6日の原爆には遭っていません。
被爆者ではありません。
体験していないにもかかわらず、祖父をはじめとする被爆者の「言葉」が目と耳から入って、わたしの心と頭に深く根を下ろしています。原爆の記憶はわたしの存在の奥深くにまで入り込み、二次的に、私自身の体験になっているのです。

なぜそれが可能になったのかと思い返します。

幼い頃、広島の大人たちが明るく朗らかに原爆と死を語り合っていたのは、体験者どうし、お互いにわかりあえるという信頼があったからなのでしょう。
「もしまた原爆が落ちてきたらわたしは走ってあの真下に行くわね」
「ほんまほんま、その方がぱっと死ねて楽じゃ」
この朗らかさは、体験者どうしの痛みの共有だったのだと思います。
体験していないひとにこの話をしたかどうか…
しない気がします。
よその人にはわからんじゃろと心底思っていた気がします。
でも、ちびっこ孫娘のわたしが話を聞いてて、なんにもわからずに、死について質問をしてくる。それをいやとは思わずに、答えてくれた。なぜなのか。

「NEWS23」の取材で、綾瀬はるかさんに話をきかせてくれる方がいたことも思い出します。
インタビューで、綾瀬はるかさんがすてきだと思うこと。
「傾聴」というのか、体験した方の話にじっと耳を傾ける姿勢です。自分とは違う世界とは思わず、壁を作らないのです。
綾瀬さんが、ただ話を聞く、という佇み方をしているので、体験者の方々も、安心して、自然に話ができて、凄惨な体験を話してらっしゃるように感じます。これは原爆に限らず、体験したひとの話を聴くときに大切な姿勢を綾瀬さんが体現してくださっていると感じるのです。

体験や記憶を語るのには勇気が要ります。
けれど話しても大丈夫と思えば、話せることがあるのです。
さらにいうと、体験を語ろうと決意した瞬間、自分の心を開いて、伝えたい・理解してもらいたいという想いがあるのだと思います。
聞き手に対する愛情と信頼と言っていいのかもしれません。

戦前の平和すぎる写真の中にある、川遊びの写真。
会社の裏を流れる川なので、
あの日の8月6日、祖父は逃げる途中にあの川を見たと思うのです。
水を求めた多くのひとが飛び込んだあの川でどんなことをみたのか。
でも祖父は川のことは一切語りませんでした。
祖父にも語れないことがたくさんあったのです。

体験しなければわからないだろうと知りながら
それでも語れる範囲で語ってくれた祖父にも
わたしへの愛情と信頼があったのだと、今思うのです。

語ると聞くの現場には、愛情と信頼が流れているのでしょう。
このひとならと思い、信頼できる相手に心を開いて語った言葉。
そのような言葉は、聴く者の心の底までしみこみ、その記憶を体験していないのに自分の二次的な体験として(擬似体験して〉受け取って、自分自身のものとして保存することができるのです。

だからわたしは1945年8月6日の広島の青空を思い浮かべることができるのです。道に横たわる蝉のなきがらにあの日を連想することができるのです。
それは祖父母と積み重ねた優しい時間のおかげなのだとおもいます。
わたしは、広島の恐怖と苦しみの記憶と一緒に
愛情と信頼もきちんと受け取っていたのだと気付いたのです。

8.  また会いに行くよ、広島

8月6日の夜には、原爆ドームの真下を流れる川で
灯籠流しという催しがあります。
犠牲者の鎮魂を祈る催しです。

広島の灯ろう流しは、手作りのとうろうに
原爆で亡くなった方と流した人の名前を書いて、
追善供養のために川へ流したのがはじまりと言われています。

わたしは行ったことがありません。

灯籠流しは原爆で亡くなったひとたちのものだから、遊び半分に見に行くようなものではありません
祖母がそう言って、兄とわたしに行くことを固く禁じたからです。
なので、わたしたち兄妹は灯籠流しに行ったことがありません。
祖母は亡くなったひとに対して申し訳なさを感じていたんだろうと思います。祖母はあまり語りませんでした。祖父は会社の組合のほうでみんなで灯籠流しの運営に寄付をしていたとあとで聞きました。

その祖父も、祖母も、今はいません。
この話をできるのもいつかわたしだけになるのかもしれません。
このような形で、記憶を継承することもできるのでしょう。
いつか灯籠流しに行く機会があれば、
この色とりどりの灯籠の情景を記憶に刻み、自分の体験にしたいと願っています。

わたしという存在に川のように流れている8月6日の広島の痛みを
わたしも愛と信頼を込めてだれかに語っていきたいと思うのです。

わたしは広島が好きです
おなじ痛みを抱える長崎のまちも好きです

この言葉がだれかの心に届くことを心から信じて
愛と信頼をこめて


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