無題

表層消費文化社会論~タピオカ・映画・令和・安倍政権・スマホ~

 

 

0.目次

1.きっかけ

2.表層、社会、文化、我々の生きる世界について

3.日本における流行の構造。

4.表層消費文化社会

 a.タピオカ

 b.映画

 c.元号・安倍政権

   d.スマホ

5.まとめ

1.きっかけ

 事の始まりは高校3年生の夏、「君の名は。」の試写会に友人を誘ったときからだ。当時、新海誠は知る人ぞ知るくらいのアニメ監督であまりポピュラーとは言えなかった。その監督の映画を観に行こうと友人を誘ったのだが、反応が「えーなにそれ。まぁ付き合ってやってもいいけどさ」こんなものだった。映画を観終わっての感想はそれなりに面白かったと言ったがそこで終わりだった。しかし、夏休みの終わり爆発的ヒットをした「君の名は。」はうんざりするくらいマスメディアに取り上げられた。するとその友人は見終わった直後はほとんど話題にもしなかった「君の名は。」をマスメディアと同じくうんざりするくらい話題に挙げるようになったのだ。ここから私は明瞭に世の中に対して違和感を感じ始めた。

2.表層、社会、文化、我々の生きる世界について

 さて、この表層消費文化論と自分で名付けたこのテーマの前提を述べていく。ただ事実確認的な要素や抽象的な話が続くので、話題の中心的なところのに関して読みたい人はページを飛ばしてもらって3の日本社会における流行の構図から読んでほしい。

 まず我々の生きるこの社会は、大量消費社会である。産業革命以後の大量生産、大量消費は実際にある物から文化も大量に生産し、食らい尽くす時代となった。1年経てばお茶の間に登場する人は変わり、流行りの音楽も変わって行く。インターネット・マスメディアを通じて爆発的に展開されそして収束していく。このような社会に生きている。

 これは何故か。単純明快この社会の大前前提が資本主義だからだ。資本主義社会は鮪に似ている。走り続けなければ死んでしまう。成長を前提とした社会においては停滞は許されない。だからこそ企業はこぞってムーブメントを起こし、消費者に常に新しい物、食べ物、車、人、そして文化までも消費することを奨励し、そして強いる。この構造自体に対する考察はたくさんなされているし、そもそも私の手に負えるようなテーマではないので置いておくことにする。しかし、押さえておきたいのは我々は常に新しいものを求めそれを使うことが至上命題とされているこの状態を知覚しなくてはならない。膨大な知の暴力によって作り出された科学技術によって、社会は加速度的に変化のスピードを上げている。その速度に人間は順応するためじっくり味わうこと、じっくり考えること、じっくり楽しむことを少しづつ手放してきたのだ。効率化という大義名分のもと食事も仕事も、読書も、思考も、そして人間関係ですらスピーディーでかつ効率的なものに変化させられてしまっている。

 

 この資本主義社会は対抗馬として出現した社会主義に勝利を収め、更に膨張と自己強化が行われた。この顕著な例を一つ挙げるならばコストパフォーマンスという言葉だろう。この言葉は元来自動車の製造過程において使われていた言葉が、日常様々な言葉に浸透していることから見ても資本主義の深化が見て取れる。. 

 この前提を踏まえた上で、我々の暮らす現代日本についてみてみよう。

3.日本における流行の構造。

 まず本論に入る前に、日本社会における流行の構造について考察したい。現代の流行りが拡散しだすのは、ネットを経由したマスメディアによる拡散だ。拡散された流行はすぐさま商業化され、爆発的な需要を吸収する為に供給を始める。これがある程度の浸透しきると次第に流行は終息し、新たな流行へバトンタッチする。

 (図はhttps://backyard.imjp.co.jp/articles/buzzwords_2018より引用)

  4.表層消費社会文化論

 「表層消費社会文化」という言葉は私が勝手に作った言葉だ。表面上の流行や表層的な部分を自分のアイデンティティとし中身はさほど気にしないそんな社会を表す言葉だ。抽象的なことを言っていても理解しにくいと思うので、具体的な4つの社会的な要素からこれらを見ていきたいと思う。

a.タピオカ

 タピオカは近年若い女性を中心に大流行している。渋谷や新宿の繁盛店では1時間程度並ぶそうだ。彼女らは一体どうしてタピオカに価値を見出すのだろうか。この行為は「タピオカ」ではなく「流行のタピオカを消費している私」に価値を感じているのだ。タピオカそのものに価値を感じていない。もし、そのものに価値を感じているのならば、もっと前に或いは将来に飲むのではなく今飲むのか。以前にもパンケーキやらチーズハットグやらが流行ったが一体これらに長蛇の列をなしていた人々はどこへ行ってしまったのだろうか。そもそもタピオカ自体はやるのは今回が初めてでないことからも明らかに流行に乗ること自体が主眼に置かれているのは明白な事実だろう。

b.映画

 映画の宣伝を見ると映画の内容というよりは、演じている人気俳優にフォーカスしていることが多い。これはどんなことを指すのだろうか。なぜそこに宣伝の重点を置くかと言えば、それは単純に観客がそこに注目するからだ。これが示すことは以下のようなセリフだ。

「私○○さんの主演の映画『○○』見てきたんだ~」

という感想になる。これは一体どうしたことか。普通映画を見るに際して、役者は映画を構築する一要素でしかない。だが、ここでは主従が逆転してしまっている。俳優>映画の中身という逆転現象が起きてしまっているのだ。つまり、その映画の一部分の「表層」である俳優を見たという「消費」をおこなうわけである。もちろんこの評価軸を非難するわけではないが、あまりにも重点を置く人々多くそして偏りすぎている。

c.元号・安倍政治

 改元が行われ時代は「平成」から「令和」に移った。5月1日の改元、そして元号の発表はどちらもいわばお祭り状態になっていた。しかし、この改元というものの大きな意味が世間からは大きく欠落していたと言わざるを得ない。我々に本来的に必要とされているのは、ただただ改元をお祭り騒ぎ的に迎えるのではなかったはずだ。これまでの「平成」はどんな時代であったのか、そして我々がこれから迎える「令和」をどんな時代にそしてどんな願いを込めるのか、込められているのかをじっくりと考えるべき瞬間だったはずなのだ。それがただバレンタインデーやハロウィーンのような商業的イベントに改元が成り下がってしまっているのは日本人として悲しいものである。
 政治においても表層的理解が目立つ。朝日新聞の世論調査で過去3年の平均では、18~29歳の男性は57・5%が安倍政権を支持している。若者世代が安倍政権を手堅く支持していることは大きな政権の安定化につながっている。(一応断りを入れると支持すること自体には批判をしていない。事実私は安倍政権を消極的に支持している。)ではここに理由はあるのか。経済政策を支持する声が大きいまた、安定感に対する評価もなされている。加えて高卒大卒就職率の高さも大きく支持する要因になっているようだ。
ただ私が普段話していく中で感じることは支持の内容が概ね1つや2つの理由のみであることだ。政治が与える影響は多角的に反映される。長所はあれば短所も存在する。これはどんな政治であっても起こることだ。であれば本来的な支持の理由は「ここは悪いがこれを超えるメリットを提供している。」とか「安全保障政策は他野党と比べて建設的で、経済政策も良い。ただ社会福祉面に関しては野党が良い。」といったような形になるはずだ。ただ実際に聞こえる声にこのような声は少ない。そもそも政治を語ることすら煙たがられ、同世代での意見交換を行わずに単純化された自分の意見を持っているだけに過ぎないのだ。(これで投票に行けばいい方というのが悲しい現実である。)
 無論野党支持者に対しても同様のことが言えるし、特に目立つのは安倍が嫌いだと言うのが出発点の意見が多く見られる。(極端な例としてアベノセイダーズと比喩される人々もいる。)安倍首相への個人中傷しているだけの全く薄っぺらい価値のない主張も多い。これらも表層的と言えるだろう。

d.スマホ

 ここまで見てきたものは現象そのものについてだがこの項ついてはスマホという媒体がもたらす構造的なことにフォーカスしてみたい。

 スマホは我々の生活になくてはならないほど浸透しているツールだ。しかし、このスマホは大量の情報を得ることができるがその量自体や質、深度にはかなりの問題が内在している。一般的にスマホでニュースを閲覧できるようになったこのご時世では、一画面で表示できるように発信者側は意図して編集を行うようになっている。試しにLINEニュース等を開いてみてほしい。おそらく表示される記事は一画面多くても2スクロール以内に収められているはずだ。これは閲覧者側が長い文章を避ける傾向にあるからだ。スマホを4~5スクロールしても続く長文にはおそらく誰もがうんざりするだろう。そのため1つの情報に対する深度が浅く、考察やそれに対する考えなどが削られる傾向にある。

(ラインニュース記事の例、概ね一画面内に収まる記事が多い。)

 上記のような日韓における貿易問題に関する記事を読んで事実関係をさらっと確認するのにはいいかもしれないがそもそもこの問題のバックグラウンドや相関関係これに対する多角的な意見まで記述されているない。これでこの問題を判断するにはあまりにも情報が少ないと言えるだろう。

 このようにスマホ媒体を通した情報摂取は非常に淡白なものになりやすい。

5.まとめと総括

 ここまで表層文化消費社会をかなり批判的に見てきたが、これに私自身も浸っていること自体は否定しない。社会の大きな流れに逆らい自立状態にある人はほとんどいないだろう。だが、現状の社会がどのようにあるかそしてどんな問題点があるのかを近くした状態か無知なのかそこには大きな違いが存在する。例えば、情報が偏らないようにする努力とか、物事に対して常に疑問点を持つとか日々行える抗いはたくさんあるのだ。

 この社会の流れに身を任せてみてもいいかもしれないがその先に何が待ち受けているか見えないままなのは怖くはないですか?

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