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僕が、それをはっきりと認識したのは、たぶん大学生の頃だったと思う。僕は、ずっと神戸で生まれ育った。中学・高校は私立に通っていたけど、仲の良い友だちのほとんどが神戸市内在住(一部、市外の奴もいた)。だから、神戸が好きとか特別に思うことはなかった。

その後、西宮にある大学に進学。実家暮らしとはいえ、初めて「神戸」から出た体験だったのだと今になって思う。関西出身者以外の人たちとの交流も生まれ、もちろん個人差はあれど、生まれ育った土地によって育まれる価値観の違いにも触れた。関西の下町と芦屋の高級住宅街では、全く異なるように。

そうそう、「大学に行った意味ってあったのだろうか」と、僕らくらいの年齢になると、現在地から過去を振り返って自問することがあるという。僕は、間違いなく「あった」。

大学は中高と比べて規模は大きいが、所属するのは狭いコミュニティ。そんな中でも「神戸出身」が当たり前でない環境において、初めて自覚したんだと思う。僕の他には誰も意識なんてしていなかったはずだが、県民性を競うバラエティ番組みたく、「負けたらあかん」と中学ヤンキーのような、わけのわからない対抗心も芽生えていたのかもしれない。実態は僕個人のキャラクターであるにもかかわらず、そこに「神戸」というわかりやすいラベリングをして、アイデンティティを発信していた節もある。

そうすると不思議なもので、神戸がどんどん好きになっていった。僕は未だに海外を旅したことはないが、自国を愛するためにも外国を知る必要があるというのは、あながち嘘ではないだろう。

大学を卒業した僕は、とある企業に新卒で入社した。営業職として配属されたのは、愛知県一宮市。結果から言うと、3か月で退職した。理由はいろいろあるが、別に良い子ぶるつもりはなく、僕の未熟さゆえのことだったと思う。

退職後に新たに勤め始めた会社でライターとしてのキャリアをスタートさせたことが、今につながっている。勤務地の大阪からの帰り道、三宮の風景を見て「ここで生きていくんだ」と噛みしめたことを思い出す。

その後、リーマンショックの煽りを受けた不況などで転職し、一時はライター業を辞めようとしたが、「神戸の活性化」を標榜するwebサイトと出会い、同じ道に戻ってきた。

僕は、「神戸」に救われている。別に、このようなエピソードがなかったとしても、自分を育ててくれた街だ。そして、今は家族や娘たちを見守ってくれている。「神戸愛がある」。そう自信を持って言える。

ただ、好きだからこそ、残念な部分が透けて見えてしまうこともある。神戸は、順調ではない。何となくのふわっとしたオシャレなイメージを良しとする市民性は、見せかけのブランディングに弱く、神戸に幻想を抱き続けたままだ。それに、何かにつけて25年前の震災を言い訳にする傾向もある。時代は変わった。神戸が変わるには、僕たちが変わらなければならない。

でも、憎めないどころか、やっぱり好きなのだ。神戸市民の多くが、そう感じていると思う。神戸の街や神戸市民が秘めるポテンシャルはこんなもんじゃないし、もっともっと魅力をアピールできるはず。

僕には叶えたい夢がたくさんあるけど、そのひとつが「僕の小説が映像化されて、すべてのロケを神戸で行う」というもの。例えば、僕が以前に発表した小説『スマバレイの錆びれた時計塔』の「スマバレイ」は「須磨」から来ている。

僕の創作活動が、神戸の活性化に貢献できたら素敵やん。そのためにも、僕や作品を知ってもらうことから、ひとつずつ。


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