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専門性の落とし穴:看護職の場合

今日は、専門性を高めることが、必ずしもその専門職のサービスの質の向上につながるとは限らないというお話です。

皆さんは「専門性」という言葉を聞いて、どのようなことをイメージしますか。

多分多くの人は、「責任ある仕事」をイメージするのではないでしょうか。

看護職も医療専門職の一つですから、当然「専門性」を追求すべき仕事です。

でも、専門性を協調するために、看護職にとって大切なことが忘れ去られてしまうことがあります。

この話は、看護職に限らず、どの分野の専門職にも、あるいは仕事にも当てはまると思います。参考にしていただければ幸いです。

今日のメッセージは
「専門性=科学的ではない。相手の状況を判断するには、客観的データだけではなく、全体を見て自分の蓄積した「勘」も大切にすべきである。」

看護職の教育の変遷


看護職(看護師・保健師)の教育レベルは近年上昇し、2022年の看護師の国家試験を受験した人のうち、4年制大学卒業者は37.3%と4割近くを占めています。

1998年は大卒がわずか3%ですから、20数年で大卒の看護師の割合が飛躍的に伸びたことになります。

これは、看護職の間で、看護職にも幅広い教養が必要であること。そして、専門学校の3年間では一般教養科目を十分に学ぶ時間が少ないために4年制の教育課程が必要という認識が高まったからです。

もう一つ専門学校から4年制大学への移行を促した理由があります。1990年当初において、日本では、看護学は医学と異なり、その専門知識の体系化が遅れていました。

看護師は科学的根拠をもとに、判断してケアを行うと言うよりも、長年の経験とその経験から得られる勘に基づいたケアを実践していると、言われていました。

専門職である以上、エビデンス(科学的根拠)に基づいたサービスを提供することが求められるのは、世の流れでした。また、そのケアに対する説明責任も強調されるようになりました。

このような背景の中、医師と対等にパートーナーシップを組むためには、看護師にも、科学的な分析結果に基づいて判断・実施できる、そしてそれを、理論的に説明する能力が求められるようになったのです。

看護はサイエンスとアートで成り立つ

しかし、看護は科学だけで成り立つものではなく、実はその対局とされる「アート」も必要であると言われます。

ここで、科学とアートの違いを簡単に説明します。

科学とは、看護職が患者の病状や、住民の抱える問題についてアセスメント(判断)する時に、科学的な根拠、つまり、検査データなどや当人への聞き取りにもとづた情報を、ある一定の基準をもとに判別された情報を用います。

その結果、今までの実験や調査から、有効であると言われるケアや支援を提供するということです。

一方、アートというのは、上記のような科学的な根拠を説明することはできません。これは、看護師個人の多くの蓄積された経験をもとに、その患者や住民の状態を判断して、かつ多くの蓄積された経験をもとにして、ケアや支援を提供する、というものでう。

この科学とアートの根本的な違いは、大きく分けて2つあります。

一つは、部分に分けてみるか全体をみるかの違いです。科学は人間の病状や、問題について、それらを構成している要素を分解し、その要素一つ一つを厳密に調べていきます。

一人の患者さんの病状を理解の場合で見ると、その患者さんの病状をその患者さんの全体的な様子から理解しようとするのがアートです。逆に、血液検査を始め患者の体の部分部分に焦点をあて、多様な検査データからそれらの部分で何が起こっているのか、理解しようとするのが科学になります。

もう一つは、その技術を取得するまでの時間の違いです。

科学は客観的データを用いますので、その結果が正常が異常かを読み取ることに、それほど年季を必要とはしません。一方、そのような検査データを用いずに、患者の全体を見て、「あれ、この人おかしいな」と気づくのは、長年の経験の蓄積が必要ですから、年季がかかります。

このように科学とアートは相反する特徴を持つのです。

科学は万能ではない

ただ、科学が必ずしも正解を教えてくれるわけではありません。検査値が異常値を示しているからといって、必ずしも体で異常が起こってわけではありません。あくまでも、検査の異常値は統計的に何らかの「異常をきたしている」可能性を示しているだけです。

ここの専門性の落とし穴があるように思います。

ここで、具体的に私が遭遇した看護師が科学的判断だけに頼って、患者に適切なケアができなかった場面をお話しします。

これは、私の母が心臓の手術の後、病院に入院していた時のことです。

母は手術の前から徐々にですが、肺の奥の肺胞という酸素と二酸化炭素を交換する数多くある小さな器官の一部が働かなくなっていました。

そのせいか、母はいつも「息が苦しい」と看護師に訴えていました。

しかし、パルスオキシメーターで測った母の血中酸素濃度はいつも正常値でした。看護師は、それを見て、母の必死の訴えにもかかわらず「大丈夫です」と取り合ってっくれませんでした。

あまり「息苦しい」と訴えるため、逆に看護師たちは母に「わがままで困った人」としてレッテルを貼ってしまったのです。

結果、母は看護師とうまく関係を作れず、医師の反対を押し切って早々に退院し、自宅に戻ることになりました。

自宅に帰って、開業医の往診を受けた初日、医師は母の様子を見て、すぐに「お母さん苦しいんじゃないですか」と声をかけてくれました。

私は、パルスオキシメーターでは正常値であることを告げました。

すると、医師は「でも、お母さんこんなに苦しそうではないですか」と言って、カルテを見て、パルスオキシメーターの値は気にせずに、酸素吸入をすぐに始めてくださることになりました。

母は、その後、徐々に息苦しさを訴えることが少なくなり、落ち着いていきました。

往診の医師は、科学的ではなく「アート」の部分を働かせ、つまり、母の全体の様子を見て、自分の経験からここでは酸素が必要である、と判断したのです。結果母は苦しみから解放されたのです。

経験の蓄積に基づいて身に付くアートは大事

経験に基づいたケアは、その根拠を科学的に説明できないので、従来「否定的」な取り扱いを受けてきました。

たしかに、考えることなく、機械的に積み上げた経験からは、先の医師の判断のような「アート」を生み出すことはできないと思います。

しかし、一つ一つの経験を、試行錯誤しながら、常に改善しつつ、蓄積した経験は、これは科学的判断をまさるものになりうる、と私は思います。

しかし、上記に書いたように看護職は科学的知識体系の確立が遅れていることから、科学性を追求してきました。それがイコール専門性であるかのように錯覚してしまいがちです。

大事なのは、その積み上げてきたものを、他人に理論的に説明できるように、研究を積み重ね、エビデンスとして蓄積していくことです。

ただ、エビデンスがないからと言って、科学にだけ頼るのは、患者を苦しめることになりかねないと思います。

看護職をはじめ、対人サービスの職種は全て同じだと思います。科学を優先して、分解された部分だけを見て判断するのではなく、常に人を全体としてみて、判断していくことが大事だと思います。

ということです
ではでは




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