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一度、人生を終わらせたことがある

英語を勉強しようと思ったきっかけ
様々な理由があると思います。
衝撃的なキラキラした出会いがあった、
仕事の為、進学の為…

英語を学習することは、人生に新たに加わったオプションであり
更に人生が広がった事でしょう。

私はというと
英語と生きるという選択は「人生の選択」でした
人生が広がったというよりは
新しい人生として選んだのです。

今回は、
私自身の英語と出会って結婚まで至った話。
ちょっと「普通」ではないのですが、人生観のご参考になれば幸いです。

事故で下半身不随(対麻痺)になる

私は24歳の時、事故で車と正面衝突し、おへそから下が麻痺しました。
骨盤(恥骨部)を粉々に粉砕しベッドの上で何か月も過ごしました。
体をひねっても、上半身しか付いてきません。
次第に骨と皮だけの下半身となり、車いす生活必須でした。

最初は絶望でした。
でも、あることがきっかけで
事故後1ヵ月ほどで前向き思考になりました。
車いすでもバリアフリーの生活で生きていくことが出来る、とポジティブになれたのです。

そのきっかけとなったのが、入院中に見たニュースです。

当時、渋谷の温泉施設で爆発事故が起こりました。
休憩室に居た従業員の方々が死亡・重症、通行人も巻き込まれ重体となったのです。

車と正面衝突をした私は生きている

一般的に安全である屋内・道を歩いていただけの人は不幸にも命を落とすとことになったのです。
運命ってなんだ、と考えさせられたのです。

その後、幸運なことに、私の足の親指が動いた!のです。
私の両下肢の神経は損傷していなかったと分かりました。

リハビリに励んだところ、骨と皮だけの足でも立てるまでになりました。
生まれたての小鹿の様に、プルプルで。
前へ足を踏み出す感覚さえ忘れていました。

このことをきっかけに
人生はプランB・Cまで準備することを学んだのです。
今生きている環境がガラッと変わる日がいつか来るつもりで生きていくこと。その日の備えを準備することの重要さに気付きました。

人生観が変わり、広がった世界

私には6年付き合っていた警察官の婚約者がいました。
結婚目前での事故でした。

彼は、生活費の心配はいらないから、働かず専業主婦になってほしいと言う人でした。事故後も「車いすでもいい」と言ってくれ、私の心のより所でした。
私のもともとの人生プランは彼との結婚・専業主婦でした。

ただ、私の人生観は事故を機に変わりました。
骨盤を砕いたため、医師にも、妊娠後の骨盤の広がりがどうなるか分からないので、可能であれば少なくとも3年は妊娠をしない方がいい(医師の個人的意見)と言われ、納得した私は、その3年を自分の将来のプランBの為に有意義に使おうと思ったのです。

それまで動物病院で看護師兼トリマーをしていましたが、

ライオンカットしたポメ

人間の(笑)看護師に3年あればなれると思い、人生プランBとして受験を決意したのです。リハビリ通院中にその年の入試が終わってしまったため、翌年受験するつもりで、1年は友人の紹介で就職した金融系の企業で勉強・営業をしながら受験勉強をしていました。(大学に落ちたらそのままFPの道も考えていた)

そして、会社から取らされるFPの勉強、保険系の勉強、センター試験の勉強をしていたとき、気分転換で行った県境の峠で、バイク事故(自損)でケガをしたアメリカ人(現夫)と出会ったのです。

そのアメリカ人は日本人を混ぜた3人でツーリング中だったようで、バイクも壊れていました。私は英語が出来ませんがバイクのことは自分でいじるため、そこそこ分かります。パーツは英語なので、日本人の方(英語はできてもバイクの知識は無い)を通してバイクの話が通じました。彼らは夜に用事があり、その日中にバイクを直さないといけなかったようで、壊れた部品を注文して待つのは非現実的で、その日に何とかしないといけませんでした。

結局、英語が通じなくても、そのアメリカ人にはバイク用語だけで、私の伝えたいことが伝わり、2人で夕方までにバイクを直すことが出来ました。

結局、それっきりのつもりが、そのグループと関わるようになり、FP・仕事の勉強と受験勉強に加えて、英会話(電子辞書買った)が加わり、人間って脳みそを切り替えることができるんだなぁと思ったのでした。

送られてきた英語メールは翻訳機通りにはいかず、いっぱい調べて、30分-1時間かけて返事を送るのですが、その2分後には返事が返ってきます。
スパルタか!な状況でサバイバル英語でやりとりをしていきました。

そこで、基本家にいてほしい婚約者は、ほぼ毎日会っているにも関わらず、それ以外の時間を忙しくしている私のことを良く思ってはくれませんでした。(彼はもとから私がバイクに乗るのを許していない)
海外旅行が好きで、銀行員を止めて准看学校に行った婚約者の母は、私を心から応援してくれたのですが、彼はいつでも不機嫌でした。

安定を捨てた時

婚約者の彼はいわゆるステレオタイプな日本人です。
自分の知らない物や、人がすごいという物は否定から入って持論を展開します(もともとジャーナリスト志望で、部屋は壁一面の本棚、床にまで本が積みあがっています)

私が新しく得た情報を嬉しそうに報告しても、「あのねぇ、それってね」と、流行りの言い方で言うと「論破」されるのです。

そんな彼と6年いた私は自己肯定感は深海生物なみに深いところに居ました。そうだよね「私なんて」と思っていました。

しかし新しい仕事で信頼を得て、良い成績を収める様になり、アメリカ人の友人達からはすごいじゃん!と認められ。私の「個」は開花したと思いました。

私は、今勉強しているFPまたは看護師、英語も頑張れば、自立できると思い、公務員の専業主婦という安定から飛び出したくなったのです。

加えて、私と長くいることが、婚約者の視野を狭めていると考えるようになり、「彼も私の様に違う世界をみるきっかけ」になれば、と別れを切り出したのでした。

今の私には何もないけれど、思っていた人生を捨て、リセットしたのです。


自分が作るあたらしい自分

その後、FP試験前に、看護学校の合格の通知を受け、FP熱が冷めた私は勉強を一切やめてしまい燃え尽きました。
今思えば、受けておけばよかったなぁ…(笑)

このとき、例のアメリカ人(現夫)は日本/アメリカ国際交流ボランティアのスタッフとして活動しており、誘われてわたしも参加するようになり、ますます英会話に力を入れるようになりました。
(もっと前から誘われていましたが、英語が出来ない恥ずかしさから、毎回断っていました)

そのままスタッフを頼まれ、そのアメリカ人と二人でボランティアを引継ぎ、学生生活と合わせて、活動やイベントに関わるようになります。(彼はボランティアを掛け持ちしており、私も様々なボランティアに付き合いました)

いちバイク仲間だったアメリカ人とさらに親密になり、結果2人は付き合うのですが、彼は転勤の都合でアメリカに帰国することになりました。

スタッフという彼の置き土産を引継ぎ、通訳をお願いしていたボランティア参加者さんに、今では私が通訳出来るまでになりました。

その後、私は無事に看護師になり日本の病院で就職。
彼もまた本国の仕事に区切りをつけて(すべてを片付けて)日本にやって来たのです。

日本語の勉強位してくるかと思いきや、以前も同僚や周囲が英語対応だったため、ま~~~ったく日本語を知らないままやって来たのです。

新人の看護師って(当時は)、毎日勉強、終電近くに帰り、早朝出勤です。
そこに日本語を話さないアメリカ人がやってきて、いろいろと世話をするのです(笑)カオスでした。

でも、今までは元婚約者主体で、頼り切って生きてきた自分。
今では、一人の自立した人間として行動できていると実感するのでした。

気付けば夫と出会って14年、結婚10年。
どんどん人生が面白くなってきました。
今の私は、人生のプランBをエンジョイ中。

一度は終わった人生、ご先祖様か神様がくれた第二の人生。
もう何も焦るものはありません。

今の仕事でも、沢山の方と出会い、または永遠のお別れもあります。
今ある自分の命に感謝し、一日一日を大切にしています。

自分の子ども達には、私の経験が活かされるよう、
可能な限り人生の選択肢をあげられるようにしたいです。

英語(だけに限定しませんが)を勉強してどうなるの?
親に勉強しろと言われて疑問を投げかける子どもたちに言いたい。

人生は何があるか分からない。
知恵と経験がいつかあなたの人生を救うからだよ。


ここまで読みずらい話を読んでいただきありがとうございました。
外国語に触れて人生が変わった方、沢山いると思います。
私もその一人でした。
(もちろん事故もありますが 笑)
苦労はあるけれど、勇気を出して選んでよかったです。

今英語を学習している方へ
その努力や葛藤が実ることを祈っています☆彡

次回は、私と夫の10年来の友人夫婦のプランB生活・育児。
興味深いので紹介したいと思います。





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