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過去最多9699人/24961、「中止」直面ショック、プロアマ考の死角~655日目

 都内新規感染、3日連続過去最多の9699人/24961、都基準重症者11人(∔2)、死亡発表なし
 病床使用率31.5%(2,177人/6,919床)、都基準重症者用病床使用率2.2% (11人/510床) 
 全国新規感染4.9万人超、4日連続過去最多

施設に着いたら中止だった……

 今日は、この後のnoteをだらだら書いておいて、夜のイベントに出かけた。ところが、着いたら中止だった。コロナの関係。ショック!
 わかってはいるが、ショック。脱力してしまった。。

 皆さまのご健康を。。
(以下はあらかじめ書いていたもの)

無職で暇ならそれなりの

 以前は自宅近くのヨガ教室にも通っていた。月に1万円くらいはする。
 ここ1、2か月、コロナ化と正月太りで身体が大変なことになった。スポーツジムなど探し、いわゆるパーソナルトレーニングジムの広告を見て「お高い」とため息。他人から見られて管理されないと痩せないシステムなのだ、それも一理あるが(人間はさぼる)。でも、これは一線でバリバリ働いている人が、そのご褒美に、仕事や家事の忙しい合間に通うところだよな。。
 今は無職で、暇。ならばと、少しチャリを走らせねばなるまいが、自治体施設のプログラムを見つけて時々行く。一回数百円。なんか、これでいいのではないか? もっと家に近ければもっと通うのだが。

ずぼらヨガ、1日目

 ところで、家に結構前から「ずぼらヨガ」の本が転がっていた。1111円∔税。コロナ禍に入って、ドンキで買った1000円くらいのヨガマット……を放置していた。
 で、一週間ほど前に「ヨガポール」というか「ピラティスポール」を、これは3000円前後したがネットで買う。これは直径15センチ、長さ90センチの円筒形。使い方はいろいろあるようだが、とりあえず頭から腰まで乗っけて手足を伸ばし、ゴロゴロするだけでも、背筋がやや痛気持ちよく伸びていいのだ(自治体のプログラムで使っていたので味をしめた)。

右が、長さ90センチのヨガポールだか、ピラティスポールだか

 部屋の奥まで差し込む冬のあったかい日差しの下で、プログラムで習った足指いじりをし、本を片手に我流ヨガ。いい感じ。あ、これでいいんじゃないか。。瘦せはしないが。
 しばらくは、自治体施設と、この我流組み合わせにしよう。

高山明『テアトロン』で気づく、演劇プロアマ自論の死角

 時折つらつら、素人なんだが、アマチュアなんだが、「演劇のプロアマ論」を考え、とりとめもなく書いている。
 で、最近、オンラインで話すのを見聞きして面白かった、高山明(演出家、アーティスト)の『テアトロン』(河出書房新社、2021年、3135円)にざっと目を通す途中で、混乱し続ける自分の演劇プロアマ論の死角に気づいた。死角、というか、考える前提を整理して分けないと混乱し続けるだけ、ということにやっとこさ気づいたのだ。

ギリシア悲劇、ブレヒトなどを、自分なりにとらえ直せる

 ちなみに、高山明『テアトロン』は、あいちトリエンナーレで、展示への抗議の電話を受ける『Jアート・コールセンター』に始まり、ピーター・ブルックへの感動に始まった自分の演劇史(挫折含む)とギリシア悲劇、ワーグナー、ブレヒトを語り、最後は自らの『ワーグナー・プロジェクト』へとつなぐ。ワーグナーが「集中!」の劇場を作り、「政治の芸術化」をナチスに利用されてしまったのに対し、高山はブレヒトに近く、観客をメーンに考え、演劇を街の中に拡散させていく。まあ、ざっとそんな話としておこう(もう一度ちゃんとまとめ直したいが。。)。
 おお、なんだか、これまで勉強してきたことがいろいろつながった気がして、うれしい。一応、ギリシア悲劇、アリストテレス、ワーグナーのバイロイト祝祭劇場、ブレヒト、アウグスト・ボワールなどをあれこれかじってみている。それらが、もちろん高山流であるが、自分にとっても、まとまっていて参考になる。演劇史、歴史を勉強することの意味を再確認できる。

演技の勉強はしても演劇の勉強はしていない人が多いのでは

 ……で、ここから先は、多分、そんな気がしてあえて書くが(以下暴論)、お芝居している人たちの中で、演劇とは何か、や演劇史などを勉強し、日々ブラッシュアップしている人は果たしてどれくらいいるのだろうか、という疑問がわいている。
 特に、俳優(役者)に関しては、演技の勉強や練習はしているが、演劇の勉強を系統的に専門的にやってる人はそんなにいないのではないか。日本では、演劇の「学校」を出なくても俳優になれるし(外国では一定の学校やスタジオを出るのが職業的俳優の条件のところも多い)、「劇団」「事務所」に入れば芝居はできて、そのうちお仕事になる人もいて、そのうちの何人かはプロと称するようになる。。
 仮に「演技のプロ」と言えたとしたも、「演劇の専門家」と呼べない人が少なくないのではないだろうか。

演出の意図を的確にくんで『上手い』演技をする役者、にあまり興味が持てない……

 自分は、舞台を見て感動することはまずなく、むしろ「感動させようとする罠にはまってたまるか」と斜めに構え、「これは何をいいたいのか」「これは上手いのか」「この構成は下手だ」みたいなことを常に考えて観ている。「演出の意図を的確にくんで『上手い』演技をする(だけの?)役者」(多分、通常は高評価)に関し、もはやあまり興味が持てないのだ。いや、自分が演技の勉強をするときには参考にするが、「それだけ」で、演劇をやってることになるんだろうか。
 ただ、通常は高評価のそうした「演出の意図を的確にくんで『上手い』演技をする役者」を目指すのが(あるいは演出に使われる役者を目指す)、役者の道、と思っている人も多いだろうから、何か、その前提が違う。
 1.売れるからプロ
 2.前衛的、先鋭的、革新的方向を探求する専門家
 の違いなのか。うーん、まとまらないが。。。
 そうそう、こういう七面倒なことを言い出すと、それだけで「素人のくせに、偉そうなことを言って生意気な」と見られそうな。もとい、専門的な勉強などが苦手で、「身体を使うから」と役者の道に入る人も少なくなさそうで(勝手な想像)、そうすると、ひたすら「演技の勉強」「人脈構築」にまい進する人もいそうだな。。

「演技」を経験則(だけ)で伝えられる物足りなさ

 ちなみに、自分も「演劇は観客のもの」派なので、そもそも「演劇はやはり食えない」もの、の気がする。その場合の「プロ」とは、たとえば公共劇場などで、市民に演劇の場を提供し導いていくファシリテーターとしては考えられるが、その場合はその人なりの「演劇論」(構築中であっても)があってほしい
 そうそう、商業的な「売れる」プロの道半ばで退いた形の「(元)(自称)プロ」が、自分が教えられてきたやり方を経験則としてひたすらアマチュアに教えるのは、なんだか、自分は物足りない。もしかすると他の人はそれで充分なのかもしれないけど、自分は物足りないのだ。滑舌も発声もリアリズム演技もダンスも所作も台詞回しも、それはそれでいいのだけど、ある程度のレベルはやるべきなのだろうが、でも、それだけでは、多分自分は物足りないのだ。
 ある意味、それが日本の演劇の現状で、それを学んでいるのかもしれないが。。

探求心、のある人から学びたい、盗みたい

 できないだろうけど、何か、違う世界を作りたい、せめて見てみたい自分は、動かないといけない。。そう、探求心。かな。それがある人から学びたい、盗みたい。。

社会を見ない人間に演劇は作れない

 そうそう、演技はいろんな作品や原作を演じること・知ることで磨かれるかもしれない。でも、それだけでは絶対的不足だ。演劇は、演劇の世界のものではなく、社会そのもの。社会を見ない人間に演劇は作れない。
 演劇の世界に閉じこもり、その世界でだけ息ができる、とばかりに自己主張し、承認欲求を求め続ける人が苦手なんだと気づいた。。

 まあ、社会に叩かれて逃げてもいいんだ、そのネタを演劇にすれば。

 偉そうに書き綴った。だから嫌われるのだ。

プロの職人か、専門家か

 あ、また思いついた。
 プロの職人か、専門家か。どっちが偉いとか偉くないかではない。狭く深くか、広く浅く(とは限らん、たまに深く)か。で、自分は後者になりたいのかもしれない。で、前者に嫌われているのかもしれない。でも、演出などは後者の専門家視点、俯瞰の視点がないとできないと思うのだが。如何。

演劇の「職人」は全体を探求しなくてもいいか

 東京タワーを作った職人さんをリスペクト。その職人さんの場合、タワー全体の設計、構造設計、都市計画における位置づけを仮に知らなくても「いい仕事」ができる可能性があるかもしれない。
 では、演劇はどうか。全体を知らず、特に探求せず、演出に全部ゆだねて、あるいは抵抗せず、演技のみをひたすら磨き上げれば、それは「いい仕事」なのか。照明さんや音響さんの場合はどうなのか。ああ、またこんがらがる。いや、一部の人の話をしているのかもしれん。
 全然まとまらんが、とりあえず、ここまで。

 皆さまのご健康を。



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