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「“エルサレム王国“の首都アッコ、そしてライオン・ハートとマグナ・カルタの数奇な繋がり」世界遺産の語り部Cafe #11

本日は、

イスラエル🇮🇱の世界遺産【アッコの旧市街】、そして【リチャード獅子心王とマグナ・カルタの関係性】についてお話していきます。


 

エルサレムではないのに“エルサレム王国”?


ローマ教皇によって呼びかけられた第1回十字軍によって、奪還された「エルサレム」にはかつてエルサレム王国と呼ばれる国が建国されました。

エルサレムに侵攻するサラディン

しかし、アイユーブ朝の英雄「サラディン」の活躍により再びエルサレムを失った十字軍国家は、その後パレスチナ海岸部に追い詰められながらも、何とか踏み止まっていました。

「アッコ」“エルサレムを失った後のエルサレム王国の首都”で、十字軍国家にとっては最後の拠点となったイスラエル北部の街です。

アッコ旧市街

つまり、ある時期からエルサレムではないにも関わらず「エルサレム王国」を名乗っていた訳で、ローマではないにも関わらずローマを名乗っていた神聖ローマ帝国に通底するものがありますよね。

アッコ旧市街の地下には、十字軍の主力として活躍した「聖ヨハネ騎士団」の遺構がほぼ完全な状態で埋もれています。

アッコ市街に見られる十字架

騎士たちの集会場や宿泊施設などは良好な状態で残され、十字軍都市に関する貴重な資料となっています。

第3回十字軍 by "ライオン・ハート"奮闘記


アッコを占領した第3回十字軍の中心的な存在は、「獅子心王(Richard the lion heart)」の異名で呼ばれたイングランド王リチャード1世でした。

英語の慣用句で"勇敢な心"を意味する「ライオン・ハート(lion heart)」の、語源となった人物です。

“獅子心王”リチャード1世



第3回十字軍には、リチャードを筆頭に神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世、フランス・カペー朝のフィリップ2世、オーストリアのレオポルト5世など錚々たる顔ぶれが揃いました。

フィリップ2世
レオポルト5世
フリードリヒ1世

ところが、4国の王たちはとにかく不仲でした。

エルサレム遠征の道中、すでに仲違いが始まったことにより、単独行動を取り先陣を切ったフリードリヒは"川で落馬して溺死"してしまいます。

一方でリチャードは、フィリップ、レオポルトらと共にキプロス経由で迂回して1191年に港からアッコを陥落させます。

アッコの港

しかし、アッコ陥落後、レオポルトが自身の功績を誇示しようと掲げた旗を、リチャードの側近が叩き落としてしまいます。

激怒したレオポルトは帰国してしまい、まもなくしてフィリップも病を理由に帰国してしまいました。

“気を付けろ、悪魔は解き放たれた”


リチャードが王位に就いた10年の間、イングランドに滞在していた期間は、たったの6ヶ月でした。

生涯において戦争に明け暮れたリチャードに代わって、イングランド国内は弟のジョンが代行統治していました。

リチャードがエルサレムを目指してサラディンを相手に奮闘を続ける間、フィリップは神聖ローマ帝国と結託し、リチャードの弟ジョンを王に擁立してリチャードを引きずり下ろそうと画策していました。

レオポルトは、休戦して帰国途中のリチャードを捕らえて神聖ローマ帝国に引き渡し、イングランドから多額の身代金をもぎ取ってリチャードを解放します。

この時、フィリップがジョンに向けて書いた手紙の文面には"気を付けろ。悪魔は解き放たれた"と書かれていたと言います。

イングランドに戻ったリチャードは、ジョンを屈服させて王位を回復させました。

首都アッコの陥落とオスマン帝国の到来


結局、第3回十字軍がエルサレム奪還を果たすことはありませんでした。

リチャードらが占領してから約1世紀の間、十字軍が拠点としてきたアッコも、1291年についに陥落の時を迎えます。

アッコの陥落

それから長らく廃墟化していた街を復興させたのが、18世紀半ばにやって来た「オスマン帝国」です。

オスマン帝国がやって来てからのアッコは、ムハンマドの「聖遺物」である毛髪が納められた「アル・ジャッザール・モスク」や隊商宿などが立ち並ぶ、オスマン帝国の色合いを残す街並みへ生まれ変わりました。

アル・ジャッザール・モスク


ジョン欠地王とマグナ・カルタ

リチャードの弟であるジョン王はフランスの侵攻によりノルマンディーの領地を失ったことで、「ジョン・ラックランド(ジョン欠地王)」の不名誉な烙印を押された王としても知られています。

ジョン“欠地王”

そのことで「ジョン」の名は忌み嫌われ、その後のイングランド王で「ジョン」を名乗る者は未だに現れていません。

ジョン王の無能ぶりに民衆の怒りが頂点に達したことが発端となって制定されたのが、王権を制限する「マグナ・カルタ」です。

マグナ・カルタ写本

マグナ・カルタの写本は現在、イギリスのソールズベリー大聖堂に納められています。

ソールズベリー大聖堂
ソールズベリー大聖堂のマグナ・カルタ

マグナ・カルタは、制定から数世紀の間、その存在は蔑ろにされてきましたが、17世紀に英訳されたことをキッカケに再び脚光を浴びて、後の大きな革命運動へと繋がっていきます。

ソールズベリー大聖堂には、私も友人と一緒にストーン・ヘンジを訪れるついでに、立ち寄ったことがありました。

十字軍に明け暮れた獅子心王に、革命の発端となったマグナ・カルタ、歴史的な出来事の一端を肌で感じたのを覚えています。

【アッコの旧市街:2001年登録:文化遺産《登録基準(2)(3)(5)》】



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