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『こちらあみ子』(今村夏子著) -ちくま文庫

『こちらあみ子』が単行本で出たのは、2011年1月。平成でいえば、23年のことである。とある大型書店の書棚で、カバー絵の鹿のような不思議な生き物のオブジェ(今、検索をして、あの生き物は「麒麟」なのだと知った)の静謐な表情に惹かれて、手に取ったことを覚えている。

「あみ子」が道ばたのすみれを掘り出したところへ、友だちのさきちゃんが竹馬にのってやってくる冒頭のシーンを読んだだけで、この物語は「特別」だと強く感じた。そして、いつか落ち着いたら読むことにしようと思って、書棚に戻した。その頃、ちょうど仕事が忙しい頃で、本を読むためのまとまった時間がとれなかったのである。それから2ヵ月後、東日本大震災が起こった。その影響もあって、仕事がさらに繁忙を極めることになり、「あみ子」のことは記憶の底へと沈んでいってしまった。

「あみ子」と再会したのは、それから3年後、平成26年6月。ちくま文庫の新刊コーナーに、あの不思議な生き物のカバー絵が並んでいた。記憶の底から、冒頭のシーンを読んだときの感覚がよみがえってきた。「いつか」がやってきたのだなと思い、今度は迷わず購入した。読み始めたとたん、ページを繰る手がとまらず、一気に読み終えてしまった。その時も相変わらず仕事に謀殺され、まったく落ち着いた状況ではなかったのだが。

冒頭のシーンの「あみ子」は大人で、祖母と田舎で二人暮らしをしているのだが、本編は、小学生の頃へと時間が巻き戻される。父、兄、書道教室を営んでいる継母との3人暮らし。憧れの同級生のり君。小学生の「あみ子」を取り巻いているのは、ごく普通の日常世界だ。ただ「あみ子」があまりにも純粋すぎることを除いて。

「あみ子」は、自分の感じたままに行動し、まわりの人々に語りかける。その振る舞いは、「あみ子」にとっては首尾一貫しているのだが、常識を大きく逸脱しており、人々をとまどわせ、怪しまれ、疎まれ、時に激怒させる。さまざまな出来事を経て、結果的に「あみ子」をとりまく日常世界は壊れてしまい、物語は、冒頭のシーンへと還っていく。

『こちらあみ子』は、やはり「特別」だった。それから、僕は、今村夏子が作品を発表するたびに、躊躇なく初出の媒体を手に入れ、読み続けている。久しぶりに文芸誌を買い、「電子書籍」の形態で出版されている雑誌も初めて購入した。そして、平成を終え、令和を迎えてからも、今村夏子をずっと追い続けることになると思う。

今村夏子の書く物語の主人公は、その多くが「あみ子」的な純粋さを共有しており、現代社会における「わたし」たちの「生きづらさ」を描いている、といった視点で語られることも多いように思う。しかし、僕が強く惹かれるのは、そういった視点からではない。今村夏子は、「あみ子」的な純粋さによって、日常世界を解体し、「あたらしい世界」へと組み直していく。その過程において、「わたし」たちの「生きづらさ」などは無化され、そのような価値観を越え出た、広々とした虚無の中に投げ込まれる。そして読み終えたとき、僕はいつも「信仰が生まれる瞬間」に立ち会ったような気持ちになるのである。

『こちらあみ子』が太宰治賞を受賞したときにつけられていた原題は『あたらしい娘』である。タイトルとしては平凡に思えるが、そちらの方が、今村夏子のつくりだす物語の本質をついていると思う。「あみ子」的な純粋さ(それは、人間存在のもつ原初的な野蛮さでもある)をもつ主人公たちは、みな「あたらしい世界」への地平をひらく「あたらしい娘」なのだ。

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