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40歳からのプレミアム人生

安子さんはなぜ仕事をするの?

"仕事はするもの"
私に刻まれたのはおそらく14歳の時かと思う。
「ちょっと行ってくる」そう言って病院へ向かった父は、2か月後、あっという間に逝ってしまった。
末期の食道がんだった。
このことによって、母の人生も私たちの生活スタイルも一変した。
昭和の妻をしていた母は、10円ハゲをつくりながら3つの仕事をかけもちする仕事人となった。

環境が及ぼす影響力は大きい。
「人生、何が起こるかわからない。だからずっと仕事はすべき」
この時、私の中に X=Y ができたのかもしれない。

会社を辞める勇気が、ない

社会人になった私は、気づけばいつも人に関わる仕事をしていた。
それも 初、初、初 のことばかり。

3社ほど務めた会社その1では、文具業界初の女性セールスレデイ誕生と業界紙にも載るほどだった。
ただし、男女雇用機会均等法施行前のこと。
「お前が女じゃなかったら買ってやるのに」
「お茶のひとつも入れられない女は嫁にもいけないぞ」
今ならアウト! の言葉の数々はあたりまえのように行き交っていた。

2社目は人材派遣会社。                       職安と何が違うのか? 労働者派遣法制定の年に入社。
派遣社員と企業をつなぐコーディネイター、はじめて耳にする仕事だった。
務めた5年の間に、私の担当派遣社員は200人になっていた。                  それも98%は年上の女性。1日に届く履歴書の数は平均30通ほど。 
ミッキーと映っている写真が貼ってあったり、巻き物の職務経歴書が送られてきたり。私の常識というラインが一気に崩れ、柔軟性を問われるトレーニング期間となった。

そして3社目は生保。バブル時代とはじけてからと12年在籍。
その間、子どもを授かり、管理職第一号として育児休暇取得後復帰という経験もした。1995年1月、阪神大震災、3月、地下鉄サリン事件が起こった年の4月のこと。復帰するか否か、迷いに迷ったが結局辞めるという選択肢はもてず、気持ちを奮い立たせて職場へ向かったのを覚えている。        

ただ...はじめての子育てと管理職の責務は想像以上にきつかった。
新しい支社長からは、「残業のできない主管はNo, thank youだから」とクギを刺された。
営業職員には子育て中の人もいたが、私の立場とは全く異なり、甘えは許されない雰囲気があった。というか、私自身がギリギリまで自分を追い込んでいたのかもしれない。

毎朝7時、スーツにだっこ紐、1駅先の乳児園に娘を預け、通勤1時間ほどの職場へ。途中乗換駅で、無理やり日経新聞に目をやり朝礼の話材づくりに頭を切り替える。
職場を退出するのは20時頃。眠い目をこすって私の帰りを待ってる娘のもとへ走って帰る。時々これでいいのか、と頭をよぎるも、とにかく日々をこなしていくのに精いっぱいだった。

そして3年が過ぎたころ、私の身体に異変が起こった。
37.5度の微熱が毎日半年間ほど続き、咳が出始めると止まらず、夜中に起こると朝まで眠れなかった。そして極めつけは原因不明の手のひらの皮がボロボロむけはじめたことだった。
まさに私にとっての四面楚歌時代だった。

それでも私は仕事を辞めなかった。というより辞められなかった。
ちょうどその頃、母の入院と手術も重なってお金が必要だったのである。
とにかく踏ん張る。
それしかない。

育児と仕事と看病と。
気力のみで過ごしていた37歳の頃の話である。

ある日、洗い物を終えたキッチンで、ハッとした!

「このままじゃダメだ、つぶれちゃう!」                 そして思った。
「いつもと違う人に会わなきゃ!」

そこからの私の動きは早かった。
「あの人に会いたい」
夜中、もらったはずの1枚の名刺を必死に探した。
あった!
翌日、見つけた名刺に書いてある会社の番号に電話した。
個人名で名乗ったにも関わらず、ラッキーなことにコンタクトがとれた。

あの時から私の40歳からのプレミアム人生の準備期間が始まったのかもしれない。
彼女は私の話に耳を傾けてくれてこう言ってくれたのである。
「安子さん、コーチをつけてみない?」

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周りは何も変わらないのに朝が軽い

“コーチをつけるつてどういう事なんだろう?”                   
疑問はあったが、とにもかくにもいつもと違うことをしてみよう!
そう思った私は、迷うことなくお願いした。

1997年秋のことである。
今思えば、この時コーチング自体が日本に伝わったばかりで、
プロコーチとして仕事をしている人はおそらく数えるほど。
ここで素晴らしいご縁をいただけたのは本当にラッキーなことだったと思う。

最初にコーチから郵送で送られてきた10枚の用紙。
送り状にはこう書いてあった
「記入し終わったらFAXしてください。そこからスタートします」
私はそこに書いてある項目に1つ1つ答えていった。
そして...
ある問いで手が止まった。
「あなたがこの世を去るとき、自分の人生を振り返って残したい大切なものはなんですか?」
私の人生で残したい大切なもの・・この世を去るときって。
私の中で何かが壊れた、いや閉じていた扉が開いて動き始めたのかもしれない。いろんな人の顔が浮かんだ。声が聞こえた。幼い時の自分もいた。娘の笑顔が眩しかった。

「一体私はなんのために仕事をしているんだろう・・」
しばし呆然として涙が止まらなかった。

コーチングは1回30分4回続いた。
まだインターネットのない時代。会ってではなく電話で話をした。
話をするというよりしゃべりまくったという方が正しいかもしれない。
とにかくコーチは私の話をとことん聴いて、そして問いかけてくれた。
何をしているのか、何につまづいているのか、一体どうしたいのか。
宿題で出された『10年後の一日』も具体的に想像して書くのがとっても楽しかった。
あっという間の4回だった。
そして今思うと、2回目のコーチングの時にコーチに言われた一言が私の人生に大きな選択肢を与えてくれたのかもしれない。
「安子さんは起業する気はないの?」

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人生は選択

2年後、私は自宅近くの支社へ転属となり教育担当となった。
100名を超える営業の人たちと触れ合う中でふと思いだした。
“あのコーチングって一体なんだっんだろう?”

営業の世界は数字を求められる。
その目標に対して意欲を燃やす人もいればプレッシャーを感じる人もいる。
また結果が一番の人もいれば、プロセス内容を重視する人もいる。
やる気のもとは期待や評価の人もいれば、いかに計画通りにやれるかの人もいる。

本当に人それぞれ。
その違いを活かしたアプローチをして成果がでたらどんなにいいか。
1999年11月、
私はコーチングを学びはじめていた。
そして学んだことを直ぐに実践したいと積極的に帰社報告などにも取り入れた。
またなんと娘との会話にもコーチングが役立つことも感じていた。
コーチングを活かす場はまだまだある!

転属から4年経った1月、私は昇格を伴う辞令を受けた。
娘小1、私40歳。
周りからは羨ましがられたが私にはとても重く、自信がないと断った。
そして会社を辞めるいい機会かもしれないとも思っていた。
そのことを直属の上司にだけは伝えたのだが、
どうやら支社長の耳に入ったらしくいきなり私は呼びだされた。
彼は怒ってこう言った。 

「肩書なしで生きていけると思うなよ」

私は支社長室の扉を閉める時に思った。
“終わりにしよう。私はちっとも怖くない。”
ごくごくあたりまえにそう思えた自分がそこにいた。

2002年4月 
私は『ごきげんコーチング』という屋号で独立した。
と同時に『コーチ育成プログラムリーダー』となった。
参加者の一員だった私が電話クラスのリーダーとなったのだ。
知り合う方たちがガラッと変わった。
自分の人生を自分でデザインしていく人たちとの出会い。

まさに私の40歳からのプレミアム人生が始まったのである。

あったらいいなできたらいいなできることから1つずつ♪
私はこれまでもこれからも
一人ひとりのプレミアムな人生を応援する伴走者としてここにいる。


あなたの夢を叶えるお手伝い致します!

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