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イーストウッドとヒロイズム

こんにちは。今回は映画監督クリントン・イーストウッドとヒロイズムの関係性について僕なりの考察をしていきたいと思います。あいかわらず作家主義を貫徹していますが、クリントンイーストウッドの作家性にはいつも敬服いたします。今回は彼のもつ作家としての2つのシグニチャーにフォーカスしていきたいと思います。

計画性のない撮影

まず1つのシグニチャーとしてあげられるのが、「計画性のない撮影」です。現代を代表する映画監督の一人にデビッドフィンチャーがあげられると思います。彼は愚直にカメラワーク、キャストの動きに拘泥する監督として有名で、ワンシーンで100テイク以上とったこともあるという逸話を持っています。確かに、彼の映画って俳優とカメラの動きが一致しすぎて気づきにくいのですが、そのおかげで扇情的なシーンが多かったりするんですよね。一方でクリントンイーストウッドはカメラをもって撮影するという意識なんてなくて、ただそこにカメラを置いたらいいのがとれちゃった的なノリがある監督。おそらく実話を元に映画をつくることがあったりとか映画映画しているものを撮りたくないからなのかもしれませんね。最近だと「15時、17分、パリ行き」という映画で実際にフランスでおきたテロ未遂事件を題材とし、キャストを本当にその場にいた人達を採用するというイタリアのネオリアリズモも顔負けの演出を行いました。この「計画性のない撮影」が彼をイーストウッドたらしめる要因の1つと言えます。

ヒロイズム

2つ目のシグニチャーは「ヒロイズム」だと思います。直訳すると英雄的行為または英雄主義といいます。イーストウッド自身1960〜1970年にかけて多くの西部劇映画に登場してました。一昔前の西武劇といえばジョンウェインですが、この時代の西武劇ではイーストウッドなのではないでしょうか?

で、この時代の西部劇っていうのが、マカロニウェスタンと呼ばれていて、それまでの西部劇に反旗を翻した作品だったんですね。西部劇の基盤となっていたのは建国主義に代表されるような、アメリカがヒーローといったアメリカ人受けを狙ったようなものばかりでした。それに対し、マカロニウェスタンはめちゃアウトローの正義っぽくないやつがニヒルに陥りながらも自らの正義を全うするといったようなものだったんです。その類の映画に出ていたイーストウッドは制作側に回っても現代版のマカロニウェスタンを作りだすんですよ。例えば、「パーフェクトワールド」1993年は刑務所を脱走したブッチが押し入った家にいた子供のフィリップを一緒についれていく映画になってます。この設定からわかるようにブッチはどう考えても悪者。ただ、時折みせるフィリップに対しての優しさや旅先で子供に虐待する親への反感からただの悪いやつだとは思えなくなっていくんですよ。イーストウッドはこういった映画をつくることで、ただ悪者を肯定しようとしているわけではなく、その人物がどのような経緯で今の立場や曲がった考えかたになってしまたのかをオーディエンスに問いかけているんだと思います。生まれながらに悪者なんか存在せずみな自分自身のヒロイズムにかられて行動しただけであるといわんばかりに。昨年話題になった「JOKER」でもどのようにしてあの強烈な人間が生まれたのかを描いていますよね。イーストウッドの映画に登場する悪者はもっと日常生活レベルのものですが、、、。

もう1つ彼がこういった悪のヒロイズム映画をつくる理由として、映画を作ることが彼の贖罪となっているからではないでしょうか?彼は実際に朝鮮戦争の際に徴兵されたわけですが、そこで戦争という大義の元に人が人を殺すことに疑問をもったのではないでしょうか?それは一方が正義で、もう片方が悪という構造なんて存在していないことに。だから彼は、戦争を否定し、その虚無を訴え続けるために「硫黄島からの手紙」「アメリカンスナイパー」といった戦争映画をとり続けているのかもしれません。それによって、過去に自分が戦争の一翼を担ったことを償うために。

以上の2つが僕のおもうイーストウッドの作家性です。もしクリントンイーストウッドの作品を見る機会があれば2つの点をなんとなーく意識しながら見てみてください。ではでは。

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