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第一章:廟利(びょうり)

一筋の涙が、頬をついと流れた。
廟利びょうりはそれをぐいと片手でぬぐうと、ひとしきり大きなあくびをした。
見上げると太陽は真上にあり、あたたかな陽光が、この縁側にも降り注いでいる。
廟利はいまいちど大きく伸びをした。
どれほど眠っていたろうか、板の間にじかに横たわっていたため、板と骨とが当たる部分が痛くなっていた。
腕をぐるぐるまわしながらそれをほぐすと、目の前に広がる庭に目を転じ、ほころびつつある桜を見やった。
十本ほど植えてある桜が作る並木の下では、桃色の花びらが幾重にもひらひらと降り注いでいる。
「もう桜も散りごろだなあ」
思わずそう、ひとりごつ。
いつまでも桜を眺めていたい気がしていたが、廟利は忙しい身の上であった。
「さて、そろそろ行くかな」
そう言うと、すっくとその場に立ち上がり、尻をはたいた後で桜並木に背を向ける。
ここは瀬戸内海に面する讃岐の村。
物語はこの村の東のはずれにある社の縁側から始まる。
今日は廟利の十六の誕生日、くしくも時の権力者、崇徳上皇がこの地へ流されてちょうど一年になる日のことであった。
 
讃岐の村の真ん中には、円覚寺という寺がある。
ここでは身寄りのない子供を集め小坊主として育てる傍ら、病に伏せる者や、高齢で働けない者などが身を寄せ互いに助け合いながら暮らしていた。
村の者たちは村長を筆頭にこの寺をよく助け、なにかあれば余った野菜や穀物を寄付したり、人手を出したりするのであった。
午前中ぐっすりと太陽の下で眠りこけていた廟利は、いま、一路この円覚寺の途上にあった。
もう歩いていると体がぽかぽかしてきて、じっとりと汗ばむ陽気である。
そう裕福でもない家の者であるから、廟利が着ている物は麻布が一枚ほどである。
それでも汗ばむのであるから、ここのところの陽気は、いよいよであった。
「おおい、来たぞう」
円覚寺の大きな門をくぐり、講堂の玄関口までたどり着くと、廟利は中をうかがいながら大きな声でそう言った。
「はぁい」
すぐに飛んできたのは、小坊主の円任《えんにん》だ。
円仁は、くりくりした目で廟利を見とめると、にかっと笑ってこう言った。
「また東の社で寝ていたんでしょ。口元によだれの跡がついていますよ」
言われて廟利はぎょっとする。
「ははは、勘弁してくれよ、円仁」
鏡もないので確認しようがないが、廟利はなんとなく口元を何度もぬぐう。
「こんにちは、廟利。今日も助けてくれるのかい」
円仁の後ろから顔を出したのは、この寺の住職、円珍《えんちん》である。
長いあごひげをたくわえた円珍は、それを指でさすりながら、穏やかな目を若い二人に向ける。
「ああ、何もできないけど、力だけは有り余ってるからな」
そう言って廟利はがははと笑い、履物を脱ぎ、奥の大広間へと移動した。
奥の大広間には、病人と老人が所狭しと寝かされていた。
多くは一人で起きるのもやっとであり、彼らの間を小坊主たちがひっきりなしに世話してまわっているのが目に入ってくる。
「やぁやぁ、俺がきたぞ」
廟利はそう言うと、両手を大きく広げてみせた。
「おお、廟利、よく来たな」
「おうい、廟利様がやってきたぞ」
廟利の姿を見とめて、病人や老人たちは、隣の者に声をかけたり、手を叩いて喜んだりする。
「いいからいいから、寝てなって」
そう言うと廟利は、すぐ足元に寝かされていた病人のふんどしを手早くとってゆく。
それから小坊主に行って水桶を用意させると、その中でじゃぶじゃぶとそれを洗うのであった。
「すまんなぁ、廟利」
いましがた下半身を丸裸にされた病人が、咳こみながら訴える。
「いいっていいって、いいから寝てな。面倒なことは全部俺がしてやるから」
そう言って廟利はにっと笑い、次の病人に移るのだった。
「私はうんちなんか、汚くって、とても手で扱えないよ。廟利様はすごいなぁ」
「僕は最近廟利様の真似をして淡々と仕事をこなす術を身につけつつあるぞ」
そんな、小坊主たちの世間話が背後から聞こえてくる。
そんなとき、決まって廟利の胸に去来するのは、ある夢の話であった。
とある場所、つるんとしていて、継ぎ目のない部屋の中で、透明で小さな枠だけが外に通じている、そんな場所での会話である。
廟利はそこで、病に臥せっている。
その顔をのぞきこむ奴がいる。
そいつは言う。
「負けるな、頑張れ、大丈夫だ、きっと治してやる」と。
それはそいつの口癖のようなもので、口を開くたびにそう言われるものだから、廟利は半ば辟易している。
廟利の病は治らない。
医者が匙を投げたのだ。
それを密かに知ってしまった廟利は、生きる気力も湧かないのであった。
確実に死に向かっているだけの毎日を何の目的もなく生きる、今日も、その次も、その次の日も。
そばにいるのは、口やかましいそいつだけ。
そんな、何とも言えない夢である。
いつからか、その夢を繰り返し見るようになってから、廟利はそれまで通っていた寺の病人や老人の世話をするようになったのである。
村一番のきかん坊であった廟利が、心を入れ替えたように働くので、はじめは廟利自身がなにかの病気になったのかと疑われた。
しかし今では住職もうなるほどの働きを見せる、村一番の孝行者であるのであった。
「さあて、お次は誰かな」
そんな軽口を叩きながら、廟利は病人や老人の間をぬってゆく。
開け放たれた戸口からは、春のあたたかな風が吹き込んでいる。
 
同じ村に、人知れず流れ着いた女がいた。
名を、九星《きゅうせい》と言う。
九星は昨年の夏に、この讃岐の村へと流れ着いた。
村の西のはずれの小屋をあてがわれた九星は、何か困ったことがあれば手伝いをするといった形で村に貢献し、食い扶持を得ているのであった。
「おおい、九星、今日も幼子たちの面倒を見てくれるか」
「はあい」
今日も、九星の元には、頼み事をするために村人たちが訪れる。
九星はその一つ一つに、丁寧にこたえてゆくのであった。
九星の仕事ぶりはいたって真面目、何でもそつなくこなし、身のこなしも軽い。
自然と村の中では知る人ぞ知る助っ人として名を馳せており、今となってはその名を知らぬ者はいないほどであった。
「いつもありがとうねえ。これ、置いてくね」
今日も、九星が行った助力の礼にと、畑で採れたものを置いていく村人がいる。
「ありがとう、おばさん」
こうしたこと一つにとっても、九星は丁寧に対応するのだった。
しかし、九星の内面には、表から見える彼女とは異なるものがうずまいていた。
それは、彼女が十六の頃に体験した苦い思い出にあった。
九星の村は、同じ瀬戸内海にあった。
伯方という小さな島であったが、九星はその村を出て二度と戻らぬ覚悟を決めている。
というのも、九星が十六の頃、村を海賊が襲った。
その混乱自体はすぐに平氏の軍団によって抑えられたのであったが、九星はその時、年下の友人を一人亡くした。
彼は一太といった。
村一番の元気印で、なにかにつけては九星を頼る少年だった。
それが小生意気で、九星もなにかにつけて世話を焼いていた。
その一太が、死んだ。
海賊に斬り殺されて、死んだのである。
その直前に、九星は一太と言い争いをした。
気持ちが高ぶって、つい、「一太なんか海賊に斬り殺されてしまえばいい」と言ってしまった。
果たして、一太はそのようになった。
九星はこのとき、あろうことか死んだ一太に対し、「ざまぁみろ」と思ったのであった。
なぜだかは分からない。
喧嘩が尾を引いていたのかもしれない。
無力な一太は無力なままでいればよかったのに、海賊なんかに太刀打ちしようとしたから、そう思ったのかもしれなかった。
ともかく、この一件はそれ以来、どす黒い点となって九星の内に巣くうようになった。
九星は知っていた。
己の本性を――。
そうして、決して誰にも図られることのないようにと、慎重に人々とのつきあいを築いてきたのであった。
九星は知っている。
己の本性を。
だから、本当は村人たちに対しても、「十六の頃にあれだけの体験をした私を、一体誰だと思っている」といった気持ちをひたと隠している。
本当は、平々凡々と生きているこの讃岐の村の住人を、心の底からおめでたい奴らだと見下している。
胸に密かな闇を抱えながら、今日も九星は快く村人の無理難題をこなしていた。
表向きは誰がどう見ても頼りになる村の女の一人として存在すべく。

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