年をとるほどに僕らの表現は純粋になるのかもしれない
しゅんしゅしゅんです。
ここ10~15年の間に出会った、高校の時のTHE親友、大学でいっつもつるんでいたやつら、一生の友になると確信した同期。
そんな彼等彼女等に、こんな手紙を贈りたい。
あれから十数近い月日が経った。
お互い昔に比べたら地に足もついた。
お互い学生時代から友情という言葉は
口に出さなかったから、今まで続いた。
のらりくらりとボーッとしながら
要所要所をつきつめて、ここまでやって来たね。
余裕を持って見てみれば、世の中は楽しいし
案外思っていたほどの制約もないさ。
年をとるほど、純粋な僕らの表現は
きっと信じるところから始まっているはずさ。
前のめりになり、フライングしながら
反則した自分でさえ認めてやってきたね。
わざとらしいサブいことは、これからも言わないよ。
君が疲れている時に会いにはいかないよ。
僕はこれからもステージで役者をしているから
おヒマな時に見に来てよ、余裕があればね。
これは「ガガガSP」というバンドの「手紙」という歌の歌詞です。(音楽配信サイトとかyou tubeで聴いてみてほしいっす)
メロディはさることながら、この曲の歌詞が昔から好きなんです。
付かず離れずの距離感、根底にある信頼感。昔から今現在に至るまで、友人関係(親友関係)としてなんだか理想だなあと思うのです。
歌詞のどの小節も好きなんですけど、好きなうちのひとつが「年をとるほどに純粋な僕らの表現は」です。
たしかに、年をとるほどに表現は純粋になっていくなあと思ってまして。
「純粋」は決して手放しで喜べるものでもないかもしれません。
枝葉末節を削ぎ落してプリミティブ(原始的)な人としての「歓び」や「幸福」に目を向けて、周囲の人とその受け渡しがしたい。そんな達観(これが丸くなるということなのかもしれない)のような正の側面もあれば、負の側面もあります。
例えば、意固地になる、場合によっては怒りっぽくなること。30歳も超えてくると積みあげてきた人生体験から世界をとらえるメガネがどうしたって固定してきます。その同じモノサシで世界を捉える意見だけをインプットするようになり、異質なものは意識的、無意識的に問わず排除する。付き合う人間も固定化されてきて、「俺の人生こんなもんかな」と折り合いをつけ始める。
そうすると、その世界観に意固地になってきます。異質な世界を生きている人を不快に思い、自分の世界を否定されたら怒りを覚えます。なぜなら「もういまさら戻れないし、変われないし、変わりたくない」と思うから。
このように良い悪いの両面あると思えど、少なからず、程度の差はあれ、たしかに「僕らの表現は純粋になっていく」のかもしれません。
ここ最近、プリミティブでストレートな表現に心をうたれることが多くなった気がしています。
ひょんなところから耳にしたこんな歌。
・ダイヤモンド☆ユカイさんの「君はともだち」
・KANさんの「愛は勝つ」
おれがついてるぜ。あてにしろよともだちを。おれよりもすごいやつはたくさんいるよね。だけどおれよりもきものことをきにかけるやつはいないよ。
(君はともだちより)
どんなに困難でくじけそうでも信じることさ、必ず最後に愛は勝つ
(愛は勝つより)
うんうん、そうだよなあ。
一点の曇りなく、とても真っ直ぐに入ってきます。
昔なら「純粋すぎて、ふかみのない表現だな」と思っていた気がします。
若いころ(わたしは今36歳です)は複雑な感情を難解な言葉で表現した歌詞しか好きではなかった。葛藤や矛盾が見え隠れする複雑性のようなものを好んでました。
それは、自身の複雑性をそこに投影したり、複雑性を好むこと自体に特別感や優越感を感じたからだった気もしています。今もそんな歌詞はもちろん好きですよ。でも今はその複雑性の中に人間への「愛おしさ」や「いじらしさ」を感じるから好きなんです。
だんだんと、何の話かわからなくなってきましたね…
人のプリミティブで本質的な「歓び」や「営み」に目を向けること自体を、好意的に捉えて真っ直ぐに向き合いたいですねって話ですかね。
そんなメンタリティに年をとるほどになってきている時に、昨日いい本に出会いました。脳みそがフルフルでスパークしました。
読んでほしい。騙されたと思って読んでほしい。騙すことになったら申し訳ないとか思うけど、それでもなお読んでほしい。ひさしぶりにそう思った本です。
いつか誰かに届けばいいと、祈りながら。
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