見出し画像

『マリンバとさかな』 第三話_後半

▼第三話の前半はこちらから

 六月。午後休を取って、定期検診に来ていた。学校が期末テスト期間だったおかげで、いつもより検診日の調整がしやすかった。

 昨年末に妊娠したと分かってから、そろそろ7ヶ月になる。悩んだ末に、私は地元で里帰り出産をすることにした。働いている学校も産休をもらい、九州の実家に帰省する。今日の定期検診は、地元の病院へ持っていく紹介状の受け取りも兼ねていた。産休に入るまであとわずか。このところは、あれやこれやの引き継ぎで忙しかった。来週からは代理の非常勤の先生にも一緒に授業に出てもらい、生徒たちとの顔合わせも少しずつ始まる。といっても、来週の授業はテスト返却からだ。つくづく良いタイミングで産休に入れるな、とちょっとだけ安心している自分がいた。部活の子たちには、出産予定日が分かった時にひと足早く伝えていた。幸いにも私はまだ副顧問だから、私がいなくても部は成り立つ。この夏のコンクールも無事に出場が決まっている。だから、パーカスの子たちの練習にはギリギリまで付き添ってあげたい。

 あの子たちに伝えられることは、今のうちに全部伝えたい。

 

 通っている病院は駅から少し離れた場所にある。病院でタクシーを呼ぶこともできるけれど、駅の方まで続いている静かな川沿いの道を歩く時間は、私がひとりになれる唯一の時間だった。誰かに急かされることなく、自分のペースでゆっくり歩く。時にはカフェで飲みものを買ってみたり、春には桜並木を楽しんだ。来年の春は家族三人でこの道を歩くのかな。きっとそうだよね、お腹をさすりながらささやいた。

 病院を出て少し歩くと、いつもの川沿いの道に出てきた。あれっ、足元の道路がいつもより明るく見えた気がした。足を止めて、ふと空を見上げると、斜め上のところにまあるい月がぽつんと浮かんでいた。この間、半月になったばかりと思っていたら、もう満月になってるなんて。やわらかな月の光を横目に、駅の方へ再びゆっくりと歩き出した。

 

 思い返せば、ちゃんと実家に帰るのは十年ぶりぐらいになるんだ。私が夫を紹介したのも、両親を東京旅行に招いた時だったし、結婚式もこっちで挙げた。

 

 十年前・・・・・。ってことは、高校卒業以来なんだ。

 私は昔のことを思い出していた。

 

 

 高校三年生の冬に出場したアンサンブルコンテストが、学生生活最後の大会だった。

 結果、金賞には選ばれたものの、その先の九州大会へ出場する切符は獲得できなかった。金賞と聞いて私たち三人は今にも飛び跳ねそうな胸の高鳴りを感じていたはずなのに、九州大会への出場校の発表を聞いた時には頭が真っ白になっていた。夏と違ったのは、帰りのバスでは涙は流れなかったことだ。涙を流せるほど、自分の感情に追いつけなかった。

 

 私たちが演奏したのは、ある小さな女の子のお話だった。少女は、森の中にある古い洋館に突然迷い込んでしまう。一階の長い廊下の中央にある大きな階段のそばには、古い柱時計があって、決まった時間にボーーーン、ボーーーンと鐘を鳴らす。

 ある大雨の日、鐘の音が鳴ったと同時にすぐ近くで雷が落ちた。驚いた少女は手に持っていたあめ玉の入ったガラス瓶を思わず床に落としてしまい、たくさんのあめ玉がコロコロと転がり出した。大粒のみぞれ飴、小粒のいちご飴。いくつかのあめ玉は階段をつたってトントンと跳ねるように落ちていく。まるで木板の上を跳ねるマレットのように。

 私たちはこのあめ玉が飛び交うパートを『あめ玉のワルツ』と呼んでいた。ここのトレモロを合わせるために何度も何度も練習した。ある日の練習中、一つ下の後輩が「楽譜の音符たちもあめ玉に見えてきましたね」って言ってきたのは今になっても微笑ましい話だ。

 

 きっとあの時の私は、心のどこかで少女と自分を重ねていた。この少女は「そとの世界」を知らない。目の前に広がるお庭で遊んだことはあっても、門の外には出たことがない。一緒だ。私もまだまだ「そとの世界」を知らない。県大会で金賞を獲れたとしても、その先にはずっと広い世界が続いている。分かっていたつもりだけれど、それは紛れもなく「つもり」にすぎなかった。

 

 同時に、私は「好き」な気持ちだけでプロの道を願うのは到底甘いと強く感じた。お母さんも元々マリンバのプロ奏者だったし、きっとどこかでその血筋を受け継いでいると思っていた。もちろん、練習を怠けたことなんて一度もない。だって、私はマリンバのことが本当に大好きだから。でも、それだけじゃダメなんだ。

 

 アンコンが終わると同時に、正式に部活を引退した。

 進路については、前々から関西や関東方面を目指していた。ずっと地元に居続けるより、今のうちに「そとの世界」に出てみることで、何か新しい世界が見えるかもしれない。そんな薄い望みのカケラを頼りにしていた。幸いにも内申点が良かったのも重なって東京の大学に合格した。

 

 

 川の上にかかる線路が近くに見えてきて、大通りの方へ曲がった。ちょうど、歩行者信号が点滅し始めていたけれど、学生の頃とは違って、次の信号を待つことにした。今はもう一人じゃない。二人なんだから。携帯を見ると夫からメッセージが届いていた。

『もう電車? 駅に着いたら迎えに行くよ』

『うん、もうすぐ駅に着いて電車に乗るから、30分後ぐらいかな』

 送信ボタンを押したと同時に信号から音が聞こえた。

 ホームに上がった時に、携帯からバイブ音が鳴った。夫から『オッケイ』といつものスタンプが返ってきた。

 

 

 今夜の満月はスーパームーンみたいで、何人もの友達がSNSで月の写真を投稿していた。今はどの辺に月があるのだろう。カーテンをめくって、窓を開ける。ベランダの冊子の影がいつもよりも濃ゆくなっていた。見上げると、帰り道は斜め上にあった月が、この時間になると空高くに上っている。満月の光にうっとりしていると、携帯が震えた。

「お姉ちゃん、そろそろ電話大丈夫だよー」

 詩音からだった。詩音は大学に入学後、ヨーロッパに短期留学していた。最初に詩音から留学の話を聞いた時は驚いた。しかも、普通に電話で他愛もない会話をしていた時に、そういえば今度の新学期から留学してくるから、とあっさり言われた。前触れもないことを突然言い出すのは昔から変わらなかった。

 詩音の留学後、私たちは時間が合うとビデオ通話するようになった。画面の向こうから見える海外の景色は、つわりの時期の私にとってすごく支えになっていた。

「あ、お姉ちゃんヤッホー」

「ごめんごめん、遅くなっちゃったね」

「ううん、今日は授業あと一つだし、夕方からだから時間のことは気にしないで。

でも、お昼まだ食べてないからさ、食べながら電話するでも良い?」

「もちろん。今日は何食べるの?」

「今日はねー、即席ラタトゥイユとルッコラとプラムのサラダ、あとは近くのパン屋で買ってきたパンかな」

 詩音はパソコンを傾け、画面越しに目の前のお皿たちを見せてくれた。

「めちゃくちゃ美味しそうじゃん。ほんと、昔じゃ信じられないよね。詩音が料理するなんて。だって、いつだったか一緒にチーズケーキ焼いた時なんて散々だったじゃん」

「うるさいなぁ、良いでしょ別に。こっちの友達のお母さんがめちゃくちゃ料理好きの人でさー。友達と一緒に料理を習っていたらいつの間にか好きになってたんだよ」

「憧れるなあ。海外の台所で料理するってさ。私もこの子が大きくなってから、家族三人で海外旅行に行った時はやってみたいよ」

「良いじゃんそれ! ねぇ、わたしも一緒に連れてって!」

「え〜、なんで詩音も連れてかなきゃいけないのよ。もう十分堪能してるでしょ?」

「うそうそ、冗談だよ。でも、旅費自腹ならついてっても良いでしょ?」

「そこまでいうなら・・・・・って、もう行く気満々じゃん!」

 笑いながら世間話に花が咲く。二十年以上も姉妹をやっていると、自然と会話のテンポもそろう。

「・・・出産、もうすぐなんだね。わたしが赤ちゃんとはじめて顔を合わせるときは、一才になってるかもしれないってことかー。もっと早くに会いたかったなー」

「そうだよ。一才のときは、もしかしたら少しは歩けるようになってるかもしれないね」

「え、一才でもう歩けるようになるの? 赤ちゃんってすごいね。」

「あと、写真はいつでも送ってきてくれて良いからね。わたし楽しみにしてるから!」

「はいはい。ほんと、調子だけはいつも良いんだから」

「へへ。ねえ、急に話変えちゃうんだけどさ、前から聞いてみたかったんだけど、お姉ちゃんはいつから学校の先生になろうと思ったの?」

 ソテーされたプラムに、ザクっとフォークを刺しながら、詩音は言葉を続けた。

 

 いつからだろう。少なくとも、高校時代に教師を目指そうと考えたことはなかった。ただ、音楽にまつわる仕事ができたら良いなって心のどこかでずっと思い続けていたのは確かだ。またマリンバを触る時間ができたら、そんな時間が作ることができたら・・・。それは私にとって天職になるだろうと思った。

 大学一年生の頃、まだ専門の授業が少なかったときに、今後の人生プランを考える授業を取っていた。その授業では就活のことも考えなければならず、私はマリンバを触れる仕事を必死に探した。どこかの音楽団体に入る、楽器専門店のスタッフとして売り場に出る、マリンバ工房でリペアマンとして働く・・・。他にもいくつか候補を出したものの、どれも私の心には引っかからなかった。

 高校最後のアンコンの帰り道、まだ私の音は誰かに聞かせるレベルじゃないんだと、強く悲しんだ。一瞬、嫌いになりかけていたのかもしれない。それでも、上京する時は楽譜たちを手元に持ってきていた。私の青春は、間違いなく部活にあったし、それを否定することだけは絶対にしたくなかった。久々に楽譜ファイルを見返すと、どの楽譜にも曲を演奏するときの注意点や自分を鼓舞する文字がびっしりと書き込まれていた。

 懐かしい記憶が鮮明に蘇り、いてもたってもいられなくなって、動画サイトで曲を検索しては楽譜を見ながら頭の中で演奏していた。私は、マリンバのことがもちろん好きだけど、同じぐらいみんなで作る「吹奏楽」が好きだったんだ・・・。そんな時にひらめいたのが、教師になって吹奏楽部の顧問になることだった。そう決心してからは、「教師になるために」という気持ち一筋で大学生活を過ごし、晴れて高校教師になった。

 

「・・・私は自分のなかで一番手放したくないものを考えて、今の仕事にたどり着いたんだと思う。もちろん、今はまだ副顧問だし、あと数年はこのままな気がする。それでも、生徒たちと一緒に音楽ができて毎日すごく充実してるよ!」

 普段、過去のことをほとんど振り返らない茜音は、珍しく昔の自分を見つめ直し、未来を考える詩音のために姉として背中を押した。

 

「ふーーん。やっぱお姉ちゃんはお姉ちゃんだね。分かったよ。わたし考えてみる!自分が後悔しないように!」

 屈託のない笑顔の詩音を見て、知らないうちに成長してるんだな、と胸が熱くなった。

 詩音がそろそろ学校に行く準備をすると言い出したので、今日の電話はこれでお開きになった。

「お姉ちゃん!お母さんに会ったときに、学校の書類をエアメールで送るって伝えといてー!」

「はいはい、伝えとくよ」

「ありがと!」

「詩音、忙しいときほど、ちゃんと食べてちゃんと寝ることだからね。まぁ、食べるに関してはちっとも心配してないけど!」

「うるさい! 太ったって言いたいの?

たまに近くの公園でランニングしてるから大丈夫です〜!

じゃあ、またね!道中気をつけて!」

 

 通話終了のボタンを押すと、一時間半の通話時間が表示された。

 あとすこしで日付が変わろうとしている。

 明日の準備をさっと済ませ。ベットに入った。

 

 

 夢を見ていた。

 ・・・ここ、どこだろう。なんだか懐かしい場所だ。そうだ、あたしがはじめてさかなと出会った実家近くのホームセンターだ。ここにはペットコーナーの横にアクアコーナーがあって、奥のほうへ行くと照明が少しずつ暗くなる。その分、水槽ライトの灯りが一つ一つの水槽を明るく照らしてくれる。そこはまるで小さな水族館みたいな場所だった。

 

 茜音が小さかった頃、家族でホームセンターに買い物に行くたびに、茜音はいつもアクアコーナーを覗いていた。

「おかあさん、見てー。おっきい〜」

「あ! おさかなさん来たー!」

 茜音は、無邪気な様子で水槽に両手をくっつけて、さかなの泳ぐ姿をずっと見ていた。この店のアクアコーナーは、メダカ、金魚、熱帯魚、水草・・といった具合に、家庭用に売られている観賞魚の水槽がずらっと並んでいた。

 

 思い出した。

 そこらじゅうの水槽から、ポコポコと泡の音が聞こえてきて、ちょうどあたしの目線の高さにあった一番下の段の水槽にいたのが「さかな」だった。

 メダカや金魚に比べると、ずいぶん大きな体でゆらゆらと泳いでいる姿が目に止まって、気づけばその場にしゃがみ込んでさかなのことを見ていたんだっけ。水槽の前に行くたびに、大きなさかなたちが口をパクパクさせながら泳いでくるのが不思議でたまらなかった。

 あとから聞いて分かったことだけど、あたしが小さかった頃に、ちょうど両親も「生き物を飼いたいね」って話していたようで、あたしへの誕生日プレゼントと言いながらさかなたちを飼ってくれたようだ。

 さかながお家に来てからは、あの店に行かなくても毎日家で見られるようになったのが本当に嬉しかった。詩音が生まれる前は、まるで自分がさかなのお母さんになった気分でエサをあげて話しかけたり、マリンバを聞かせたりしていた。

 

 そっか、あたしがマリンバを弾くようになったのも、あの部屋にさかなの水槽がやってきたのと同じぐらいだったっけ。

 といっても、最初は母が使っていたマリンバをポロポロ鳴らして遊ぶぐらいの程度だった。3才ぐらいの時からお母さんにピアノを教わっていたこともあって、ドレミは何となく分かっていたし、マリンバのコロコロした音が好きで、いつか触ってみたいなって思っていた。マリンバは立って演奏するから、小さい時は身長が足りなくて、ピアノの部屋から補助ペダルを持ってきて鳴らした。ボーーンと響く低い音や、コンコンと鳴る高い音が一緒になって、ピアノとは全く違う音に心を掴まれた。

 それからはピアノで弾けるようになった曲を練習してみたり、好きなアニメの曲を耳コピして弾いてみたりすることが多くなった。本格的にマリンバを弾くようになったのは、中学の時に吹奏楽部に入ってからだ。仮入部期間に他の楽器も体験してみたけれど、パーカッションを第一希望から変えることはなかった。

 

 夢のなかにいるときは、これは夢だってことがちゃんと分かるし、そろそろ夢が終わることも直感的に察知できた。遠くから朝を知らせる音が聞こえる。アラームの音だ。

 なんで急に小さい頃の夢を見たんだろう。

 なんでさかなの夢を見たんだろう。

 どうして。

 

 夢のカケラがガラスの破片のようにバラバラになって、視界の両サイドに並ぶ。エスカレーターのようなものに乗っている茜音は、エスカレーターが上がるにつれて、夢のカケラから徐々に離れていってしまう。目の前が眩しい。

 朝がきた。

 

 ・・・こんなにはっきりとした夢を見るなんて久しぶりだ。それにしても、懐かしい夢だったな。あの部屋にいたさかな、まだ生きてるのかな。お母さんもこれまで何も言ってこなかったから、きっと生きてるんだろうけど。今度、帰った時に部屋をのぞいてみようかな。

 

 

 

 

 さかなは年々、希望を失い、泳ぐ体力も衰えてきた。一日中、水槽の隅にいてじっと動かない。かろうじて、エラがゆらゆらと動いているのは分かるため、まだ生きている。

 透き通っていたはずの目も、徐々に濁ってきて、まるで薄い膜が張られているようだ。おかげで、エサをくれる母親の姿は、影の形でなんとか認識できるものの、たまにやってくる人間のことは、誰なのかわからなかった。

 窓から日の光が差し込む。光が部屋に入る時間や、その影の長さが少しずつ変わっていくことで、季節が移ろうのを感じ取る。

 

 

 あれから一体、何年経ったんだ・・・。

 この頃は「茜音のマリンバが聴きたい」と思う回数も少なくなってきた。願っても叶うことのない夢をいつまでも追いかけていても、余計に苦しくなるということがようやく理解できた。前まではエサが降ってくる時間になると、水面あたりまで泳いでいたが、ここしばらくは水槽の底にへばりついてピタリと動かない。動きたくない。濁っちまったオレの目には、ほこりをかぶったかのような全てがぼんやりとした世界しか映らない。

 彩りのない無色の世界には単調な音しかない。水槽の中にあるモーターの音、それから生まれる泡の音。ブオーーーーン。プクプクプク。ボコボコボコ。二つの音が静寂な部屋に鳴り響く。メトロノームのように一定のリズムで刻まれる音は微塵も面白味がない。いっそのこと止まってしまえばとすら思う。そして、水槽の床がすっぽり抜けて、そのまま深海までオレの身体も沈んでしまえば良いのだ。

 

 気づけば夜になっていた。このまま寝たら、目が覚めた時には次の朝が来ている。また長い1日が始まるのは嫌だが、寝ることで何も考えなくても良い時間が生まれるのは気楽だ。

 今日はもう寝ちまおう。

 眠ることに意識を傾け、現実の世界から遠ざかる。

 

 梅雨が終わり、7月に入った。本格的に夏が始まろうとしているものの、夜はまだ過ごしやすい。空に上りきる前の半月は、南国の果実のように鮮やかな黄色に染まっていた。母親が部屋のカーテンを閉め忘れたおかげなのか、月の光が部屋に入る。水槽の手前部分の影がいつもよりくっきり見える。

 

 

 ユメを見ていた。

 オレは直感的に、ユメだと思った。いつもの部屋の水槽ではない場所を泳いでいたからだ。砂も岩も木片もない。かろうじて水草はある。それにしてもなんだかこそばゆい気持ちだ。前にも一度、この光景を見たことがある気がした。これはデジャブというやつなのか。・・・違う。思い出した。ここはオレたちが売られていた店の水槽じゃないのか。左右を見渡すと、懐かしい仲間たちが泳いでいるのが見えた。

 ここでのオレたちはまるで見せ物かのように、毎日毎日多くの人間が水槽の近くへやってきて覗いてくる。しかも、床に水槽が置かれているから子供の目線にちょうど合うようで、水槽をコツコツ叩いてくる子供もいる。オレは子供は嫌いだ。だから、仲間たちが興味津々に水槽の外を見ているのには一切興味がなかった。

 ある時から、小さい女の子が時々オレたちの水槽を見にくるようになった。その子供は水槽に手を当てるものの、叩いたりしなかったから、マシな子供が来たもんだと記憶に残っていた。一度だけ、オレも仲間たちと顔を見にいったことがある。すると向こうも顔を近づけてきたものだから驚いた。ここには小さくて可愛い魚もいっぱいるだろうに、どうしてオレらをいつも見に来ているんだ・・・。そんな日が続いたと思ったら、仲間たちとともに、少女の、茜音の家で飼われるようになった。

 

 茜音はずいぶんとオレたちのことを気に入ったようで、エサをくれるのも茜音だったし、毎日話しかけてきた。それから、マリンバという楽器の音を聞かせてくれるようになった。

 マリンバという楽器は茜音にとってはまだまだ大きいようで、踏み台のようなものに乗ってポロポロと叩いていた。茜音が大きくなるにつれて、みるみるマリンバの演奏は上手くなっていった。気づいたらオレは茜音の演奏するマリンバの音が好きになっていたんだ。

 

 ・・・それにしてもかなり昔のことを思い出したもんだ。これは走馬灯というやつなのか。ってことは、オレの命が尽きるのももうすぐということか。

 

 そうか、叶わなかったか。オレの願いは。

 まあ、ほとんど諦めていたがな。

 

 この世を去る前に、もう一度、あの音を、聞きたかった。


 茜音のマリンバを。



▼『マリンバとさかな』のマガジンはこちらから。(一話から読めます。)

▼別府の湯めぐり記事もよろしければ。


この記事が参加している募集

#熟成下書き

10,579件

#文学フリマ

11,658件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?