【19話】君が決めてパウンドの味


朝食後の片付けも終わり、二人の少女はゆったりとした時間を過ごしていた。少女は珍しく椅子に座ったまま、お菓子の本を眺めている。どれも美味しそうで、どんなものなのか確かめたくて仕方ない。
少女が本を読んで食べた気分になっていると、もう一人の少女はニコニコと何か企んでいるような笑みで、少女の目の前に座った。

「なによ。変な笑顔して」
「失礼だなぁ。君に、とても大切な仕事を頼みたいんだ」
「仕事ぉ……?」

もう一人の少女は、机の上に雑誌の切り抜きを並べ始める。そこには、色や中身こそ違うものだが、同じお菓子の写真が載っていた。
パウンドケーキだ。

「なによこれ、全部パウンドケーキの写真じゃない」
「そうだね。……で、今日のお茶会のお菓子は、パウンドケーキにしようと思っているんだけど……」
「これ全部つくってくれるの!?」
「作らないよ。それでね、どの味にしようか迷って迷って、決められないんだ」

ちらちら、と少女を見ながら、もう一人の少女は胡散くさい笑みで話を進めていく。何が言いたいのかさっぱり分からない少女は、首を傾げながら切り抜きを手に取って見ていた。

「で、君に決めてもらおうかなって思ったんだ。何味のパウンドケーキにするかを……ね」

突然出てきた言葉に、少女は思わず持っていた切り抜きたちを、机の上に落としてしまった。
いつもお茶会のときのお菓子は、少女がねだらない限り、もう一人の少女が何を作るかもその味も、全てを決めている。それなのに、自分にお菓子の味を決める権利を委ねるなんて、いったいどうしたのだろう、と少女は困惑していた。

「一時間後にまたここに来るから、それまでに決めておいてね」

訳が分からず言葉も出ない少女をよそに、もう一人の少女は書斎の方へと向かって行った。


「も〜……急に決めろなんて言われても、わかんないわよ」

目の前にある大量のパウンドケーキたちの写真を見ながら、少女はひとり悩んでいた。
プレーン味にチョコレート味、抹茶にバターにメープル、ナッツにカボチャにイチゴ。様々な表情をしたパウンドケーキたちをひとつだけ選ぶのは、全部食べたかった彼女にはとても難しいことだった。
唸りながらどの味にするか迷っている間に、もう一人の少女がここに帰ってくるまで時間は、残り少なくなってきていた。早く決めなければ、今日のお菓子はなくなってしまうかもしれない。そう焦る少女の頭の中に、ある記憶がふっ、と映像のように流れてきた。

それはまだ、少女が全てからっぽだった頃のものだった。

「そういえば……前にも作ってもらったわね、パウンドケーキ」

少女が目覚めて数日後、もう一人の少女はお茶会で、パウンドケーキを出していたのだ。ドライフルーツたっぷりの、甘くてしっとりとしたもので、胸の中がフルーツで一瞬彩られたことを思い出す。
切り抜きの中には、そのドライフルーツ入りのパウンドケーキもあった。食べたことのある味も選択肢にあるなんて、どういうことだろう。

はっ、と少女は気がついた。
別に、今日選ばなかった味たちは、永遠に食べられなくなるワケではない。ドライフルーツだって、また選んでもいいし、選ばなくてもいい。いま自分が一番食べてみたい、と思った味に手を伸ばせばいいのだ。

「だったら、これかな……」

少女はひとつの切り抜きを両手で掴み、上へと掲げるのだった。


廊下から足音が聞こえてくる。もう一人の少女が戻ってきたのだ。
少女は、慌てて机の上に散らかした切り抜きたちを集め、そこそこきれいに見えるように、適当に重ねて机の中央に置いた。

「どう?決まったかい?」

もう一人の少女は、少女が座っている椅子に近づきながら、何を選んだのかを微笑みながら聞いてくる。
距離が近くて邪魔だな、と思いつつ、少女は自慢げに、一枚の切り抜きをもう一人の少女の目の前に見せてきた。

「ふふっ。…………これよ!」
「どれどれ?……レモン味のパウンドケーキ?」
「そうよ。今日の私はレモンな気分なの」

少女は最初にレモン味を見たとき、プレーン味やメープル味と見間違えた。レモンという黄色いフルーツを使っているのに、何故こんなにも普通で、どこにでもありがちな味のパウンドケーキに見えたのだろう。
普通のようで少しだけ特別なレモンのパウンドケーキに対して、少女は胸の中でこの不思議を味わってみたい、と無意識に思っていたのだ。

「意外だなあ。レモンってオレンジとかよりも酸っぱいのに」
「わ、私だって甘さだけじゃなくて、ちょーっと酸っぱいものをたまには食べたくもなるの!」
「ふふ、そっか。じゃあこれを作ることにするよ」

少女から渡された切り抜きを、もう一人の少女は受け取り、持っていたファイルへと入れた。
少女の気分はすっかりレモン色で、レモンが彼女の周りを飛び回っている。いったいどんな気持ちになるのだろう、と胸が踊り出して仕方ない。瞳にまでレモンが宿りそうだ。

「レモンになっているところ悪いけど、まず昼ごはんを食べようか」
「……パウンドケーキは、ごはんにならないの?」
「ならないよ。お菓子の気持ちは置いといて、今は昼食のことだけ考えようか」
「むっ……。机の上のこれ、ちゃんときれいに片付けろって言いたいんでしょ!」
「よく分かったね。今からお昼ごはん作るから、それまでに纏めておくんだよ」

もう一人の少女は昼食のためにキッチンへと向かい、少女は苦手な整理整頓を急いでやり始めた。


昼食も食べ終わり、少女はソファでだらけている。ただパウンドケーキの味を決めるだけだったのに、頭の中の全てを使った気分だ。
もう一人の少女が置いていったパウンドケーキの本を読みながら、少女はレモン味はどんなものか、と期待を膨らませる。いくらレモンが酸っぱいとはいえ、お菓子は絶対に甘いものだ。どうやってレモンを甘くしていくのか、少女はそれが楽しみで仕方なかった。

「レモンっ、レモンっ……」

ごろごろ、と転がりながら少女はあることを思い出す。
初恋はレモンの味、というものだ。
書斎にある本を適当に読んでいたとき、目に入ってきてなんとなく覚えた言葉だが、少女は恋がどんなものなのか、全く分からなかった。
少女にもすきなものはたくさんあるが、ただ好きなだけでは、おそらく恋とは言えないのだろう。もし好きだと言うだけでそれが全部恋になってしまうということは、ピンク色に恋をしていたり、カスタードプリンやシュークリームといった、お菓子たちに恋をしていたり、という、なんともおかしなことになる。

レモンを食べたら、「恋」というものが分かるようになるのだろうか。まだからっぽの瓶の中に、少ししかきらきらとしたものが溜まっていない少女にも、「恋」の瞬間が訪れるときがくるのだろうか。
少女はレモンに、そんな淡い期待も少しだけ抱き出した。

「おまたせ。パウンドケーキができたよ」

後ろからもう一人の少女の声が聞こえてきて、少女はゆっくりとソファから立ち上がった。

「ん〜っ。待ちくたびれわよ」
「今日は、君が味を選んでくれたもんね。早く食べたそうな顔をしているし……。ほら、行こうか」

いつものようにもう一人の少女は手を差し出し、少女はそれを当たり前のように取って、一緒にお茶会の部屋へと入って行った。


部屋中がレモンの香りでいっぱいになっている。少女は早速椅子に座り、もう一人の少女に向かって「早く、早く」と催促をする。
もう一人の少女はトレーの上に、パウンドケーキを盛り付けた皿と、二人分の紅茶のカップを載せて、キッチンの方から運んできた。

「はい。待ちに待った、レモン味のパウンドケーキだよ」
「わーい!もう食べていいのよね?」
「勿論だよ。君のために作ったものなんだからね」

もう一人の少女は、ちょうどいいサイズに切られたパウンドケーキを小皿に盛り付け、少女へと渡した。それを少女はフォークで一口分に切り分けたあとに刺し、パウンドケーキを、目の近くまで持ってきて見つめている。
これを食べれば、自分の知らないレモンの気持ちや、「恋」が分かるのだろうか。少女は胸を高鳴らせながら、レモン味のパウンドケーキを口に含んだ。

思っていた通り、少しすっぱい。だが、微かに甘さがあり、砂糖や他のものの甘さと混ざり合って、ひとつの酸っぱさとたくさんの甘さが少女の胸に入り込んできた。酸っぱさは甘さに比べると、量はだいぶ少ないはずなのに、甘さに負けるものか、と対抗している。
同じくらいの重さの酸っぱさと甘さで、少女の胸の中は、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになっていた。

甘酸っぱさは、少女の胸の中にレモンの果汁を注ぎながら、気持ちをどんどん締め付けてゆく。でも、締め付けられると痛くなり、苦しくなるはずなのに、何故か少女は優しい気持ちになっていった。
これがレモンなのだろうか。これが「恋」なのだろうか。少女は胸の中の果汁に沈んでいきながら、ぼんやりと考えていた。

「……ねえ?」
「どうしたんだい?」
「このパウンドケーキ、とってもおいしいわ。しっとりしてるし、甘酸っぱさも好みだし……」
「それはよかった」
「うん…………ねえ、あなたは『恋』ってしたことある?」

少女がそう聞くと、目の前に座っているもう一人の少女は、紅茶を飲む手を止めた。どうやら少し動揺しているようだった。
なんでも知っている彼女でも「恋」はしたことがないのだろうか、と少女は思いながら、パウンドケーキを食べ進めていく。
少しの沈黙のあと、もう一人の少女はゆっくりと口を開き始めた。

「恋、か……。したことはあるかもね」
「えっ、そうなの!?」
「……まあ、想いを告げることはなかったけどね。失恋したから」
「しつ、れん……?」
「恋を諦めるってことさ。君が記憶を失くしたように、恋を気持ちから失くしたんだ」
「そう……」

予想外の返答に、少女は驚くしかなかった。
いま目の前で紅茶を啜り始めた彼女は、恋をして、しかも失くしたことがある。とてもそうには見えないけれど、事実なのだろう。
記憶を失くした少女と、恋を失くしたもう一人の少女。二人は似ていないようで、何かを失ったことがある、という共通点があったのだ。

「ところで、なんで急に恋の話なんてし始めたんだい?」
「えっと、前に本で『初恋はレモンの味』って書いてあったから……」
「ああ、あの本かぁ。あれは、ちょっとロマンチストな知人から貰ったものなんだ」
「ふうん……」

目の前にいるもう一人の少女は、淡々と話しながら、恋の味がするはずのパウンドケーキを食べている。恋を知っている彼女がどんな気持ちで食べているのか、少女は気になって仕方なかった。だが、聞くのはなんとなく野暮な気がして、少女もまた恋の味を胸の中に入れた。

いくら胸に入れても、甘酸っぱくて果汁が溢れそうになるだけで、これが恋の味かどうかは分からなかった。少女には、まだ早すぎる気持ちだったようだ。
「すき」という気持ちに比べて、「恋」という気持ちは、幼い少女にはあまりにも難しすぎたのだ。

「……あなたは、私のこと、すき?」
「…………すきじゃない相手に、面倒を見たり、料理を作ったり……毎日、お茶会を開くと思うかい?」
「ううん。……じゃああなたは、私のこと『すき』ってことなのね!」
「うん。君のことが『すき』だよ。……わがままな、お姫さま」

結局「恋」の気持ちは分からなかった。だが、もう一人の少女が恋を失っていたという、彼女の過去が知れて、少女はなんだか嬉しかった。
それに、お互いに「すき」であるということが分かったのが幸せで、少女は頬を染めながら、笑顔でパウンドケーキをまた胸の中へ入れるのだった。

少女は、もう一人の少女が「だいすき」なのだ。

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