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忘却されし経済思想家:ジェームズ・テイラー「貨幣とは何か」(1832年)①

 G・F・クナップの『貨幣の国家理論』(1905年)やA・ミッチェル=イネスの『貨幣とは何か』(1913年)の発表よりも70〜80年早い1832年、「租税が貨幣を駆動する」ことをはじめ、チャータリスト(表券主義)に付合する貨幣観を見事に論じた、一冊の小冊子が発表された。イギリスの銀行家ジェームズ・テイラーによる「貨幣とは何か」(What is Money)である。

 この文献を知ったきっかけは、MMT学派のエリック・ティモワーニュ経済学準教授(ルイス&クラークカレッジ、米国オレゴン州)によるX(ツイッター)でのポストだ。

 1832年のテイラーとウィルソンによる「貨幣とは何か」という小冊子がabebooksで400ユーロで売られている!もしユーロの余裕があれば(私はない)、租税駆動ビューの素晴らしい要約を歴史を通じて知ることができる
例えば、ローマ時代の硬貨は課税を見越して発行された。テイラーは1828年の別の著書では、そのような飛躍に達していない。
 硬貨とは約束手形である(その約束とは、租税債務を救済するために硬貨の返却を受け取ることである)。テイラーはさらに進んで1862年には「貴金属硬貨は担保付き約束手形である」と論じた。金(きん)は貨幣ではなく、担保である。彼は、導入される課税の約束が弱ければ、FV(額面価値)=IV(実態価値)であると主張する。
彼はイギリスの銀行家であったので、硬貨鋳造の問題を機能的/商品的な観点からではなく、むしろ金融的/非物質的な観点からアプローチするのはごく自然なことであった。彼は、交換の研究を通じてではなく、現場の金融の仕組みの中で貨幣を探求していたのである。
 考古学者がこのトピックに取り組むまで、現代貨幣(modern money)の起源について事実に基づいた歴史を見つけることはできなかった。それ以前は、アリストテレスから始まり、一片の証拠もない物々交換の神話が壊れたレコードのように繰り返されていた。テイラーの主張には書籍の説明以上のニュアンスがある。
 中世イングランドに焦点を当て、貨幣経済化の核心的要素として、現物納税から貨幣納税への移行を強調している。

ティモワーニュのポストより

 同小冊子の解説によると、著者ジェームズ・テイラー(1788年〜1863年)は、イギリスの銀行家であり、金融に関する著作がある。経済理論の初期の試みで、貨幣の真の性質と国家金融システムを確保する最良の方法について論じたとされる。1810年の「地金報告」(Bullion Report)が物議を醸したこと(地金論争)を受け、反地金主義者(antio-bullionist)となる。彼は多作で、通貨や貨幣問題に関する著作を数多く出版し、その著作は『国民伝記辞典』(英国史上に足跡を残した3万人弱の伝記集)のヴィクトリア朝後期版に掲載されるほど重要なものであった。

 余談だが、上記でティモワーニュが言っているウィルソンなる人物は、テイラーとの共著者ではなく、同冊子の出版者エフィンガム・ウィルソンのこと。Wikiによれば、ウィルソンは「出版の自由」の強固な支持者であり、他の出版社が「政治的リスクが大きすぎる」と尻込みするような書籍を多数出版している。例えばウィルソンが出版を担った書籍の著者には、功利主義で知られるジェレミ・ベンサムやウィリアム・ゴドウィン、保守党の大政治家ベンジャミン・ディズレーリ、イギリス社会主義の父ロバート・オーウェン等錚々たる大物が名を連ねており、恐らくテイラーの小冊子も当時の社会では過激な書物に属するのかもしれない。

 テイラーは今挙げたベンサムやディズレーリ、オーウェン等の同時代人ということになるが、彼らのビッグネームと違ってジェームズ・テイラーなる経済思想家の名前は英語文献ですら見つけることが困難という次第だ。多分このnoteの読者も知っている人はほとんどいないと思われる。

 ということで、そんな幻の思想家テイラーによる著作の内容を紹介したく、今回は冒頭部分の拙訳を以下のとおり掲載する。(おそらく本邦初邦訳となるだろうか。)原本は30ページ近くに及ぶ内容のため、続きは数回に渡って投稿する予定。(〔〕は訳註。)


貨幣とは何か?

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この小冊子には、重要な「貨幣の問題」について、複数の個人の意見が共に掲載されている。また、あらゆる種類の財産の貨幣価値を公平に確保し、人々の産業が常に正当に報われるための提案も含まれている。

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ロンドン
印刷者 エフィンガム・ウィルソン
印刷所 ロイヤル・エクスチェンジ
全書籍販売業者にて販売
価格 6ペンス


貨幣とは何か?


“硬貨の交換や評価の謎において、ある国が他の国に対して持ち得る利点を、国家の舵取りをする者たちが徹底的に発見し、阻止しなければ、多くの通商の後にその利点は(食後の身体のように満腹で肥えることなく)痩せ衰え、消費は回復不能となる恐れがある。”--グリーヴス

〔ジョン・グリーヴス[1602年〜1652年]は英国の数学者。エジプトの大ピラミッドの測量で知られ、後にニュートンの研究に影響を与えたとされる。〕


 アダム・スミス博士をはじめとする多くの著名な著述家によれば、貨幣(money)とは金や銀の重さ(weight)を意味するものでしかない。

 スミス博士は次のように述べている。「商品の貨幣価格とは、常に、その商品が売られるのに必要な純金純銀の数量のことであって、硬貨の額面の数字とは関係ない。例えば、エドワード1世の時代の6シリングと8ペンスは、現在の1ポンドと同じ貨幣価格である。これは我々が判断できる限りでは、純銀の含有量がほぼ同じだからである。」

 ヘンリー博士もまた、『History of Britain』の中で、一般に受け入れられている貨幣の概念を非常に公平にまとめている。「金属が初めて貨幣として使用され、あらゆる商品に共通の価格となったとき、その価値は重量によってのみ決定される。売り手は、自分の商品に対して一定量の金、銀、真鍮を受け取ることに同意すると、買い手は自分の所有するその金属の板やインゴットからその量だけ切り離し、重さを量った後、売り手に引き渡し、商品を受け取った。」

 その例証として、「創世記」23章16節にて、エフロンがアブラハムから銀400シェケルを受け取ったことを挙げている。アブラハムは〔妻の〕サラを埋葬するために、銀の重さを量ってエフロンに支払った。

 これが貨幣の起源であるというのが既存の見解である。しかも、前述の取引において、400頭の牛や、ある数量の他の商品と交換されたのと同じように、完全に単純な物々交換(バーター)の原則に基づいて行われたことは明らかである。したがって、貨幣制度と純粋な物々交換制度との間に真の違いを見出すには、さらなる説明を求めなければならない。

 貨幣に関するもう一つの考え方は、ロックの次の引用に示されている。
「貨幣が、硬貨に鋳造されていない銀と異なるのは、一つ一つの貨幣に含まれる銀の量が、公的な証明となる刻印(スタンプ)によって保証される点である。」

 ハスキッソン氏は、これまでの説明と同じく次のように力説する。「ある硬貨と、硬貨ではない同じ金属片との間には、同じ重さ、同じ純度という点ではいかなる違いも存在しないし存在し得ないが、唯一の違いは、前者の量が正確に把握され、それが刻印されることによって全世界に公示される点にある。」

 ヘンリー博士は、貨幣の起源に関する記述の中で、買い手が売り手に対して一定量の金属を計量して支払うという取引方法では、金属の重量と純度の両方において、さまざまな不正を犯す可能性があったことを指摘しており、次のように付け加えている。「このような不都合を解消するために、いくつかの古代国家の法律では、貨幣として使用される金属はすべて、一定の形と大きさの断片に分割され、所定の印が押され、それによって各断片の重さ、純度、価値が一目でわかるようにすることが定められていた。この素晴らしい改良によって、一方の当事者は支払いのたびに貨幣を切り分けて量る手間が省かれ、他方の当事者は貨幣の重さや純度の不正から守られることになった。」

 彼はこれこそが硬貨の真の起源であり、これによって貨幣が一層流通するようになり、商取引が非常に容易になったと主張している。したがって、彼の評価では、硬貨と貨幣は同義語であったことがわかる。

 これらの説明には工夫が凝らされ、そこに示される貨幣への理解に多くの著名人が賛同しているにもかかわらず、この問題について実際的な知識を持ち、自分で考え、推論することのできる人間であれば、ロックの説にもヘンリー博士の説にも納得することは不可能である。というのも、この取決めが最初に「いくつかの古代国家の法律によって(あるいはどの国によっても)定められ」たのはいつなのか、という歴史的証拠がまったくないことは言うまでもないが、たとえその主張が前世紀のあらゆる著名人によって承認されていたとしても、この証拠不足は、ただの主張だけで補うにはあまりにも重大だからである。交易に詳しい人なら誰でも、この主張が事実と矛盾していることを知っている。彼らは、シリングやシックスペンスがこの30年の間に名目上の価値で流通するようになったことを知っているし、当時、その重量が法律で定められた重さの半分もないことは、よく知られていた。本物の硬貨であることをわずかに示せば、その重量が法律で定められた重量の3分の1であろうと、2分の1であろうと、4分の3であろうと、流通においては等しく価値があるとみなされていたのである。フルの重量を持つシリングが見つかったとしても、それは一般的なルールに則ったものではなく、例外的なものだった。歴史的事実として、1773年に国王陛下の財務長官が命令を出し、以後ギニー(金貨)の流通を認める重さの上限を次のように定めたことも知られている。

ジョージ3世の治世以前に鋳造されたギニー
・・・5ペニーウェイト3グレーン
ジョージ3世の治世下、1772年1月1日以前に鋳造されたギニー
・・・5ペニーウェイト6グレーン
上記日付以降に鋳造されたギニー
・・・5ペニーウェイト8グレーン
〔ヤード・ポンド法における質量の単位1ペニーウェイト(dwt)=24グレーン(gr)、メートル法のグラムに換算すると、ペニーウェイトは約1.5g、グレーンは64.8mg〕

 そして、これらのギニー硬貨はすべて、重さにこれほど差があるにもかかわらず、まったく同じもの(同じレート)として納税で受け取られ、流通していたのである。ロック氏自身の時代でさえ、事実は彼の仮説と矛盾していた。わが国の銀貨は大きく減少しており、当時の著述家フォルクス氏は、法定重量の4分の3もない銀貨を見たことがあると述べている。そして平均重量が本来あるべき重量の半分以下であったことを示す証拠があるが、それでもこの軽い現行の貨幣の6シリング3ペンスが、1オンスの未鋳造銀の一般市場価格だった。もし、貨幣の純度重量を保証することだけが貨幣鋳造の目的であったとしたら、人々が正気を失わない限り、このようなことはあり得なかっただろう。

 ここまで築かれた貨幣への理解がさらに説得力を失うことになるが、ヘンリー博士は、プリニウス[23年〜79年、古代ローマ]の『博物誌』を引用しながら、次のように述べている。「あらゆる国の硬貨、特に自国の家畜を主な富とする国の硬貨に最初に刻印されたのは、牛、馬、豚、羊の姿だった。」

 そして、法律、芸術、科学の起源について言及し、次のように付け加えている。「その理由は、これらの国々が貨幣を知る以前は、家畜を貨幣として使用し(別の場所では、家畜は生きた貨幣と呼ばれていたと言われている)、必要なものはすべて家畜を支払って購入していたからである。そのため、あらゆる商品の代表としての貨幣の性質を知るようになると、彼らは貨幣に動物の姿を刻印した。こうして貨幣は主として動物を表象するものとなった。」

 このように、ヘンリー博士は、貨幣の起源をアブラハムの時代より前の貴金属の使用にまで遡り、家長がエフロンの畑と交換に量った銀でその見解を説明した後に、前述の一節で、金属貨幣の使用が知られる以前には、さまざまな種類の家畜が貨幣を構成していたという見方を是認している。これは、貨幣の起源に関する彼の説明が説得力に欠けることを示す十分な証拠である。彼はその後、『History of Britain』第2巻に、我々が折りを見て参照すべき貨幣に関する多くの有益な情報をまとめている。しかし、前述の引用から明らかなように、彼は貨幣の起源と真の性格に関わる謎を解明する鍵を発見していなかったのである。このことを彼は明らかに感じていたようで、著作の第4巻245ページで再び貨幣について触れているのだが、その中で彼は、貨幣は「複雑で厄介な主題であり、多くの学識ある、独創的な人々の努力にもかかわらず、暗くて疑わしいものもあり、完全な満足を与えることができないのは恥ずべきことではない」と告白している。

(②に続く。)

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