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試験

先日、友人と話していて、大学時代の試験のことを思い起こした。

先生(教授)によって試験のやり方は様々だった。大きく「資料持ち込み可」の試験と「資料持ち込み不可」の試験があった。

前者は教科書や辞書等を使用しながら解答して良い試験で、後者は学校の入学試験のように何も参照せずに臨む試験である。

経験がない方は、「資料持ち込み可なら楽勝ではないか?」と思われるかもしれない。が、実際はそんなこともない。

持ち込み可の試験は、言葉の空欄穴埋めのような暗記した知識を解答するような問題は出題されない。

具体的で詳細な事例が書かれていて、それに対する見解が問われたり、抽象的なテーマについて賛成か反対か、そしてその理由を書かされたりする。もはや、正解がない問題が出題されることもある。(その場合、結論に至るプロセスで評価される)

今となっては、持ち込み可の試験をしていた先生は、「分かっている」先生だったのかなと思う。

というのも、逆に実世界で資料を参照できない状況というのは、その「持ち込み不可の試験」の時間内くらいなのである。

多くの場合、何かを考える上で特定の情報が必要となれば、その情報を覚えていることよりも、「その情報がどこに書いているか」を分かっていることの方が重要だったりする。

例えばデータや法律などは時間が経てば変わっていくものだし、常に正確に覚えておくというのは現実的でない。

もちろん正確に記憶できればそれに越したことはないが、人間の記憶なんてたいして信用できない。それなら、「正確な情報がどこに書いてあるか」を知っておく方が賢明だ。

実際、会社でも資料持ち込み不可の会議など聞いたことがない。むしろ、記憶に頼って仕事をする方が、ミスを起こしそうで怖い。誰でも知っている常識レベルのことならまだしも、何も見ずに「法定の基準では〇〇です」と細かい情報を自信を持って言えるだろうか。自分なら少し怖い。

だから、もし今の自分が教授なら、もはや「Google検索可」の試験をすると思う。(ただし、「スマホ可」としてしまうと、チャットやメールも使えて別の問題が生じるので難しいところだ…)

正直なところ、当時は言葉の空欄穴埋めのような問題の方が得意だったのだが、本質はちょっと違うような気もするのであった。

もちろん、受験人数が多ければ機械的に採点する必要も生じるはずなので、仕方がない部分もあるとは思う。

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