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「ワニ」と会った話【短編】

書き物をする時は、シラフの時に限るべきだ。そう思っていたけれど、彼のことを忘れそうになるから、何かしらの形で書き留めておこうと思った。

ワニとは、歌舞伎町で出会った。「ワニ」というのは、通り名のようなもので、彼の横にいる露出の多いお姉さんが教えてくれた。

僕はいつもの仕事帰り、新宿方面まで足をのばして、歌舞伎町に入った。その理由は、好きなラッパーのライブがあるからだった。新宿内部にある小さなクラブで、ネットラップ出身のライムがタイトなラッパーがライブをするとインスタグラムで見た。チケットが余っていたため、一昨日購入して向かうところだったのである。

しかし、かなり遅い時間から始まるらしい。仕事が終わったのが18時で、ライブが始まるのは22時。その間の時間を潰さなければならない。

その時間の潰し方として選んだのが、アルコールを摂取することであり、摂取する場所として選んだのがシーシャバーであり、シーシャバーにいたのがワニと、その横にいる露出の多い女性である。

僕は露出の多い女性の方に、最初に気をひかれた。そしたらその女性に気付かれて、手招きをされた。女性に近付くことに対して、まだ幻想を抱いている年頃だから、ふわふわと吸い寄せられた。

何で見ていたのか聞かれ、素直に「綺麗な人だと思いました」と言おうとしたが、横にいる男(ワニ)にビビり、「知り合いかなぁと思って」と、言い訳になっているのかすら怪しい微妙な返答をした。

ワニは最初、僕を訝しむ目つきをしていた。それは「この女をとられる」という警戒心からくるものかと思われた。しかし、後々話を聞いていくと、「得体のしれない奴が来た」という、単純な心地の悪さからだったという。

女性は僕に対して、いくつも質問を投げかけた。僕は曖昧な返事をし続けた。近付いてみたはいいものの、質問が性関係のことばかりで、困惑してしまった。

ホテルにある避妊具を使う派か使わない派かという点まで掘り下げられ、ホテルに2回しか行ったことのない自分を誤魔化そうと四苦八苦していると、ワニが割り込んできた。

ワニは僕に対して、何の用事でここに来たのかと尋ねた。僕は、好きなラッパーが近くのクラブでライブをするから、開園までの暇つぶしだと答えた。ワニは、ラップを聞くという僕に対して、少し興味をもったようだった。そこで出る奴、誰だよ、と聞いてきた。

横にいた女性が、ごめんね、無口だったのに急に喋り出して、とワニのことを紹介した。彼が「ワニ」と呼ばれていることを知ったのは、その時だった。

彼の本名は分からなかったが、彼が「ワニ」と呼ばれている所以は、余計なまでに詳しく分かった。
彼は上京してすぐにこの街にあるホストクラブに転がり込み、そこでそれなりの売り上げを得た後に、腕っぷしの強さを買われて、フリーの用心棒として生きているらしかった。
今の受け持ちは7軒。2軒はソープランドで、3件はキャバクラ、あとはガールズバー兼シーシャバーみたいな所。
横にいた女性がワニの事を紹介するまで、僕はこの店がただのシーシャバーだと思っていた。しかし、この店は女性キャストを置いているタイプのシーシャバーであり、僕はそれを知らずに入っていたのだ。
ワニ、という名前はどこから来ているのか。それについては本人が怠そうに語った。
彼は相手を殴り続けた後、相手の背中に向けて踵落しをするのが癖らしい。その踵落しを見た誰かに、ワニが動物を嚙み砕く時みたいだと評され、彼は「ワニ」という通り名を得ることになったのだという。
彼は、先ほども言ったが、怠そうにそれを語った。しかし、自ら語ったところを見ると、どこかでその通り名を好いているのだろうなと分かった。

ワニとシーシャバーで喋った後、彼は「お前と、そのラッパーを見たい」と言ってきた。そのアーティストのSNSを見ると、当日券もいくつか余っているという情報がのっていた。僕はワニにそのことを告げた。そうすると、先にチケットだけ取ってくれと言われたので、じゃあそのクラブまで行こうという話になった。隣にいた女性は空気を察したのか、いつの間にかいなくなっていた。

その後は、ワニと滅茶苦茶に酒を飲み、めちゃくちゃに頭を振って、クラブで楽しんだことしか覚えていない。

ワニに、仕事は何をしているのかと聞かれて、障害者福祉の分野で就労支援をしていると答えたけれど、いまいち伝わっていなかったと思う。そっか、と言って彼はストロングゼロのロング缶を飲み干し、遠くの方に投げた。

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