高枕のパンダ【短編】
死に際に気付いたってもう遅い。俺らはこの世にやりたいことを幾つも残したままにする。だが、生きているうちにそれら全部を完遂することはできない。
仕事で1日のToDoを全部こなして、爽快感と疲労感がミックスされた心地よい渦を体の中に作る。そして、その渦の中にチューハイを混ぜ込んで、ぐるぐるにして快眠が完成する、というわけにはいかないのが人生なのだ。
こう語っているのは1K3畳に住み着く21歳社会人の俺であり、それに対して嘲笑を浴びせかけるのが、同居人のクロ(32)。
「そういうことを前提に生きていこうとしてる時点で、健全じゃないじゃん。ひとつでも多く消化して、すっきりした気分で人生を終えようと急き立てられていなきゃ」
クロ、という名前からして、何だペットの動物か、と言う人もいるかもしれないが、そう理解してくれて構わない。
こいつは、クリティカル(=批判的・≠核心を突いた)な発言を二酸化炭素と同じ分量で俺に浴びせかけてくる以外、そこらへんの犬猫と変わらない。むしゃむしゃと笹の葉を食う。肌は真っ白。
俺はくるくる回るチェアを、余計にくるくる回して、酩酊に拍車をかけつつ反論する。
「健全ってなんだよ。健全って言葉で定められているものの中に抑え込まれること自体、ナンセンスじゃない?人間はこれまで社会を変革して続いてきた種族なんだから、型にはまった思考なんてするべきじゃないよ」
「型にはまった思考をする健全な人間が9割9分いないと、残りの不健全な人たちが変革を起こせないでしょ。あんたみたいに『型にはまらなくていいんだ』って、天才たちの論理を自己肯定に使いだす凡人が一番邪魔なのよ、人類にとって」
そう言って、彼女は笹を食う。座っている場所は本棚と本棚の間にある、リクライニングチェア。笹寿司を買ってきたと思ったら、全く味わうことなく寿司を丸呑みし、残ったクマ笹をにゅしゃにゅしゃ齧っている。
「あんたみたいにって、お前は違うのかよ」
「私、パンダだよ。関係ないでしょ、そりゃ」
動物だと思って構わないと、俺は君たちに言った。しかし、一応言っておくと、クロは、犬でも猫でもパンダでもなく、人間の女性である。大学時代にアルバイトしていた洋菓子カフェのチェーンにそのまま正社員登用され、何をしたのか分からないが3年後にはエリアマネージャーに抜擢、その翌年には商品開発部に引っ張られて行き、儲けさせるだけ儲けさせて退職。
莫大な貯金を抱えたままフラフラと過ごし、地方都市のキャバクラで数年勤務しながら、東京との間を往復。東京との往来をしていたのは、「ミルキー」という商品名で脱法ハーブを青少年間に流通させ、小遣い稼ぎをするためだという。売人向けのインスタントなサブスクサービスを作り上げ、定額制で一定量のハーブを売人に流す。質自体は粗悪なものであったが、パッケージのデザインを女子中学生向けの可愛らしいデザインに整え、ふんわりとしたバニラの香りを「パッケージ自体」に付着させた。「ゆめかわいい」的なイメージをまとい、「ミルキー」は家出少女たちの間に蔓延していった。違法薬物の流通で、イメージ商法をいちはやくとった、あくどい女こそ、この同居人のクロである。
こんな人間が真面目な飲食店員の俺に対して、悟ったような口調で色々言ってくるから「ふざけんなよ」と言いたくなる。なんでお前のような人間がのうのうと生きてて、俺は死んだ心地でホールに立たなければいけないんだ。
こんなことを言ったら彼女は、
「じゃあやめれば?朗読やりなよ、劇団でも偶にやらせてもらってるんでしょ?そっちに全集中すればいいじゃん」
「何が全集中だよ、鬼滅か」
「見てない」
「俺も見てないよ」
意味のない会話。彼女は静かになり、膝の上で開いていた雑誌を手に取る。すらりとした白い腿が空気に触れる。クロは白くて細い。だけど図太い。ふてぶてしい。夜の街を生き残る中で身に着けた態度なのだろうか。相変わらずしゃこしゃこ笹を齧る。
「それ、やめろよ」
「何が」
俺が声をかけると、彼女は少し苛々したようだった。雑誌を閉じる音が大きい。ばたん。
「笹の葉、食うのやめろよ。腹壊すぞ」
「ビタミン、ミネラル、食物繊維の塊だよ、クマ笹は。君も試してみたらいい。私は笹を10年前から食べてるけど、肌荒れが全然起こらなくなった」
「奇を衒って食っているんだろ」
「違うよ、誰も知らないだけ。みんな食べればいい、笹」
「消化できねぇよ」
「変だね、私は笹で便通に影響が出たことはない」
「強がりだろ、型にはまる凡人が必要だって言ってたけど、お前は非凡人気分か、変わったもの食って」
「食べられるものを探して、とりあえず口に入れてみるのは動物として至極真っ当。しかも、結果私の消化器官に影響は出ていない。だから食べ続けている。何が強がりで、どこが奇を衒っているのか教えてほしい」
俺はため息をつく。意図してのため息だった。俺が強がっているのかもしれない。意地になっているのかもしれない。しかし、それをこの女に見せたら、それで負けな気がした。
ため息の後、会話は続かなかった。
やり残したこと、しかない気がした。何かやれると常に思っている気がした。
朗読の稽古には、数か月に1度出るか出ないかになっていた。先生は俺が顔を出しても嫌な顔ひとつしなかった。あなたには才能があるとか言って、無料でレッスンを提供してくれた。舞台にも立たせてくれた。その舞台からつながって、別の機会に呼ばれたこともある。
しかしその連鎖も、静かにどこかで終わりを迎える。戻ってくるのは、盆を持ち、料理を運び、手早く喫煙を済ませ、くたびれて帰宅する毎日だ。
何のチャンスにも巡り合わず、ただ何かを成し遂げたい欲望だけ裸で胸中にある時、俺は決まって都内の歓楽街へ向かう。
その歓楽街でクロと出会った。いつのことかは覚えていない。
出会った日、クロは突然俺の前に現れ、居酒屋とバーとカラオケと純喫茶に連れ込み、最後はラブホテルで俺を床に転がし、自分はベッドの上ですやすやと眠った。
そして「帰る場所がない」と言い、その直後に「帰りたい場所がない」と言った。そして俺の部屋に転がり込み、ゴロゴロ過ごして今日で3か月目である。
「君はこの街を通ることによって、何者かになれる、何か特別なものを持っているって、自分に言い聞かせるわけだ」
クリティカル。俺を不機嫌にさせる天才だ、この女は。これを言うのが少女だったら、「生意気な小娘」というキャラクターに回収できたかもしれないが、32歳が言うと単なる嫌なババァである。当然俺は、この女以外の32歳を「ババァ」とは表現しない。クロを何とかして言いくるめて蔑みたい。それが俺の意思だった。
「こういう繁華街を歩くのが趣味な奴もいるだろ」
「そういう人が純粋に散歩だけ楽しめたらいいんだけど、最終的に写真やら、弾き語りやら、エッセイ兼ポエム兼落書きみたいなものに落とし込もうとするから卑しいよね。『俺って天才かも』がインターネット上にゴロゴロ並んでコモディティ化する。インターネットは退屈な恥部の結晶体みたいなもの。君もその一部だよ」
俺は執筆も作曲も撮影もしていない、と言いたかったが、それがあまりに退屈な反論になってしまう気がした。俺はそれを怖れた。そしてその恐怖自体が俺を「恥部」たらしめるもののような気がして、急に吐き気がした。手で口をおさえる。
「お、気分悪い?いいよ、ちょっとどこかで休もう」
そう言うとクロは、俺を支え、近くのビルにある階段まで連れて行った。俺は座り込み、ぐったりと頭を垂らした。
「ごめん、ごめん。笹食う?」
「食わない」
「あっそ」
質の悪いレンズ越しかのように、俺の視界に映るアスファルトの地面は歪む。
「落ち着くまでそうしてな」
クロは優しい。俺が彼女に反発しない限り、彼女は俺に優しい。その優しさは、DVを繰り返した母親が子供との別れ際に発揮するものと似ている。
しかし、しかし、もしかしたら、その真逆かもしれなかった。
そこからどう帰ったのかは覚えていないが、気付いたら俺の部屋だった。クロは俺に膝枕をして、頭を撫でていた。俺は意識が戻ってから、それに不快感を感じ始めていた。
「おい、ガールフレンドみたいな事するな」
そう言うと、彼女は俺の頭を力づくで退かした。俺は後頭部を床にぶつける。
「ってぇ」
「もっと若い男らしく、ふにゃふにゃ顔を緩めろ。それか緊張して表情を硬くしろよ。しろよって言うのも違うけど、全く違うけど」
「意味わかんない」
クロは鼻で笑うと、キッチンへ行き冷蔵庫を開けた。中に入っていたのは笹団子。ビニール袋に大量に入っているもので、彼女はいつもスーパーで買ってくる。
ビニール袋からひとつ取り出し、俺の口に団子の部分だけ押し込んだ。俺が突然の甘味に戸惑う間、彼女は残った笹を噛み始める。しゃぐしゃぐと音がする。
「ずっと食ってるの?」
「うん」
「やめたら?」
「聞き飽きた」
「絶対体に良くないよ」
「体には良いよ」
「俺、調べたけど笹を生で食えるっていう情報どこにも載ってなかった。マジで意地で続けてるくらいならやめな、美味くないだろ」
「美味しくはないけど、不味くはない。サラリーマンが大して美味しくもないのに、毎日コンビニ弁当を飽きずに食べるのと同じ」
「同じじゃねぇよ」
「同じってことになるの、私の中では」
「いや、ほんとに」
俺が彼女の口もとに手を伸ばすと、手首がぐっと掴まれる。強い力だった。
「なんだ、私を心配してるのか、労わってるのか?いいね、いい兆候だと思うよ、それ」
「また意味わかんないこと言って煙に巻くのか、ピエロ」
「ピエロというか道化はその場を和ませるのよ。掴みどころのない空気を作るのはピエロとは全然違う」
「俺にとってお前はピエロってことになったの、今」
「だとしたら文脈が足りない、やり直し」
そう言うと、クロは(どこからそんな力が湧いてくるのか分からないが)細い手で俺をねじ伏せる。両手をおさえ、腹の上に馬乗りになる。
「やめろ、馬鹿、重い」
「君が細くて脆いの」
笹の葉は、いつの間にか彼女の口にはない。既に飲み込まれた。俺は毎度、彼女が笹の葉をしっかり飲み込んでいることが信じられない。
正面から捉えようとしたところ、パンダはごろりと体を捻り、愛らしい尻をこちらに向けた。飼育員はその愛らしい姿に見向きもせず、べちょべちょに散らばった緑色の糞尿を片付けている。
俺はベンチから数十分、パンダを眺めていた。横は空席、のはずだったが、クロが座っている。売店で買ったチュロスを齧っていた。
「パンダが好きなんだね」
彼女が尋ね、俺は
「悪いか」
と返す。
「悪くないし、むしろ良いと思う。パンダは可愛い」
「じゃあわざわざ聞くなよ」
「聞くよ、人気な動物を好きになるって、君のプライドが許さないって感じがしたから」
俺は額の筋肉がピクリと動くのを感じた。そしてパンダから、それ以外の様々なものに目線を振り回した。木々、柵、青空、雲、カラス、飼育員、草、とつぎつぎに事物を認めていく。
俺は、目線がせわしなく動いていることを、彼女に悟られたくなかった。その事に対して、彼女は何かしら皮肉を言ってくるに違いないからだ。その場合、俺は必ずクロに言い返してやらなければならない気がしたし、言い返せなければ、何か、俺は大きなものを失うような気がしたのだ。
ぐるぐると目まぐるしく変わる視界の端、俺はいくつかの黒い布地を捉えた。必死に眼球を止め、ピントをあわせる。それは制服を着た女子学生たちだった。長いスカートをひらひら揺らしながら、パンダの写真を撮っている。時折、「きゃ」という平仮名を伸ばしたり、連呼したりしていた。
「ああいう子たちを」
「うん?ああいうって?」
「あの、女子中学生たち」
俺が言うと、クロも同じ方向を見た。
「女子高生でしょ、あれ」
「そうなのか」
「近くの私立高校だよ、知らないの?」
全く知らなかった。
「で、あの子たちがどうしたの」
「いや、ああいう年齢の子たちの人生を壊してきたんだなぁって思ったんだよ、お前が」
スッと出た。言葉が詰まらなかった。俺は彼女に対して、初めて真っ直ぐ言葉を投げられた気がした。いや、違う。俺が言いたかったことを、初めてまともに言えた気がした。
それが成功体験となって、俺の口は止まらなくなった。
「なんか、特殊ぶって、人と違うって態度とる奴らをさ、卑下して見下した態度とるけど、よく考えたらお前犯罪者じゃん。ああいう子たちの人生、終わらせてきたんじゃん。なんでお前と口論して、最終的に俺が負けたみたいな感じになってたのか分からないよ。お前、クソじゃん。生きてちゃいけない人間じゃん。なんでさ、そんな人生数周目感出してイきれるわけ?こっちはさ、自分の満足いく人生にしたいと思ってて、それで色々作ったり、やってみたりしたいだけなのに、なんでそんな普通の気持ちをさ、極悪非道のクズにたしなめられなきゃいけねぇの?私らが全部、世の中の真理、酸い甘いの現実知ってますみたいな顔してさ。気持ち悪いよ、近付いてくんなってずっと思ってるよ。でも近付いてくるじゃん。近付いてさ、俺はさ、結局なんか、何かするにも違うなって繰り返してさ、結局ぼんやりしんどく、ひとりになってさ。それで、それで、それでお前がいるから、ひとりではないのかなとか、クソじゃん。なんでお前に若干、マシな気分にさせられんだよ。不快だわ、クソが、クソ。クソです、クソにまみれて死ねよ。それが現実なんだろ?お前らが経験してきた、闇にまみれた日本社会ってやつなんだろ?勝手にやってろよ。俺らはいいじゃんかよ。少しくらい自分が何者かだって思っても、ルール守ってるから、俺らの方が偉いじゃんか、上じゃんかよ」
おそらく俺が話し出した中盤ほどで、彼女は笑いだしていた。嘲笑でも微笑でもない。爆笑だった。俺の連なる言葉と、彼女の笑い声が混ざり合い、女子中学生(高校生)たちも何事かと驚いて、どこかに消えてしまっていた。パンダの飼育員も少しこちらを見た。パンダはごろりと寝転んで、変わらず俺たちに尻を向けていた。
その晩、クロはよく眠った。
言い忘れていたが、俺の部屋には2段ベッドがある。昔、弟が頻繁に泊まりにきていたため、用意した。弟はクロの存在を知って以来、来なくなった。
クロは上で眠り、俺は下で眠った。いつもそうだった。
電気を消した数分後、クロが「ねぇ」話しかけてきた。眠気と押し相撲をしながら、のっそりと喋り出す。
「今日さぁ、楽しかったよぉ」
俺は答えなかった。彼女は話し続ける。
「ドラッグ中毒になった子供たちってどうなるか知ってる?」
「少年院だろ」
「そう、でも、そうだけど、その後はどうなると思う?」
「大半が元通りだろ」
「そ、同じよぉに繰り返すし、同じよぉに売春に走って、同じよぉに低時給のアルバイトを辞めたり続けたりするの。で、同じよぉに笑ったり泣いたりして死んでいくの。みんな、自分のことしか考えずにね、泣いたり叫んだりして、自分とか他人とかを斬りつけたり絞めたりするんだよ」
ぎしり、とベッドが鳴る。彼女が寝る姿勢を変えたらしい。あるいは立ち上がったか。彼女がどんな風に身をよじろうと、下段の俺からは確認できない。しかし、彼女は最も自分の心地いい姿勢で寝転がっているに違いない。
「だからね、大丈夫なの。私もあんたも、何者かになりたいこの世界の皆、本当は大丈夫なんだよ。安心してね」
俺はその日以降、彼女に反論してない。
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