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ひとりぼっちのおつきさま

今朝の月、綺麗だったねという話から始まった。

朝に空を見上げて月があるか確認したのか。私は話の始め方がおかしくなって、彼の顔を見て笑った。

何かついているかと聞かれて、鼻の下をトントンと叩いて見せた。実際は何もついていなかったが、彼は鼻の下をおしぼりで何度か擦った。それを見て私はまた笑った。

今朝の月がどうだったか、私は興味がなかったし、彼も大して関心がないに違いない。

私は謙介に渡す予定だった本を渡した。どんな本か聞かれ、私は遠慮なく本の内容を説明した。

中国の作家で、日本人と中国人のワンナイト経験をまとめたノンフィクション短編集で、ひとつひとつの短編の中に、緩やかな愛憎や別文化に生きる人間同士の隔たりが描かれているのだと伝え、彼はふぅんと言いつつ、裏表紙のあらすじを目で追っていた。


謙介と出会ったのは数か月前になる。

Tinderでメッセージのやり取りをして、謙介の方から一方的に会おうと言われ続け、断り続けた末、設定された待ち合わせ場所に行ってみたのだ。

彼は私の方に目を向けると、首を左右に傾けたり体を揺らしたりしながら、不気味な幽霊のように近付いてきて、「ヨリさん?」と聞いてきた。そうだよと返すと、安心したような間抜けなニヤつき面で、マジで来てくれるならそう言ってよぉ。私は謝りもしなかった。

謙介のことを端的に説明すれば、「純粋かつ真面目そうな青年がスペック主義の現代社会に汚染されかけている」という具合だった。更に分かりやすく言うなら、孤独な人?

やけに少年臭い正義感や理想論を語りだしたかと思えば、酒を数杯飲んで俗っぽい恋愛弱者談を展開してくる。恋愛が人生の全てを決定づけるかのように悲観的な話が展開されにされた後、結局は行動、という一昔前のホリエモンみたいな結論を出して、だらりとテーブルに伏せる。

私はそんな謙介に、何をしている時が楽しいのと聞いた。あまりにも楽しいことがなさそうだったからだ。そしたら読書という返答が返ってきたので、じゃあ月に1度、本買ってあげるよと言った。

謙介は鼻から上だけこちらに向けて、「へぇ?」と鳴いた。私が謙介と出会って初めて笑ったのはその時だった。


月を一緒に眺められる関係性がほしいと彼は言った。そういう経験があるのかと聞くと、あったから、また求めているんだと謙介は返した。
「あったんだね」
「あったよ。何の恥ずかしげもなく、夏目漱石のアレとか言えたよ」
「中勘助に言ったやつ?」
「そう、まだ本とか読み始めたばっかりで」
本の中から恥ずかしげもなくロマンチックな言葉を引用して、そのまま無理矢理相手に伝えてしまうような俺なんだと、謙介は反省したように言った。
それは間違ったことなのかと聞いてみた。駅の前にある広場で、謙介は私の正面にあるベンチに浅く座っていた。風が涼しかった。
「月を一緒に見る相手であればいいの?」
謙介は体調が悪そうだった。


夜になり、見上げても月はなかった。雲に隠れて見えなかった。私は謙介にあげた本の数を数えて、5冊目になるなぁ、読むペースとあってるのかな。そのまま歩いて、少し後ろに謙介がいることを感じていた。謙介はこういう時、大体抱き着いてくるのだった。

謙介は無力だった。それは人間が本来無力であることを象徴していた。私は東京に戻ってきてからキックボクシングを始めた。謙介をなんどか蹴った。吹っ飛んでいく謙介はそのままバラバラになりそうだった。そのくらい芯がない。そんな謙介を見て、私は笑うのだ。

抱き着いてきたら、また蹴ってやろうと思う。月は雲に隠れている。朝になれば月は姿を現し、夜に放つべき白さを寂しく纏って青空に取り残される。

謙介が夜に一緒に月を見られる人を見つけたら、私はそっと遠くへ行こうと思う。ただ、そんな日が来ないまま、私からもらった本ばかり部屋に溢れてしまった謙介も、私はどこかで求めている。

#今朝の月
#シロクマ文芸部


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