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【短編】渚の裏切り者

日本の海岸線を辿っていき、外周を計算すれば、12,000キロ。
日本にある道路の総長は、国土交通省によれば、1,281,793.6キロ。
道路上、パトカーで走り回って彼女を探すより、僕はもっと効率的な方法を知っている。海辺を走ればいい。
彼女が好んで訪れる場所は、小さな海辺である。そこに訪れる時、彼女は何かしら、回答を知らない問いに直面している。
美しい海を眺めつつ、他愛もない雑談を繰り返し、海辺のドライブを続けてれば、いずれ彼女に会える。逮捕もできる。

僕は海辺にある小さなアパートで、仕事と呼ぶにはあまりに稀薄な連絡のやり取りを行っていた。
小売店を全国に展開する企業の管理部門。僕は全国の従業員から届いたセルフチェックのアンケートを確認して、メンタルヘルスに問題がある(その基準に到達している)人をピックアップする作業を行っていた。
ピックアップした後は、メールなり社内チャットなりで面談時間を設定させてほしいと依頼の連絡を出す。
そして面談を行い、機械的な相槌を繰り返した後に、「業務継続上問題なし」という文言と共に、その人の名前を上長に申告する。
僕の親の世代までであれば、精神的な健康なんて、いちいち心配されなかった。弊社が昨今の風潮に合わせて、慌てて導入した「優しい社風」の一部が、僕の行っているメンタルヘルスのセルフチェック習慣。
面談でリモート会議をつなぐ社員は、大抵「特に問題はないです」と言って、セルフチェックで「調子が悪い」と回答した根拠を曖昧にしたままだ。本当に調子が悪い時、お前のような管理部の唐変木には明かさないよという意思表示なのか。
少し考えてみれば分かる。気に病むことがあって、それを言葉にして吐き出す相手は、会社の人間ではなく、身近な家族や恋人。

ノートパソコンの画面から少し視線を上げると、水平線。パソコンを少し閉じれば、白い砂浜も視野に入る。
砂浜には、黒いリネンシャツと長いスカートの、彼女が見える。今は立ち止まり、海をじっと見ているようだ。
呑気なように見えた。今、僕が通報して警察が来れば、簡単に彼女は砂浜に押し付けられ、逮捕される。
彼女は2週間ほど前から、ある事件の重要参考人だ。まぁ、おそらく、犯人。
結婚相手と相手方の家族、そして自らの家族を惨殺した女。都内のB区にある30坪の木造一軒家にて、大きなダイニングテーブルを中心に、血の海ができていた。推定犯行時刻は午後の8時。午前1時ごろに、その家から出ていく女性の姿を見たと目撃情報がある。特徴は、彼女と完全一致。
僕はニュースを見ても、いたって冷静でいようと努めた。仕事に読書に映画鑑賞、続けていれば冷静でいられると思った。そんな努力の過程を足蹴にするように、彼女は訪ねて来た。

仕事がひと段落した。パソコンを閉じた後に、アパートを出た。このアパートには、僕を含めて3人しか住人がいない。ひとりはおじいちゃん、もうひとりは漫画家らしい。どちらも部屋から出てこない。
僕は安物のスニーカーに砂が侵入する感触に嫌悪を覚えつつ、彼女のもとまで歩いていく。彼女は数時間、水平線を見つめ続けていた。
「そろそろ昼御飯にしようと思っているんだけど」
僕が声をかけると、彼女は振り向いて、
「もう作っちゃった?」
と聞いた。
「いや、まだ」
「じゃあ作ってあげるよ」
「いいよ。豚バラ肉とキャベツしかない。炒め物くらいしかできないから」
「炒め物でも私が作った方が美味しいよ、たぶん」
僕は肩をすくめると、「じゃあ頼む」と言った。彼女は笑って頷いた。
僕たちは海に背を向けて、アパートへ向けて歩き出す。アパートはぽつんと孤立しており、周囲には木々。コンビニもスーパーも数キロ先にしかない。周りに建造物がない。買い出しの時は、僕は車嫌いだから、リュックに食品をめいっぱい詰めて、原付でこのアパートに戻ってくる。
数時間前、彼女から「原付の後ろに乗せてほしい」と言われた。そんなこと、言う子じゃなかったはずだ、僕の記憶上。

彼女はフライパンと菜箸を動かしながら、僕に聞く。
「久しぶりの再会が、仕事忙しい時で、ごめんね」
「全然、気にしないで。忙しくもないし」
「そうなの?」
「うん。アンケートを見て、メールを送って、たまにリモート面談するだけの簡単なお仕事」
「リモート面談で何するの?」
「悩みを聞く」
「それ、お客さん?」
「いや、うちの社員」
「へぇ、保健室みたいだね」
保健室みたい、という表現で自分の仕事を説明したことも理解したこともなかった。僕はその時本を読んでいたが、まるでその読書に意味がないと思ってしまった。僕は本を閉じて、椅子を回転させて彼女の方を向いた。
「つい最近読んだ本は?」
僕が彼女に聞く。彼女は少し考えるように、視線を上に向ける。大きな目だ。笑うと糸のように細くなる。そんな忙しない彼女の目が好きだった。
「ルソー…?あと、デューイとか、読んだかな」
「面白かった?」
「ぜんぜん?ゼミ現役じゃないと、読んでられない、あんなの」
「そっか」
「君は?」
彼女は僕の名前を呼ばない。大学の時もそうだった。
「いろいろ」
「いろいろねぇ」
大して興味もなさそうだった。彼女は菜箸でフライパンの端をコンコンと軽く叩き、火を止めた。あらかじめ出しておいた大皿に、フライパンの中身を盛っていく。
俺は立ち上がってキッチンに行き、茶碗ふたつとしゃもじを取り出した。
「え、気が利く」
「こんなの、気が利くうちに入らないだろ」
「過去と比べてって意味」
「それはどうも」

シャコシャコという咀嚼音と共に、俺たちは豚の命を貪っていく。
薄めの味付けだが、特徴があり、再度これを食べたいとなれば、彼女を呼ぶ以外ない。そう思わせる味だった。
僕は食べ始めてから数秒後に「美味い」と彼女に伝えたが、彼女は笑顔で頷いたのみだ。そこから数分、沈黙と共に、僕らはタンパク質、食物繊維を炭水化物と混ぜて摂取し続けている。
僕は耐えかねて、テレビのリモコンに手を伸ばす。左上の赤い電源ボタンを押すと、国営テレビのニュースが流れ始めた。
沈黙に耐えるべきだったかもしれない。B区での一家惨殺事件が報じられている。
このニュースを見て、何も表情を変えなければよかった。まだ、よかった。僕は「おぅ」と声を漏らし、チャンネルを変えてしまった。昼ドラが流れ始める。
彼女はリスのように頬張らせ、僕に丸くて大きな目を向けた。
「ひあのははぃ」
米と肉と野菜に阻まれて、彼女の言葉はぼわぼわした。
「え?」
僕が聞き返す。聞き返したくはなかった。彼女は口の中にあるものを飲み込んで、傍らにあるプラスチックコップを手に取り、中にある麦茶を一気に飲み干した。そして、
「いまのわたし」
と言った。

僕は努めた。
「あ、そうだね」
僕はそう返答したと思う。
声が震えていただろうか。震えてなどいないと、信じたい。僕は彼女に対し、可能な限りフラットでいようとした。社内のメンタルヘルス相談で、たまに強烈な心労をぶつけてくる従業員に、「対処」する時みたいに。
「うん、そう」
彼女の返答は不親切だ。淡白で、内容がなく、僕に話を紡がせようとする。そういう会話が苦手な僕を、彼女は知っているはずなのに。
彼女は麦茶を自分のコップに注いだ。僕の方にピッチャーを差し出す。僕は首を振った。彼女は「そう」と言って、まだ麦茶を飲み始める。また、一気飲み。
僕は野菜炒めの23%ほどを食し、米を残していた。彼女は残りの野菜炒めを食べ尽くし、米は3杯目。

結局、その後何も話さず、昼ドラが終わってCMが流れ始めるころに、食事を終えた。僕は仕事を再開した。彼女は再び海岸に行く、と思いきや部屋に留まって、ソファに寝転がった。
「ねー、今いい?」
「あぁ」
俺はメールの文面を打ちながら、返事をする。
「私、今晩出るね」
僕は素っ気ない返事をすればいい。そのはずだが、どうも口がうまく機能しない。やけに乾いている気がする。口内の気持ち悪さなんて、脳に伝達しても無駄だ。全神経を仕事に集中させなきゃいけない。それなのに、
「そろそろね、行かなきゃいけないところもあるし」
と彼女は言葉を続ける。
僕は素っ気ない返事をすればいい。すればいい?いや、そんなはずはない。もっと慌てて、いったい何があったんだよ、もっとどうにかならなかったのかよ、お前、きっと、どこかおかしいんだよって、そう言うべきか。
素っ気ない返事ができないのではない。僕は、素っ気ない返事をしようとする自分に、どこか納得がいかない。結果、無言。
「ねぇ、聞いてる?」
後ろで、彼女が立ち上がった。そんな気がした。気配がした。だって、僕はパソコンから目を離さず、手も止めなかったから。そっちを見ることをしなかったから、実際立ち上がったかなんて分からない。
「ちょっとぉ」
彼女の言葉がすぐ後ろから聞こえた。そして俺の両肩に手が置かれた。タイピングが激しくなる。俺の肩の微妙な揺れに、彼女の手も連動する。画面に何が映っているのか、既に分からない。適当な文字列が余白を埋めているかもしれない。だけど、一向に文字を打つ手が止まらなかった。
僕は仕事をしている人間に、その場でなる必要があった。そんな気がした。そうすれば、仕事を終えたころに、僕は彼女に聞くことができる気がした。『なぜ、殺したの』
そう聞くために、僕は仕事をしなければならない気がした。
後ろでため息が聞こえた。そして、
「ちょっと独り言になるけど、よければ聞いててね」
と彼女は言った。

「健吾くんは真面目じゃなかったよね。本も読むし、勉強もするけど、全然真面目じゃなかったよね。バイトも続かなかったし、就職活動も最初は散々非難してたよね。結局、妥協して仕事に就くって決めたのかもしれないけど、でも、君は小説書いたり、映画を撮ったり、写真を撮ったりするのが好きだったよね。楽器は何もできないかったみたいだけど。私は就活した。就活しない人の気持なんか分からなかったよ。疑問をもって、うだうだ考えるよりも、金稼ごうって思うタイプだったし。私、健吾くんとどこで仲良くなったか覚えてないけど、就活始めたら健吾くん私のことボロクソに言うんだろうなぁって思った。だけど、そんなことなかったよね。ちゃんと話聞いてくれたよね。全然、何も自己主張とかせずに、私の言葉に沿って考えてくれたよね。私は話したいことが話せた。たぶん、健吾くんが話を聞いてくれなかったら、私はやりたいことできなかったと思う。本当に感謝してる。ほんとに。私と健吾くんって、周りから付き合ってそうみたいに言われてたけど、1回も付き合ったり、それに近付いたこともないよね。物理的な距離が近くなったとしても、居酒屋のテーブルでしっかり距離が確保されてた。それ、よかったと思うよ。私たち、近すぎなくて、程よくお互いのこと、どうでもいいと思えてて、よかったと思う。どうでもいいでしょ。どうでも、の部分は大切じゃないんだよね。どうでもいい、って、どうでも『良い』ってことだと思う。私は健吾くんと知り合いになれてよかったし、話せてよかった。でも、そうやって仕事を一生懸命してる君を見てると、健吾くんが私をどうでもいいって思わなくなっちゃうような気がして、少し怖いし、寂しい」

彼女の言葉は、彼女の言った通り、独り言で終わった。
言い切った後に、彼女はソファに戻り、何事もなかったかのように読書を始めた。僕の本棚にあった小説らしかった。本棚から本を出し入れする音が聞こえていた。
僕が仕事を終えたころ、彼女は荷物をまとめ始めていた。時刻は18時。
「これから、どこへ行くの」
僕が聞くと、彼女は少々不機嫌な顔をした。
「どこだろうねぇ」
僕は無言で彼女に近寄り、肩に手を置いた。彼女は俺の方を見て、嬉しそうな顔をした。

澄田 澪は逮捕された。自首したとのこと。
澄田が殺害したのは自らの父母と交際相手、そして交際相手の両親だった。
事件当日、晩餐会が開かれており、2人の結婚について話したのだという。
澄田はその時の詳細な会話の内容について一切を明かしていない。
澄田は犯行後、シャワーを浴び、シャツとロングスカートに着替えて、家を出た。
その後、関東から関西までの各地を転々としていた。
神奈川、静岡、愛知、三重など、いずれの目撃情報も海岸近くでのものだったそうだ。

僕は引っ越した。東京都の西部、山もいくつか連なる田舎。
僕が愛した水平線も砂浜も、今では僕を否定する材料だ。
あの美しい景色を前にしながら、僕はひどく臆病で薄情で、その上おせっかいな大勢の人類に紛れてしまった。
彼女が海岸を好んで歩いていた理由など僕は知らない。
しかし、美しい渚の風景が僕には似合わないと、彼女と過ごした1日が、僕に告げている。

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