見出し画像

なぜ日本でギフテッド教育に取り組みたいのかを改めて考えてみた。

どうも、しょーじです。

京都大学 教育学研究科 認知心理学講座の修士課程を休学し、京大生で運営するGOALOOK学習塾の副代表に就任。現在はギフテッド教育に関心を持ち、オンライン教育サービスdialogueの立ち上げに取り組んでいます。(サービスの詳細はこちらから)

教育事業に取り組む起業家の友達から

「ギフテッド教育に本気で取り組むならまずはアメリカでやらなきゃでしょ。」

ということを言われて、うーむ、確かに、、となってしまいました。

最先端のギフテッド教育が行われているアメリカで、色々なプレイヤーと切磋琢磨した方が確かに良い教育が作れるのかもしれない。

逆にギフテッドに対する理解が進んでいない日本でギフテッドに関する事業をやるのは色々な制約が多いのかもしれない。

そこでなぜ自分は日本で教育事業をやるのか、を改めて考えてみました。

そういえば私はギフテッド教育をすることを目的に据えているわけでもないんだった。

ギフテッドの問題を解決したい!とか、リベラルアーツの素養を育んでアカデミックな視点から物事をガチで探究していく教育が作りたい!とか表向きには言っているんだけど、実は私が強く興味を持っている仏教の思想が根底にあります。

個々の欲求、価値観、信念は、全て相対的であり絶対的なものではない、それを悟ってそれらへの執着から離れることで苦しみから解放されるんだとブッダは言いました。

そしてそのブッダのスタンスは、絶対の正解に拘らず、全ての物事を相対化して批判的に捉えようとする、リベラルアーツの素養に通じるところがあると思っています。

日本人は主体性がないとか、同調圧力が強いとか言われますが、昨今それがさも悪いことであるかのように扱われることが多いと思います。

でもそれは個人主義、自由主義などに立脚した西洋的な視点からの価値判断であって、調和や人情を重視する日本人特有の生真面目さにも、それはそれで価値があるのではないかと思っています。

そう考えると、ギフテッドの子どもは西洋的な視点から見れば素晴らしいけど、東洋的な視点から見れば問題児、ということになるのかもしれない。

すると日本で生きづらさを感じているギフテッドの子どもは、自分自身の特性や価値観を相対化する機会、すなわちリベラルアーツの素養を身につける機会に恵まれているとも言えるのかもしれない。

レベルが低くてつまらないと感じる学校に行く経験すらも、文化人類学的なフィールドワークだと捉えれば、むしろ最高の学び場になるのかもしれない。(こちらの記事に詳しくは書きました。)

そういう意味で日本でやりたい。のかもしれない。
とりあえず今はそんな風に思います。

オンライン対話サービス dialogueについて

お子さんの成長を見守る中で こんな悩みはありませんか?
「知的好奇心の高さから日常がちょっと物足りない」
「興味のあることが周りの友達や 先生に理解されない」
「物事の考え方や感じ方の違いから話が合わない」
「人間関係がうまく築けず、周りの人から孤立しがち、、」

こんなお子さんを対象に、親でも先生でもない、少し年上でナナメの関係を築けるメンターによる「傾聴」と 「対話」を提供します。

子供の興味関心に対して本格的な専門知識で応えられるメンターとの対話により、知的好奇心を満たして、更なる学習意欲を引き出します。

またそのような対話を通して信頼関係を築いたメンターは、日常生活での悩みを打ち明ける相談相手となれることもあるかと思います。

無料体験も可能なので、お気軽にご連絡ください。詳細はこちらから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?