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学校を「文化人類学的なフィールドワーク」だと捉えてみない?

どうも、しょーじです。

京都大学 教育学研究科 認知心理学講座の修士課程を休学し、京大生で運営するGOALOOK学習塾の副代表に就任。現在はギフテッド教育に関心を持ち、オンライン教育サービスdialogueの立ち上げに取り組んでいます。(サービス概要はこちらから)

今日は、学校を文化人類学的なフィールドワークの場だと捉えたら少し学校が楽しくなるんじゃないか?という提案をしてみます。

いわゆるギフテッドと呼ばれる知的好奇心や思考力が高い子どもにとっては学校に行くことは色々な意味で苦痛であることが多いと思います。

授業の内容は簡単すぎてつまらないし、より高度な内容を知りたいと思って先生に質問すると何故か面倒臭そうにあしらわれるし、存在意義のわからない謎のルールは多いし、と色々なことに引っかかってしまいます。

このような環境の中で、それでも学校側が押し付けてくる規範に適応しようとするけど適応しきれず、周りに合わせること出来ない自分はダメな人間なんだと思い込まされる、こういう事が起きていると思います。

ここで学校という場所を、先生から何かを教わる場所ではなく、学校の文化や生態系を文化人類学の手法で研究するためのフィールドワークの場所であると発想を変えて捉えることで、学校に行くことに少しだけ前向きになれるのではないか?と思っています。

文化人類学とは?

文化人類学というのは、人間の日常的な行動や街の様子を観察することで、その地域に根づく文化や社会などのしくみを研究し、「人間とは」という普遍的なテーマに挑戦する学問です。現地の生活に入り込んで調査するフィールドワークが特徴です。

フィールドワークにあたってはそのコミュニティに深く入っていって、そこでの生活に馴染みながら、そこで大事にされている慣習、行動の様式、その背景にある思想や文化について理解を深めていきます。

例えば、災厄や疫病を鎮めるために、多大なお金と労力をかけて奈良に大仏を建てた当時の日本人の気持ちを想像したことはありますか?

奈良東大寺の大仏

「仏様に祈れば疫病が鎮まるはずだ」という迷信に囚われた愚かな時代だったと馬鹿にしていては、その本質は分かりません。

中国から伝えられた仏教思想は、当時最も文明が栄えた先進国である中国で採り入れられている先進的な思想であり、宗教、哲学的な側面だけでなく、今でいうところ政治学、法学、土木工学、医学をも含んだ学問体系であったと言われています。

このことから「中国から来た偉い坊さん説く”仏教思想”を信じる当時の日本人」と「欧米から来た偉い学者が説く”科学”を信じる現代の日本人」は本質的に同じことをしていることに気づけるはずです。

このように、一見すると無駄に見える慣習の背景には、このような歴史的な経緯や文化的な意味があったのかというような気づきがあり、「人間とは」を理解するための新たな視点が得られるのが文化人類学の研究の魅力です。

学校を文化人類学の視点で捉えてみる

そう考えると、学校というコミュニティは新たな視点を獲得して「人間とは」を理解するための絶好のフィールドだと言うことも出来る気がしてきます。

「なぜ先生は学校に無理やり来させようとしてくるのか?」
「この謎のルールはどんな経緯から作られて、なぜ今も残り続けているのか?」
「先生たちが大切にしている行動原理や価値観は何なのか?」
「なぜそのような価値観が形成されるのか?」

どれも興味深いリサーチクエスチョンに見えてきませんか?

そのように学校という社会を俯瞰的に眺める視点に立てれば、学校に馴染めない自分を過度に否定する必要がない事に気づけるし、一見理解不能な学校のしきたりの背景にある歴史的な経緯や、それにより根付いている先生たちの価値観にまで思いを巡らせることで、先生側の気持ちもわかってあげようとする態度が生まれると思います。

私自身の体験

私も仕事柄、学校の先生と話すことがありますが、学校という組織は本当に興味深いなと感じます。

私が働いている塾の生徒で、学校に行くと体調を崩してしまうから基本は学校には行かない選択をしているけど、内申点を気にして無理やり登校して、それで体調を崩して、となっている中学生がいます。

文科省からは不登校という選択も認めていこうという方針が示されていますが、必死になって学校に来させようとしてくる現場の先生もおられますよね。

その背景には、不登校の子どもがいるとその状況を報告しなければならない制度があるため、先生の仕事が増えないようになるべく普通に登校してほしいという先生側の気持ちがあったりします。(諸説あって一概には言えないようですが、、)

こう書くと先生側を責めたくなりますが、先生という職業の給料の安さと多忙さを考えたら、現場の先生を批判するのも酷な気がしますよね。

そうすると、その報告制度の運用方法を見直すべきではという気がするし、文科省もそういう方向性の方針を打ち出してはいるが、実態としては文科省のお達しは現場に届いておらず現状維持がまかり通っており、それは"新たな成果"より"今まで通りの調和"を重視する行政という組織風土を考えると仕方がない側面もあります。

この"新たな成果"より"今まで通りの調和"を重視する文化は、日本の国民性に深く根付いたものであるから変えることはなかなか難しいし、そもそも”新たな成果”だけを求めて、アメリカに代表される実力主義社会を形成するのが絶対的に正しいのか?と考えると、それもどうなんだろうという気持ちになってくる。

こういう風に考えていくと、私は怒りや悲しみよりも、(不謹慎かもしれないけど)知的興奮を感じてしまいます。

このほとんど詰み状態にある難解な社会問題をどこからどのようにアプローチすれば解けるのか?と考えると、エネルギーも湧いてきます。

もちろん被害を受けた当事者ではないからこそ、持ちうるスタンスではあると思います。しかしこういう問題に対して怒っていても、悲しんでいても、解決には至らないのもまた事実です。

そしてギフテッドのお子さんの中には、持って生まれた才能からこうした思考が好き、かつ得意な子も多いのではないかと思います。

文化人類学的な思考方法を身につけることは、目の前にある一見ネガティブに思える事象を、視点を変えてポジティブに捉える訓練にもなり、それはその後の人生でも大きく活きていくと思います。

そのためにも学校は文化人類学的なフィールドワークをする場所であり、ネガティブに見える事象をポジティブに捉え直す、柔軟な思考方法を身につける最高の学び場であると考えてみることを提案してみます。

それでは、また。

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