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【エッセー】回想暫し 18 昭和の妖怪(2)


 岸は、戦犯容疑者として収監された翌年早々、公職追放の処分を受け、獄窓を出ても、いまだ公職追放の身であったゆえ、政治的な自由を完全に回復したわけではなかった。同処分の解かれるのは、サンフランシスコ講和条約の発効を待ってからで、一九五二年四月二十八日のことである。
 岸は自由を再び手にして、何を考え、何を思ったか。少なくとも、岸にはおのれが戦争へ導いたことへの深い反省は見られない。
 岸は、かりに、省みなければならないものがあるとするなら、それは日本が聖戦に負けたことだけだ、と考えていたふしがある。その強固な自意識は、逮捕、収監、不起訴、釈放の三年余を経ても、何ら減じなかったようである。
 釈放後まもなく、岸は日本の政治の再建を口にした。一人の記者が岸の過去とからめて、その資格ありやなしやを問い質すと、岸は、

私は、巣鴨生活で過去一切は清算したつもりだ。したがって自分としてはその資格はあると思う。他から東条内閣の閣僚だとか軍の手先だとかいわれるかも知れない。それはある程度事実なんだから止むを得ないが、現在の自分の気持としては元商工大臣とか翼政総務だとか、そんな過去の経歴にこだわる気持は毛頭ない。

岩川隆『巨魁 岸信介研究』

 と、答えた。何とも不思議な論法である。過去は清算した、過去の経歴にはこだわらない、だから資格はある、と岸自身が考えたところで何の意味もなさない。おのれの過去をあっさり清算してもらっては困るし、おのれの過去の経歴をたやすく忘れてもらっても困る。国民の判断や国民の赦しといった一番肝心な前提を巧みに捨象した岸の論理の運びには、呆れるばかりである。岩川は、

戦後の日本の政治は、おかしなことに、戦前・戦中のいわゆる大物によって支えられてきたが、いずれもほぼ似たような免罪句をもって再登場した。それを許したのは、私たちである。〝清算〟の内容も知らずしてその人物を一国の総理にまでまつりあげたとは象徴的な現象だろう。

岩川隆前掲

 と、嘆いている。しかしながら、この嘆きはこの国が滅ぶまで続くのではあるまいか。権力者の悪事がいかに明るみに出ようとも、ひとたび選挙になると、

「おらが先生を落としちゃなんねえ」

と、地元が一丸となって当選させる。百年河清をつとは、まさにこのことではないのか。
 話は前後するが、一九五七年二月二十七日、岸が首相としてはじめて所信表明の演説を行なったとき、衆議院では社会党書記長浅沼あさぬま稲次郎いねじろうが質問に立ち、
「岸総理は、東条内閣の閣僚であり、大東亜戦争宣戦布告の署名者であり、官僚統制の実践者として中小起業者からその企業を収奪して大資本に奉仕した者である、こういう考えが国民の中には相当浸透しております」
 と述べ、岸の考えを質した。
「当時のことにつきまして十分反省をいたし、今日におきましては、民主主義政治家として、国民大衆とともに日本の建設に当りたい念願で一ぱいであります」
 岸は当たり障りのない答弁をした。参議院でも、社会党の荒木正三郎が同様の趣旨の質問をした。岸は、
「私は当時のことに対しましては、厳粛な反省をいたしまして、今日は、民主主義に徹したる政治家として日本の再建に努力したいと考えております」(「国会会議録検索システム」)
 と、答えた。
 岸は役人時代、黒を白と言いくるめるにおいて、だれにも負けなかった。民主主義なる単語を口にしたところで、舌を嚙んだりはしなかったのである。
 岸の政治家としての復活は、一九五三年四月の衆院選に当選したころから本格化した。翌五四年、日本民主党幹事長職に就き、五五年には訪米して、重光・ダレス会談に臨んだ。帰国後、鳩山一郎や三木武吉らとともに保守合同を果たし、自民党幹事長に就任した。まさに日の出の勢いである。
 その勢いはなおもとまらず、五六年十二月、自民党総裁選に出馬。石橋湛山に破れはしたが、石橋内閣に外相として入閣。そのあとすぐに石橋が病に倒れ、政権が転がり込む。五七年二月、岸内閣成立。
 石橋の病が岸を権力の座に導いたことを見ても、岸は稀に見る強運の持ち主であったと言える。が、それにしても、首相就任までがいかにも早い。何か強力な支援があったのではないかといった疑いを禁じ得ないところである。
 矢板玄は柴田哲孝との対談の際、岸を助けた者の一人として、ハリー・カーンの名を挙げた。
 カーンなる人物は、ずっと巣鴨に拘置されていた岸にいつ会ったのか。「岸の追放が解除された一九五二年以後のこと」(春名幹男前掲)とする説があれば、「岸が一九四八年に巣鴨拘置所から釈放された直後のこと」(ジョン・G・ロバーツ、グレン・デイビス『軍隊なき占領──戦後日本を操った謎の男』(森山尚美訳))とする説もある。THE DAILY YOMIURIのカーンへのインタビュー記事では、一九五二年ごろとなっている。
 いずれにせよ、カーンは、岸の釈放後にはじめて岸に会ったと考えられるゆえ、まだ見ぬ男のために一肌脱ぐということはあり得ない。それに、当時のカーンに岸を助ける権限も力もない。
 矢板の言は、カーンが、GHQの占領政策を逆コースに転換させるに大きな役割を果たしたこと、GHQが逆コースを推進するための日本側の人材として、岸を必要不可欠と見なしたこと、の二点を取り上げれば、何とか辻褄が合う。すなわち、カーンは直接的にではないにせよ、間接的に岸を助けたのである。


 ハリー・カーンとは、そもそも何者なのか。カーンと岸の間にはいかなる関わりがあったのか。
 カーンの名が日本人に知られるようになったのは、一九七九年、ダグラス・グラマン事件における闇取引が、白日のもとにさらされたときからである。
 戦後、日本の航空機選定には、つねに黒い噂がつきまとった。たとえば、岸の関係した第一次FX(次期主力戦闘機)の選定。
 一九五八年四月の時点で、FXはほぼグラマン製に内定していたものが、翌年十一月、ロッキード製に引っ繰り返った。その間、想像を絶するやり取りがあったに違いない。超右翼のフィクサー児玉誉士夫が登場し、児玉や自民党に億単位の金が流れたと噂された。
 一九七六年二月には、ロッキード社の旅客機受注をめぐる汚職事件が明るみに出、田中角栄元首相が受託収賄容疑で逮捕された。今太閤ともてはやされた田中の凋落ちょうらくは、日本国中を震撼させた。
 尤も、またしても登場した児玉誉士夫と当時の自民党幹事長中曽根なかそね康弘やすひろを結ぶルートの捜査は中途で消え、結局、田中逮捕のみで蓋をされてしまった後味の悪さは、いまなお当時を知る人々の記憶に残る。
 事件は、米国に逆らった田中を失脚させるための陰謀だったとする説がある。が、闇はことのほか深い。真相解明に挑んだ者は、脅迫を含めてあらゆる妨害に遭い、事実、事件関係者の何人かが不自然な死に方をしている。
 さらに、一九七九年一月、米証券取引委員会(SEC)による告発があった。グラマン社が、同社製の早期警戒機E─2Cホークアイを売り込むべく、代理店の日商岩井(現双日そうじつ)を通じて、日本の政府高官に不正の金を渡したというのである。
 再び、日本国中が大騒ぎになった。政府高官として、福田ふくだ赳夫たけお、中曽根康弘、松野まつの頼三らいぞうらとともに岸信介の名が挙がった。この折り、ハリー・カーンの名が現われた。
 カーンは日商岩井と秘密契約を結び、グラマン社製の同機を日本の防衛庁に口利きする報酬として、日商岩井が受け取る手数料のうち四十%を自分の取り分にしたという。カーンはその一部を日本政府の高官に支払い、三方一両損ならぬ三方一両得を狙ったわけである。
 同事件の捜査は、松野が五億円の収受を認めたほかは、例によって龍頭蛇尾に終わった。岸は、濾過器を使いすぎてその性能が鈍ったのか、このときは薄氷を踏む思いをしたらしい。当時、カーンについては、グラマン疑惑の渦中からにわかに浮かびあがった国際フィクサー、ハリー・カーン氏。米国、中東、アジアの有力者から収集する第一級の情報は、きわめて確度が高いという。

日本の首相への手土産にイランのキャビアを持参するというカーン氏。日本の戦後体制のある側面は、政財界にはりめぐらされた彼の〝見えざる手〟によって、動かされてきたことも事実だ。

『朝日ジャーナル』一九七九年二月二日号

 などと報道され、世間の耳目を集めた。だが、「占領期から戦後の日本政治の舞台裏で暗躍した黒幕で、保守本流の政権維持を裏から支えた知られざる〝工作者〟だった……」(青木冨貴子ふきこ『昭和天皇とワシントンを結んだ男 「パケナム日記」が語る日本占領』)とされる実像は、いつしかその名とともに忘れられる。
 ハリー・カーンは一九一一年、コロラド州デンバーの生まれ。ハーバード大で歴史と文学を学び、三五年に卒業。三七年、ニューヨークのニューズウィーク社に就職した。
 同社の発行するニューズウィーク誌は、大手金融グループの意向に沿う超のつきそうな保守的傾向の週刊誌であり、「J・P・モーガン社のほか、ハリマン、アスター、ホィットニー、メロンなど大手金融グループの影響下にあ」(ジョン・G・ロバーツほか前掲)った。
 これらの企業経営者たちは、資本家なるものの典型と言うべきか、利潤追求のためには、商取引相手方がたとえファシストであろうとも、まったく拘泥しない。ファシストとしてつとに知られるスペインのフランコ将軍をも支持した。
 カーンは、こうしたニューズウィーク誌応援団の政治経済的思想には、極めて鋭敏であった。彼らの気に入る記事を書き、誌面をつくることによって着実に昇進した。
 ジャーナリストは、各界の名士に会える特権と極秘の情報に接触し得る機会にめぐまれる。カーンは、戦時中に会った国務省、陸軍省、軍需産業界の指導者たちとの交流を戦後も維持した。
 それらが結実して、カーンの天職となる。有力な金融資本家や産業資本家たちのための広報エージェントがそれである。カーンは、育て上げた人脈とそれらの人々からの信頼をフルに活用し、入手した極秘情報を武器に、国際情勢に影響を与えるほどの存在と化す。あくまで表舞台に立たないフィクサーとして。
 カーンのビジネスチャンスをとらえる巧みさは、他の追随を許さなかった。日本に対する関心は、米国産業経済界のリーダーたちの意向に従ったまでで、あくまで仕事の一環、利益をもたらす対象にすぎなかった。
 カーン自身は、先にも触れたTHE DAILY YOMIURIのインタビュー記事で、一九四一年十二月七日、戦争が日本への関心をもたらした、と述べている。
 戦前、日本企業と商取引していた企業経営者にとって、たとえば、モーガン系列の企業や銀行、ロックフェラー系企業等々にとり、GHQの進める日本の非軍事化、民主化政策では、自分たちの利益の妨げになる。彼らは戦前、日本に投資した資金を回収しなければならなかったし、戦後も従来どおりの利潤にあずかれる日本の政治経済体制を望んだ。つまり、日本の民主化なんぞを進められては困る立場にあった。
 やがて、カーンはニューズウィーク社の外信部長の職に就いた。同社の東京支局長がコンプトン・パケナム。二人の出会いは一九三〇年代のニューヨークまで遡る。
 パケナムは一八九三年、日本生まれの英国人。上司のカーンの方が十八歳も若い。二人の関係は上司と部下というよりは、同志に近かった。
 パケナムは、爵位を持つ名家の末裔であった。支流のそのまた支流ゆえ、本家からすれば、そんな人物がいたかなといった末端にすぎないが、それでも、貴族の出自がパケナムを骨の髄からの守旧派にした。パケナムはGHQの日本占領政策を嫌忌した。
 パケナムは日本と日本の文化を愛し、宮内府(宮内庁の前身)式部官長の松平まつだいら康昌やすまさとは、肝胆相照らす仲であった。神戸生まれのパケナムは日本語に堪能かんのうで、岸信介の英会話の家庭教師をしたこともある。日本人との間に個性溢れる交流網を築き、仕事と両立させた。
 パケナムは随時、カーンにGHQ批判報告を送り、カーンはこれを歓迎した。カーンの指示により、ニューズウィーク誌本社ライターが、パケナム報告をGHQ批判原稿に仕立てて、同誌に載せた。日本経済の復興を図る米国大手銀行や大企業の主張を露骨に代弁したのである。
 さて、カーン、パケナム連合のペンが、GHQに対して牙を剥いたのは、ニューズウィーク誌一九四七年一月二七日号を嚆矢こうしとする。
 日本における「最も活動的で、有能、かつ洗練されたコスモポリタン」であり、内外の共産主義の脅威に対してアメリカとともに協力する意志をもつ日本人実業家三万人が、新しい公職追放令のもとで仕事からはずされようとしている……。(ハワード・B・ショーンバーガー『占領 1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』(宮崎章訳))このような迫害は、日本の極左グループと、つねに目を光らせているロシア人、つまりは過酷なパージの擁護者を助けるだけである。(ジョン・G・ロバーツほか前掲)
 カーンによるこれら歯に衣着せぬ批判は、「実際に指名された財界首脳は千九百人ほどで、大企業役員の一パーセントにも満たなかった」こと、非難されたGHQのGSは、「私企業による自由競争システムを積極的に奨励していた」こと、「マッカーサーは統合参謀本部からの直接指令によってパージを実行した」(同前)ことなどからみて、事実と大きな食い違いをみせている。が、カーンのペンの力と、応援団の金と力は、マッカーサーの反駁を寄せつけなかった。
 カーンの第二弾は、ニューズウィーク誌同年六月二十三日号。GHQのESS(経済科学局。財閥解体計画を担当)に対して、「彼らの無能さゆえに、アメリカは「貧困に陥った日本を食べさせるという重荷を全面的に」負わねばならない」(前掲)とする非難のつぶてを投げつけ、マッカーサーを真底、怒らせた。
 極めつきの第三弾は次節に記すとおり、同じ年十二月のニューズウィーク誌上で炸裂した。これは、カーンの予想を超える大きなインパクトを内外に与えた。


 一つの政策を支持するか否かは、それのもたらす利害得失、自身の社会的立場や所得、さらには政治的考えやおのれの信仰する宗教などによって、人さまざまに異なってくる。
 GHQのGSが打ち出した民主化政策は、日本国民にはおおむね支持されていたものの、戦前の支配者側にとっては我慢ならぬものであったろうし、逆にいまだ手ぬるいと考えた者もいる。
 たとえば、『中国の赤い星』で知られる左翼系のエドガー・スノーは、サタデー・イブニング・ポスト誌一九四六年六月二十二日号に寄稿し、GHQによる財閥解体について、財閥の影響力を完全に除去してしまうための方策の実施ぶりはまったく適切でない。独占企業家のうち、一人として戦争裁判にかけられたものはいないし、彼らは武装した軍国主義者と同罪であるのに、まだ大きな土地や私企業の所有を放任されている。(中略)財閥家族の排除令は、学校の模擬法廷にかけられたようなもので、現実面では、ほんの一握りのトップ・ランクだけが懲罰されたにすぎない。(大森実『戦後秘史6 禁じられた政治』)
 と、酷評している。厳しい評価はカーンと同レベルであるが、カーンは財閥を解体するなと言い、スノーはもっとやれと言うのである。
 そのころの日本人は食べるのにせいいっぱいで、たとえスノーのような批判を見聞きしたところで、まったく無感動であったろう。
 さて、カーンとマッカーサーの闘争は、いわゆるFEC二三〇(極東委員会公文書第二三〇号。過度経済力集中排除法案関係文書)をめぐって最高潮に達する。
 発端は、一九四七年九月のこと。戦前、東京帝大で英米法を教えたジェームズ・リー・カウフマン弁護士が、二三〇号文書を批判する報告書を作成し、各界にばらまいたことからはじまる。
 GHQは、日本政府に対し経済の民主化条件を課し、経済力の集中排除と再編成を速やかに実施せよ、と指示したが、私の知るかぎり、文書にされた経済民主化の方程式はなく、認められたことは、日本の富を、労働者と農民と小企業者に分配することだけである。
 労働基準法に例をとるならば、アメリカの労働者が享受している高度の水準を日本の労働者にも与えようとする、ゆきすぎたものである。

GHQの反トラスト・カルテル部は、さらに、集中排除法という法律を作らせて、財閥とは無関係の会社までをも、一つ残らずバラバラに破壊しさろうとしている。

大森実前掲

 カウフマンは自分の感じた状況を述べて、GHQ当局を糾弾した。カウフマンは戦前、日本の法律事務所を共同経営しており、ゼネラル・エレクトリック社、スタンダード・オイル社、リビー・オーエンス・フォード・ガラス社、ディロン・リード社等、主要米国企業の日本における商取引の実質的代理人であった。
 カウフマン批判報告に接した一人、ウィリアム・H・ドレーパー陸軍次官はすぐに東京に飛び、カウフマン報告の真偽を調査した。その結果、ドレーパー自身も、二三〇号文書の計画は、企業財産を労働組合に売り渡そうとしていると確信した。ドレーパーは、ウォール街のディロン・リード社出身である。
 ワシントンに戻ると、ドレーパーは、ジェームズ・フォレスタル国防長官に「この指令を実行に移せば、日本は永久に米国の厄介やっかい者になるだろう」(大森実前掲)と報告した。
 同国防長官もまた、ディロン・リード社出身である。カウフマンの応援団はほかにも大勢いた。とどめを刺したのが、前節末で少し触れたニューズウィーク誌一九四七年十二月一日号によるカーンの第三弾であった。
 カーンは、「現在アメリカで許容されている以上に左傾化」(ハワード・B・ショーンバーガー前掲)といったセンセーショナルな見出しをつけ、カウフマン批判報告の要約を同誌に載せた。
 GHQは四面楚歌に陥った。が、そんなことで怯むマッカーサーではない。まさに粛々と過度経済力集中排除法案の成立を日本国政府に強いた。
 カーンはこのあたりを正念場とみて、ACJ(American Council on Japanアメリカ対日協議会)のニューヨーク設立に動いた。いわゆるジャパン・ロビー(米国による対日政策遂行上の圧力団体)の旗揚げである。
 じつのところ、ジャパン・ロビーと見なし得る勢力は、一九四八年六月のACJ設立前に、すでに米国政府とGHQに執拗な攻撃をかけていた。ACJ設立後、同勢力は一丸となって獅子奮迅の大活躍を示し、米軍の日本占領がやむまで、陰に陽にわが利益のためにロビー活動に邁進したのである。
 同年四月ごろには、米国政府は、二三〇号文書に対する公的見解を変えていた。これにより、GHQはしぶしぶ不都合と喧伝けんでんされる政策を棚上げして、逆コースへと転換してゆく。加えて、朝鮮戦争の勃発が、GHQ初期の良質な対日政策を吹き飛ばした。逆コースは短時間で根づき、びくともしないほどに成長するのである。
 当時、米国内には二つの圧力グループがあった。日本の財閥解体に関しては、「綿製品、レイヨン、陶磁器業界など、戦前、日本の競争力の被害を体験した米業界は、日本の工業力の復活阻止に強大な圧力を加えたが、その反面、戦前から日本企業と提携関係をもち、日本に投資していた米企業は、解体反対の圧力グループとなった」(大森実前掲)といった具合に、両グループの主張は氷炭相容れぬものであった。
 後者に属したカーンは、財閥解体を骨抜きにして後者に多大の利益をもたらした。カーンの応援団やACJの支援者たちをつぶさに眺めるとき、「建国のその昔から、野心的なアメリカ人は、政府を動かすにはみずから政府になってしまうのが最善の策だという自明の理を実践してきた」(ジョン・G・ロバーツほか前掲)と言われることが、すんなり納得される。
 ACJの支援者には、ジョセフ・C・グルー(戦前の駐日米大使、国務次官を歴任)、ウィリアム・R・キャッスル(元駐日米大使、フーバー政権の国務次官)、ユージン・H・ドゥーマン(元米国大使館参事官)らを中核に、大企業経営者たち、銀行家、外交官、軍将官などが目白押しである。
 無論、おのずから限度というものがあろうから、カーンやACJのごとき存在は、政府を動かすためにみずから政府になった者たちにとっては、重宝な代弁者と言える。自分たちの望みを、ロビイストがカモフラージュしてくれるし、ロビイストと対決したり、やむなく迎合したりのポーズを取っておけば、公平性をアピールできる。
 カーンとACJは、「民主的諸権利の行使に歯止めをかけ、上昇機運にあった労働運動を後退させ、日本を再軍備の道へと導」(ジョン・G・ロバーツほか前掲)くにおいて、自分たちの役割を存分に発揮した。
 一般的に、冷戦が日本占領政策を逆コースへと転換させたと言われるが、それよりももっと大きな理由が隠されていたのである。


 キャピー原田は、日米野球界の橋渡し役としての功で名がある。日本占領期、日系二世キャピー原田中尉は、GHQのESSに配属され、ウィリアム・F・マッカート少将のもとで活躍した。しばしば世間を騒がせたM資金(GHQが占領下の日本で接収し、蓄積した秘密資金)のMは、マッカートの頭文字とされる。GHQという組織のなかで、GSのホィットニー、ESSのマッカートおよびG2のウィロビーは、マッカーサーのフィリピン・ルソン島のバターン半島からオーストラリアへの脱出行にき従ったいわゆるバターン・ボーイズの一員、あるいはそれにつながる面々であった。ゆえに、マッカーサーの信頼がことのほか篤い。
 されど、GSやESSなど幕僚部は改革派、G2など参謀部は保守派と、信奉する政治思想は対極にあった。GSとG2の立場は共に天を戴かずの間柄に変貌し、相手方を蹴落とすことも辞さなかった。幕僚部内のGSとESSとでは、GSの方がよほど左寄りであった。
 キャピー原田は、大映の永田ながた雅一まさいちに勧められて、巣鴨プリズン収監中の岸信介に会った。ESSは財閥解体と経済復興を所管する。岸の考えを聞くのは、いわば必然の成り行きであった。

「人間は、背骨がなくなるとだめになる。財閥解体は極端にやると、逆効果になってしまう……」

一九九四年九月二十二日付け朝日新聞

 その折り、岸は持論を語った。キャピー原田は、聞きしに勝る岸の該博な知識、とりわけ経済通に舌を巻き、たびたび巣鴨を訪れるようになった。永田に頼まれて上司のマッカートに、岸の釈放を説いたこともある。矢板玄の働きかけが岸の釈放嘆願の一つならば、キャピー原田のそれもまた一つということになる。
 いずれにせよ、岸の財閥解体に関わる論は、カーンの主張と面白いほど似通っていたのである。

 大きな影響力を持つアメリカ対日協議会(ACJ。筆者注)のハリ・カーン、ユージン・ドーマン、コンプトン・パッケナムらは、岸の戦前のジョーゼフ・グルーとの交友関係を思い出し、一九五三年の追放解除の前から岸の世話をやいた。

マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか 占領期から冷戦終結後まで』(市川洋一訳)

 カーンは、岸の抜け目のなさを認めた。愛国的な日本の紳士、岸信介は有能な政治家でもあった。カーンらが世話をやいたなかには、パケナムが岸に英会話を週二回教えたことや、岸のためにヨーロッパ旅行およびアメリカ旅行の手配をしたことも含まれる。
 カーンは、ジョン・フォスター・ダレスおよびアレン・ウェルシュ・ダレスの兄弟と親しかった。兄は国務長官、弟はCIA長官。この二人との交友は、カーンの情報の並々ならぬ精度なくしては考えられない。
 カーンは、一九五五年一月四日付けでダレス兄に文書を送り、パケナム報告を添付した。同報告には、岸のことが次のように書かれていた。

現時点でもっとも活動的で実力があるのは岸信介で、彼はたまたま私の親しい友人でもある。彼は自由党の重鎮、佐藤栄作の兄だ。

青木冨貴子前掲

岸は努めて表に出ないようにしているが、彼の事務所のスタッフは彼が保守勢力をまとめることができれば、次か、その次くらいには首相になれると確信している。岸は毅然とした態度を取り、多くの日本人のように、はぐらかしに無駄な時間を使うことはない。

同前

 岸はそのころ、民主党幹事長の職にあり、首相の鳩山一郎の後継者として名乗りを上げていた。カーンはその年五月に訪日し、岸と長時間話し合うことによって、岸を使える男と見なしたおのれの評価をさらに深めた。
 その後、カーンは訪日の都度、岸の自宅や熱海の別荘に招かれる。両者は、良く言えば互いの親交を深め、悪く言えば互いが互いの利用価値を認めた。

「戦後の日本はアメリカとの友好を基礎にしないといけない」

春名幹男前掲

 と語った岸の言葉がカーンの脳裏に深く刻み込まれる。一九五五年八月、岸は訪米して重光外相らとともにダレス国務長官と会談した。カーンはこの機会を利して、歓迎昼食会二回、夕食会一回をワシントンやニューヨークで開催し、岸を米国官財界やマスコミ界の有力者に引き合わせた。
 このとき、主役を演じたのは岸であって、外相の重光ではない。岸は大いに面目を施した。が、裏を返せば、カーンによって、つまりは米国政府によって、たくみに取り込まれる道を否応なく選択させられていたのである。
 カーンは、ダレス国務長官に岸との会談すら勧めた。事実、同年八月三十一日、ダレスは、岸と個人的に会っている。これらは、「岸は米国側に自分を売り込むことに成功した。アメリカ政府は、岸のことをよきパートナーとして認識し始めた……」(春名幹男前掲)という願ってもない結果をもたらした。
 されど、両者の思惑の本当のところはどうであったのか。じつは、岸と米国政府関係者との密接なつながりは、もう少し早くに発生している。
 オーストラリア国立大のテッサ・モーリス-スズキ教授が、戦前と戦後に駐日米大使館勤務をしたJ・グラハム・パーソンズの業績を調べたときに、同人が引退後に執筆した未刊行の自伝を見つけた。パーソンズは、そのなかで次のごとく述べていた。

 もと戦犯(戦犯容疑とは書いていない)の岸は、五〇年代に在東京大使館の我々の働きかけで傘下に納まり、(中略)自民党総裁になったのちに、岸はアメリカの信頼できる協力者となった……。

吉見よしみ俊哉しゅんや、テッサ・モーリス-スズキ『天皇とアメリカ』

 パーソンズの証言は、その経歴からして信憑性が高い。これを知って驚かぬ人はいないであろう。
 さらにテッサは、パーソンズがロバート・フィアリーなる元国務省職員に送った手紙を発見した。パーソンズは、そのなかで岸が傘下に納まったのは一九五四年だったと記していた。
 傘下に納まるとはどういう意味か。cultivateという原文は、育成する、教化するの意。それが嵩じれば、傘下に納まることもあり得る。
 岸は、同年十一月に日本民主党幹事長、一九五七年に自民党総裁職に就任している。公党の幹事長、総裁が他国政府の傘下に納まり、信頼できる協力者となったというのは、穏やかでない。端的に言うならば、スパイになったと受け取れる。五四年というのも早い。

 カーンの動く前に駐日米大使館が岸確保に動いていたわけであるが、「戦後、岸を米大使館に直接紹介したのは、元陸軍大佐神保信彦という人物だ。/神保は(中略)一九五三年九月四日、岸を米大使館員に会わせた」

春名幹男前掲

 ということらしい。
 さすれば、一年後に岸がcultivateされても不自然ではない。戦中、神保じんぼ信彦のぶひこは、陸軍中佐としてミンダナオ島にいたとき、のちにフィリピン大統領になるロハスの命を救った。当時、この美談は全国的な話題となった。神保と岸との接点は不明である。

さて、こういった流れを見てくると、一九五五年八月末、ダレス国務長官が岸と会ったとき、ダレスは、「面と向かって──もし日本の保守派が一致して共産主義者とのアメリカの戦いを助けるならば──支援を期待してもよろしい、と言った」

ティム・ワイナー『CIA秘録上 その誕生から今日まで』(藤田博司・山田侑平・佐藤信行訳)

 というこれまた衝撃の事実を聞かされても、もう驚かなくなってしまう。
 岸は、米国政府の国務長官が支援を申し出たことに、内心、欣喜雀躍したのであろうか。この場合の支援とは政治的資金であることは、考えるまでもない。
 この種の暴露ものには、しかしながら、確実な証拠がない。世界で最も進んだとされる米国の情報公開といえども、国家機密に関わる重要な公文書の公開は、はるか遠い先の話である。従って、史的材料が証言ばかりというのが困った点で、証言が信用できるのか否かは、だれにも判らないのである。


 一九九四年十月十日付け朝日新聞は、「ワシントン8日=ニューヨーク・タイムズ特約」として、「CIA、自民に数百万ドル」と見出しを打ち、CIAの資金援助の一端を報じた。リードと本文は次のごとくであった。
 米ソ対立の冷戦時代にあった一九五〇年代から六〇年代にかけ、米中央情報局(CIA)は、主要秘密工作のひとつとして日本の自民党に数百万ドル(当時は一ドル=三六〇円)の資金を援助していた。米国の元情報担当高官や元外交官の証言から明らかになったもので、援助の目的は日本に関する情報収集のほか、日本を「アジアでの対共産主義のとりで」とし、左翼勢力の弱体化を図ることだった、という。
 五五年から五八年までCIAの極東政策を担当したアルフレッド・C・ウルマー・ジュニア氏は、「我々は自民党に資金援助した。(その見返りに)自民党に情報提供を頼っていた」と語った。
 このスクープ記事を書いたのは、ニューヨーク・タイムズ紙のティム・ワイナー記者で、同記者は、二〇〇八年に前出の著書を刊行し、CIAの闇に果敢に斬り込んでいる。
 CIAには政治戦争を進めるうえで、並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。それは現ナマだった。CIAは一九四八年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった。
 岸は日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていくことを約束した。アメリカは日本に軍事基地を維持し、日本にとっては微妙な問題である核兵器も日本国内に配備したいと考えていた。岸が見返りに求めたのは、アメリカからの政治的支援だった。
 アイゼンハワー自身も、日本が安保条約を政治的に支持することと、アメリカが岸を財政的に支援することは同じことだと判断していた。大統領はCIAが自民党の主要議員に引き続き一連の金銭を提供することを承認した。CIAの役割を知らない政治家には、この金はアメリカの巨大企業から提供されたものだと伝えられていた。
 ワイナーは同書のまえがきで、すべて直接取材と一次資料に基づいた著述だと断言している。真実のすべてではないが、真実以外のことは書いていないというのである。
 証言ということでは、アリゾナ大のマイケル・シャラー教授(歴史学)のそれも重要である。シャラーは、米国務省の歴史外交文書諮問委員会のメンバーだったことがあり、仕事上、非公開文書に目を通す機会を多々持った。
 シャラーは、春名幹男のインタヴューを受けた際、「岸がCIA資金を得ていたのは、疑問の余地がない」(春名幹男前掲)と明言しているし、シャラー前掲書のなかでも、次のように述べている。
 岸は一九四〇年代末の社会復帰以来、アメリカ側に自分を強く印象づけた。(中略)彼は首相に就任後、CIA(中央情報局)とのあいだに秘密の財政的政治的関係を築いた。彼はしばしば東京のアメリカ大使館とのあいだのチャンネル役を果たした。
 CIAによる資金は、一九五八年五月の衆議院選挙運動をはじめ、さまざまな方面に使われた。国務省と情報分析家は、社会党が大きく食い込み、岸の「親米」派は自民党内の競争相手と比べてあまり伸びないのではないか、と心配した。運動資金は、選び抜かれた一群の自民党指導者を通じて、とくにアメリカに友好的だと思われる候補者に渡された。一方、反社会党活動に利用する政治情報を得るために追加資金が使われ、比較的穏健と思われる一部の社会党候補者に対しても、党内での彼らの立場の改善をはかるために資金が提供された。(中略)この資金は、日米間の財政的結びつきの大きさに比べれば、ささやかなものではあるが、一九五八年の衆議院選挙と一九五九年の参議院選挙で岸の梃子入れに役立つことになる。自民党と社会党の政治家に対する資金提供は、少なくとも一〇年間つづいた。
 自民党のみならず社会党議員の一部もCIA資金に汚れていた。「社会党よ、お前もか」
 と、歎くほかはなさそうである。
 春名前掲書は、CIAが「岸に渡した金は現金だった可能性が強い」こと、元CIA副長官補佐官ビクター・マーケッティが、岸はCIAの「エージェント(代理人、スパイの意味)ではなく、同盟者だった」と語ったことも記述している。
 エージェントは、金のために国を売る。他方、同盟者は金をもらって、両国の利害を調整する。両者の立場に違いはある。少なくとも、一介のスパイと一国の首相とでは、情報の量、重要性、信頼度、カバーする範囲等々において歴然とした差がある。が、倫理に限定すると、両者に差を見出すことは難しい。
 金をもらった段階で対等な関係はあり得ない。日米両国の利害を調整した結果、米国に有利にならなければ、契約違背であろう。同盟者なる言葉は、岸のような立場の者を庇う言い換えにすぎないのではないか。
 結局、エージェントか同盟者かは、CIAが当該人物をいかに位置づけするかで決まる。同盟者ならば、それなりに敬意が表され、エージェントのように顎で使われることはない。利用価値がすこぶる高いゆえに、それなりに処遇されるのである。従って、同盟者として扱われた岸は、エージェントよりも一層悪質だったと言える。
 先にも触れたように、政治とは悪魔の力と契約を結ぶことゆえ、政治家に聖人君子はいない。昨今の選挙にはとりわけ金がかかるためか、政治屋の考えることは金のことばかりである。
 金のことを脇に置けば、時の首相のひとしく持つ願望は、おのれのなした仕事で歴史に名を残したいとすることであろう。実現すれば、名誉この上ない。吉田茂にはサンフランシスコ講和条約締結と日本の独立があり、鳩山一郎には日ソ国交回復がある。
 岸は、おのれのなすべき歴史的業績を、日米安保条約の改定に狙い定めたのではないか。占領色に満ちた片務的安保条約を双務的な独立国にふさわしい条約に改定することは、日本国のためにも日本国民のためにもなし遂げなければならぬ一大事業であると。
 マッカーサーは占領当初、日本をアジアのスイスにする構想を持っていた。非武装中立である。されど、その構想のなかでも沖縄は除外されていた。沖縄は、米国の太平洋戦争の鹵獲ろかく品である。沖縄に恒久的な基地を築き、核兵器を貯蔵するのは、米国にとって譲歩も妥協も絶対に許されぬ最重要の国家戦略であった。
 一九五七年二月、首相となった岸は国内ではトップの存在なれども、米国に対するときは、敗戦国の首相、それも、CIAから資金援助を受けるという傷だらけの身の上であった。岸は歴史に自分の名を残すべく、米国用と日本国内用との二つの基準を採用する。これぞ外務官僚得意の方式と言うべきか。米国の主張をほぼ全面的に受け容れるものの、国内向けには米国の大幅な譲歩を勝ち取ったと高言する二重基準──。日本の属国化を将来にわたって固定するこの方式は、六十年余を経た現在も健在である。


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