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【エッセー】回想暫し 昭和の妖怪(3)上


 
 一九五七年六月十六日、岸は羽田から訪米の途に就いた。日本の新首相は、できるだけ速やかにワシントン詣でをし、自身を売り込むとともに米国の意向を押し戴く。
 人によっては、中国古代王朝にたとえて、朝貢なぞと自虐的な言の葉を用いる。帰国した首相は、例外なく米国に対して借りてきた猫のようにおとなしくなる。米国の皇帝とは、それほど威厳に満ちた存在なのである。
 岸は一九五五年八月、重光外相とともに臨んだダレス国務長官との会談で、重光がまともに相手をしてもらえなかったあの悪夢の場面をよく憶えている。それゆえ、訪米にあたって、念入りなシミュレーションを繰り返した。コーチ役は、岸が首相になる十日前、二月十五日に赴任した新駐日米国大使ダグラス・マッカーサー二世であった。
 同大使の父アーサー・マッカーサー三世は軍人で、その弟に日本に君臨したダグラス・マッカーサー元帥がいる。マッカーサー二世大使は、叔父からダグラスの名をもらったのである。
 一九〇八年生まれのマッカーサー大使はそのとき、四十九歳。十一歳年長の岸と二人がかりで、六〇年安保の根幹をまとめることになる。
 

マッカーサーの日本への影響力は、二代にわたって考えたほうがいいのかもしれません。最初の一世があまり可視的でないと思っていたら、二世のほうがもっともっと不可視だった。

吉見俊哉、テッサ・モーリス-スズキ前掲

 テッサは、このように言っている。一世のマッカーサー元帥は占領当初、日本の民主化を進めた。日本人は民主主義の何たるかを学んだ。これは、必ずしも深くはないにしても、日本に根づいた。
 だが、逆コースへの転換で、占領政策は右傾化へ雪崩なだれた。再軍備はその最たるもので、マッカーサー元帥は左翼と右翼の双方において日本に大きな影響を残した。
 マッカーサー二世大使は一世同様、タカ派で、米国の国益が最大となるべく日本で活躍した。現実分析能力に優れ、日本側の主張を大幅に認めることもできた。日本が中ソの側に行ってしまったら、元も子もないと。
 外国での一大使として、極めて大きな仕事をなし遂げたのは、叔父の名声が寄与したこともあるが、マッカーサー大使自身が参謀としての能力に加え、実際に指揮して戦争に勝つ能力も叔父並みだったことが大きい。マッカーサー大使は横暴なので、恐れられたり嫌われたりした。このことも、叔父にそっくりであった。
 岸の一九五七年六月の訪米時、米国内はジラード事件をめぐる昂奮が渦を巻いていた。しかし、岸には、ハリー・カーン、マッカーサー大使という二人のすぐれた参謀がいた。
 ニューズウィーク誌同年同月二十四日号の表紙を飾ったのは、煙草を右手に持つ岸の顔写真であった。同誌は翌月一日号では、岸の米国内での動きを報じている。同誌の岸へのサービスは、半端ではない。
 カーンは、岸とアイゼンハワー大統領とのゴルフ、ニューヨークのヤンキースタジアムでの始球式等々の演出に、多くのアイディアを提供した。岸は、議会の両院で演説もした。
 岸が対米戦の宣戦布告に署名したのが、一九四一年。十六年の光陰は、双方の怨念を消し去ったかのようであった。少なくとも、ジラード事件が惹き起こした米国人の日本に対する非難感情が、訪米中の岸を不快にさせることはなかった。
 カーンは、一九五六年にニューズウィーク社を辞め、みずからフォーリン・リポーツ社を設立している。岸の訪米にあたって、社外からさまざまな働きかけをしたのであるが、なにゆえカーンは、ニューズウィークを退社したのか。
 カーンの後任外信部長アノード・ボージュグラブは、「引継ぎのときのことはよく憶えている。カーンが『ひとつ、いっておきたいことがある。五人のストリンガー(契約記者)はCIAトップと特別の取り決めがある』というのだよ」(青木冨貴子前掲)と、青木に語ったという。
 カーンは前々から、アレン・ダレスCIA長官と親しい関係を築いている。カーンとCIAとの関わりには、並々ならぬものがあったとみていい。
 ニューズウィーク社首脳部がそのことを嫌ったか、カーンが同社のなかで仕事がしづらくなったか、より懐が暖まる仕事に移動したか、退社の理由はそのあたりであろうか。

カーンは、アメリカ、日本、そして中東の利権にかかわる影の仲介人兼ロビイストとなった。一九五六年七月のカーンから岸外相宛の私信は、『ニューズウィーク』を去った後、カーンの利権がどこにあったかを示唆している。それは、とりわけ四大国際石油資本に関する利権であった。

ハワード・B・ショーンバーガー前掲

 当時、日本は、石炭から石油をベースとする産業構造への転換を急いでいた。カーンは中東と日本を結ぶ仲介人として、利権をほしいままにしたのではなかろうか。岸は日本の政治家のなかで、中東の重要性を解した唯一の人と言われる。カーンと岸の親密な関係の背後には、いついかなるときも、巨大な利権があった。
 一方、マッカーサー大使は、現行安保に固執するダレス国務長官に対して、改定への道を切り開くべきこと、岸による安保改定の提起を門前払いすると、日本を中ソの側に走らせてしまうかもしれないことなどを説いた。
 岸はこの訪米前に、東南アジア歴訪を果たしている。アジアについての知識や訪問体験を踏まえて、アイゼンハワー大統領に会えば、会談をより実りあるものにできると計算したからで、独自外交の推進を高らかに宣言した。
 されど、米国側が、岸の東南アジア歴訪にまったく関知していなかったと言えば、そうではない。マッカーサー大使は、日本への赴任前にダレス国務長官と東南アジアの経済開発について、話し合いをすませている。
 米国政府は、日本と中国間の貿易拡大を忌んだ。日本を中ソ側へ惹きつけそうなことは、何であろうと反対する立場を貫いた。その代わり、東南アジアとの貿易促進で、日本の経済力を増進させようと考えたのである。
 岸がいつ、東南アジアとの経済協力を思いついたのかは定かでないが、マッカーサー大使の言動から推すれば、「岸の南・東南アジア歴訪は、アメリカが敷いたレールの上に実行された、と言っても過言ではなかった」(春名幹男前掲)とする方が、肯綮こうけいあたっている。
 岸以降、現在に至るまで、日本の根本に関わる重要な政策は、米国政府の命令、指示、要望、示唆によってもたらされた。日米合同委員会や年次改革要望書の存在を見れば、それは歴然としている。
 双方の要望なれど、日本は米国の要望に添うよう全力を尽くし、米国は日本の要望を聞き置く態度に終始する。米国の要望は当然、米国の国益を最優先している。従って、米国の要望を受けた日本国内での改革は、日本国民のためにならない。ずっと後年の郵政民営化や労働者派遣法を見れば、一目瞭然である。
 さて、岸の訪米はいかなる果実をもたらしたか。岸は、米国政府首脳の信頼を勝ち取った。これは、間違いなく成功の部類に入る。カーン、マッカーサー両ルートからの岸売り込みは功を奏したうえ、岸自身も頭脳の明晰なことでは人後に落ちない。そのそつのなさを大いに発揮したことであろう。
 ただし、岸の悲願とする安保改定問題については、米国政府のガードは極めて固く、結局、玉虫色の妥結となった。すなわち、ダレス国務長官は、重光外相のときのように岸を門前払いにすることはなかったし、安保見直しを認める発言もしたが、米国議会の承認が必要となる本格的な改定には難色を示した。

ダレスからすれば、日本の防衛に当たる強力な日本軍が存在しない以上、在日米軍と基地を自由に使用する権利は、そもそも安全保障条約の締結の主要な理由である。彼としては、軍事行動について日本政府の承認を求めることや、通告することさえも約束するつもりはなかった。

マイケル・シャラー前掲

 ダレスは、マッカーサー大使から事前に報告や提言を受けたものの、日本国内の世論について正確に理解していたとは言い難い。日本人は、在日米軍の存在が、日本を心ならずも戦争状態に引き摺り込む因となることをおそれた。
 米国政府は、米軍が撤退すれば、日本は真空状態となり、ソ連が速やかに日本に侵攻するであろうことを疑わなかった。日米両者の考えの間には、巨大な深淵があった。
 紆余曲折を経たのち、安保条約改定については、日米安保委員会を設けてその場で検討することになった。が、同委員会で協議する事項とその範囲についてすら、日米間の認識に大きな懸隔があった。米国側は、あくまで運用面での変更といった軽微な事項しか念頭になかったのである。
 帰国した岸には解決すべき問題が山積していた。本来ならば優先順位のトップにあてるべき安保改定は、ずっと下位に置かれた。それが、成功したはずの訪米の果実の実態であった。


 
 一九五七年十月四日、ソ連が人工衛星スプートニク一号の打ち上げに成功した。このニュースは世界中を駆け巡り、各国民を震撼しんかんさせた。
 一番ショックを受けたのは、米国であったろう。東西冷戦のさなか、西側諸国がまさか科学技術で東側に後れを取るとは、考えもしなかったのである。
 宇宙科学技術とは、軍事技術を意味する。米国はソ連の軍事的優位に直面し、自国防衛戦略の大変革を余儀なくされた。東西のバランスが東に大きく傾けば、米国の傘の下から抜け出す国が出でこないとも限らない。
 事実、日本では衆参両議院でこの問題が取り上げられ、同年十一月二日の参議院本会議では、社会党の岡田宗司そうじ議員が、
「アメリカの核兵器と長距離ミサイルがソ連より優位にあることを前提としておるこのアメリカの戦略と外交とは、ソ連におけるミサイル、人工衛星の成功によりまして根本からくつがえされたのであります。しかも、ソ連がしばしば言明しておるように、もしアメリカの与国が、アメリカの供給する核兵器、ミサイルをもって武装され、これを使用するならば、同じ武器をもって報復を受けるであろうということを言っておりますが、これは単なるどうかつではないのであります。すなわち、われわれはこの可能性を今日はっきりと見せつけられておるのでありまして、今や、日本がアメリカの戦略と外交にたより、アメリカ陣営の一員といたしましてアメリカ軍を駐留せしめ、原水爆とミサイルの時代においては旧来の武装平和の考え方は無意味であり、放棄されなければならないのであります」
 と代表質問し、日米安保体制は放棄されるべきものと強く主張した。岸は、
「私はこういう科学の発達は、岡田君もお話のごとく、これが人類の幸福のために、福祉のために、平和的に利用されることをわれわれは心から念願し、従って、これが破壊兵器として人類の平和を脅かすということのないように、大国間において軍縮の協定ができ、こういうものがそういう破壊的に用いられないという事態を作り上げなければならないと思っておりまして、この方向に向って、国連を中心としてあらゆる努力を続ける考えであります」(国会会議録検索システム インターネット)
 と、当たり障りのない答弁をした。が、岸の内部では、

社会党の主張のようにしたならば、仮に核戦争に巻き込まれる事態は避けられたとしても、ソ連の軍事的、政治的、経済的圧力に無限に屈服することになり、現在の東欧諸国やフィンランドのようにソ連の衛星国と化すであろう、ソ連も人工衛星打ち上げという軍事的デモンストレーションによって、そのような効果を狙っていることはきわめて明白である。
祖国の独立と平和を、及ばずともみずからの力で守ろうという気概のない国家の存在は、却って侵略の誘惑を招来し、世界平和の上で有害となる。私は安保改定の意義をかみしめざるを得なかった。

岸信介『岸信介回顧録 保守合同と安保改定』

 と、日米安保体制のより一層の堅持を期していたのである。岸の反共主義は徹底していた。ソ連のスプートニクは、岸に対して何らの影響も与えなかった。
 しかしながら、岸が祖国の独立と平和と言うとき、そこには日米安保による米帝国主義への無条件の奉仕が前提となっている。
 他方、アイゼンハワー政権は、ソ連のスプートニクが日本を中立化へ、あるいは中ソ側へ移行させることを懼れ、日本側の主張に耳を傾けざるを得なくなった。つまり、日本の真の独立を果たす道は閉ざされていなかったのであって、岸は譲歩しすぎたと言わなければならない。
 米国政府から有形無形の援助を得ていた岸は、新安保の本質を密約で隠し、形ばかりの双務条約をつくって、大事業をなし遂げたと取り繕うしかなかったのであろう。
 さて、そんな事情が絡んで、日米安保改定交渉に積極的に乗り出したのは、米国側の方が先であった。マッカーサー大使は、一九五八年二月十八日には早くも全面改定草案を作成し終えていた。九月十二日には、マッカーサー草案を検討した結果の国務省、国防省草案ができている。
 これに対して、日本の外務省は、全面改定を検討する考えをまったく持たなかった。これでは、端から勝負にならない。
 日本側は憲法九条がある限り、全面改定は不可能と思い込んでいた。一九五八年十月十四日夜、岸は、米国NBC放送網を通じて、「日本が自由世界の防衛に十分な役割を果すために、憲法から戦争放棄条項を除去すべき時がきた」(同月十五日付け朝日新聞夕刊)と、語った。
 岸は、新安保を対等双務条約にするためには、海外派兵を禁ずる憲法九条の廃止が必須と見なした。国内でこれをオープンにすると、大問題となるので、米国内で観測気球を上げてみたのである。社会党が早速、岸を軍国主義者と名指しして非難した。
 日本側の旧態依然の取り組みを尻目に、マッカーサー大使は、憲法九条の廃止は短期間ではとうてい不可能と見通していた。一朝事あるとき、米国は日本を守るが、日本は米国を守らない。この絶対的不平等条件のもとで、岸の望む対等双務条約をいかにして可能にするか。
 同大使はユニークな発想のもと、このアポリア(解決不能の難問)の解を見出した。「米国は日本を守る。日本は米国を守る必要はない。その代わりに米軍は日本の基地を自由に使用する。核兵器の日本への持ち込みにも制限がかからないようにする。この条件を満たすことによって、米国は、日本が米国を守る以上の国益を得る」と。
 このあたりは同大使の独擅場どくせんじょうである。されど、当然ながら、米軍内部からは、米国が日本を守り、日本が米国を守らないというのでは、同盟なんぞ口にするだけでもおこがましいなどと、不満が噴出した。
 しかし、日本側に立ってみると、日本はなるほど米国に守ってもらえるかもしれないが、代償として基地を提供し、核兵器を持ち込まれても文句ひとつ言えないのである。どちらが失うものが大きいかと言えば、日本の方であるのはあれこれ考えるまでもない。
 マッカーサー大使の論理は、いかにも巧妙であった。外国の軍隊が国内に駐留する限り、独立はない。沖縄の現実を見れば、即座に判る。日本側は双務にこだわりすぎて、実質的に日本占領の継続を認める痛恨の選択をしてしまう。
 九月に国務省、国防省草案ができあがるまでには、紆余曲折があった。とりわけ、後者は、条約内容を日本占領時代に戻しかねないほど頭が固かった。が、ついに折れた。
 最初のマッカーサーが日本国憲法をつくり、後ろのマッカーサーが日本国憲法に抵触しないようにして、米軍が日本における基地を自由に使用すること、および日本を西側陣営に引き留めることに成功した。結果として、二人のマッカーサーは、日本の根幹に関わる極めて大きなものを残した。とりわけ、後ろのマッカーサーの負の遺産(基地の自由使用ほか)は、日本の真の独立を遠ざけて久しい。


 
 一九五八年十月、日米政府は安保条約の全面改定へ向けて、交渉を開始した。日本側は岸、藤山愛一郎外相、米国側はマッカーサー大使、ウィリアム・レンハート公使。これら四人が中心となって、交渉を極秘裏に進めた。
 米国側は、交渉を新安保条約の本体のみにとどめたい意向を示し、行政協定に触れることを嫌った。
 ところが、自民党内の有力派閥から行政協定不変とは何事かとの異議が入った。行政協定には日本側にとって不利な条項が数多あまたあるゆえ、これは当然のクレームであった。結局、行政協定大幅改定の方向に動き、交渉は遅れに遅れた。
 一九五九年十月、外交調査会において反岸勢力による異議申し立てを多数決で否決。同月二十六日、両院議員総会で安保改定とその内容についての党議決定。岸は反主流派を斥け、調印に向けて一歩も二歩も前進した。
 明けて一九六〇年一月六日、日米間の交渉はついに妥結した。同月十九日、ワシントンで新安保条約調印がなる。
 新安保、すなわち、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」は、前文と全十条からなっていた。
 前文は、条約の締結目的をうたい、なかでも、経済的にも積極的に協力してゆくという文言には、単なる軍事同盟を超える幅広い日米協力をめざす方向が打ち出されており、これは第二条に規定されている。
 旧条約では、米国が日本を守る義務や期限が謳われていなかったが、新安保ではその点が改善された。さらに、旧条約のいわゆる内乱条項(米軍による日本国内の大規模内乱の鎮圧)や米国以外の国への基地貸与等の禁止条項は、削除された。
 重要なのは、第五条と第六条である。第五条は、有事の際の相互防衛の規定で、日本国の施政の下にある領域、すなわち、北は北海道から南は南鳥島までの日本の領土(領空、領海を含む)内で、武力攻撃を受けたとき、日米両国は反撃するという内容である。
 日本の領土内で米国が武力攻撃を受けるのは、米軍が日本国内で使用する軍事基地とその軍隊に限られる。これらが攻撃されたとき、日本も共同防衛に立ち上がるとするが、米国本土やハワイ、グアム等に対する日本の共同防衛義務はどこにも規定されていない。
 これでは、確かに両国の共同防衛義務のバランス上、日本に有利すぎる規定である。尤も、安保改定に反対する国民は共同防衛を認めない立場にある。

米軍基地は治外法権の地域で、日本の行政はおよばないし、日本人は米軍の許可なく立入ることができない。われわれは、「祖国のなかの異国」から発進する飛行機、ロケットについてまで、共同の運命を約束してしまったことになっている。

日高六郎編『一九六〇年五月一九日』

 と、安保そのものに反対であった。それゆえ、安保改定派と反改定派の対話は成り立つはずもなく、両者の激突は不可避の運命さだめにあったのである。
 ところで、条約中、日本の領土のなかには、沖縄と小笠原は含まれていない。当時、これらの諸島は米軍の施政権下にあった。が、条約区域に沖縄、小笠原を入れることは可能であった。
 沖縄、小笠原を条約区域に入れたところで、主権がたちどころに日本に還るものではないが、主権はこちらにあるのだ、とつねに訴えておけるメリットがある。復帰への足がかりとなるかもしれない。
 かりに、条約区域内の沖縄、小笠原へ武力攻撃があったとするならば、日本本土の米軍基地に対するのと同様、米国への攻撃であるから、日本側としては、まさに共に戦うことによって共同防衛の双務性を発揮できる。
 しかしながら、それこそが、日本が米国の戦争に巻き込まれることであって、日本国民の最も忌むところであった。沖縄、小笠原を条約区域に入れなければ、ハワイやグアムと同じ扱いとなって、日本に防衛義務は発生しない。つまり、戦争に巻き込まれなくてすむ。
 岸や外務官僚は沖縄、小笠原の扱いをどうするかで迷った。日本国内でも、この問題は大きな議論を呼んだ。
 地元の沖縄でも意見が分かれた。一方が、戦時中は捨て石として扱われ、いまも沖縄防衛の義務はないとしたいのか、と感情的に反撥すれば、他方は、沖縄を条約区域に入れると、沖縄の基地が強化されて日本への復帰が遅れるのではないか、と反対する者も少なくなかった。いずれにせよ、地元沖縄は条約区域云々よりも、祖国復帰が喫緊の課題であった。
 米国側は、沖縄、小笠原を条約区域に入れることに強く反対した。米国側としては、沖縄、小笠原を自由に使用できる権限を手放したくなかったのである。
 岸は沈思ののち、沖縄、小笠原を条約区域に入れることを断念した。沖縄、小笠原の両諸島民は、またも見捨てられたと感じたに違いない。沖縄、小笠原の米軍基地への武力攻撃ならいざ知らず、同諸島の基地以外の地を攻撃されたとしても、迎え撃つのは米軍のみというのでは、そう感じたとして無理もない。
 さて、第六条は、この変則的な共同防衛のありようを補完し、米軍による日本国における施設および区域の使用を許容する規定となっている。米軍にとって、最も重要な条項であった。
 施設使用等を可能にする理由は、日本国の安全に寄与するため、並びに極東における国際の平和および安全維持に寄与するためである。前者が日本側の理由、後者が米国側のそれを意味する。
 中東での戦争に沖縄基地から米空軍が出動するというのでは、いくら何でも無制限にすぎる。極東の範囲はどのあたりまでを指すのか、と国会審議で大いにもめた。政府側は答弁を二転三転させた挙げ句、極東とはフィリピン以北、日本とその周辺、韓国と中華民国(現台湾)の支配下にある地域ということで決着させた。
 現実問題として、極東の範囲は限りなく広がる傾向にある。極東の平和と安全のためならば、極東の地域とされる外に出て行動することは許されるからである。
 次いで、施設の使用等をフリーパスで認めるわけにはいかないゆえ、交換公文で事前協議制という歯止めがかけられた。具体的には、①米軍配置の重要な変更、②米軍装備の重要な変更、③極東の平和と安全のための日本の基地使用の三つが、事前協議の対象となる。ただし、事前協議は同意を必要とするものではない。
 ①については、陸軍なら一個師団程度の変更ということになっている。が、過去に事前協議の例はない。空軍、海軍についても然り。
 ②は、核兵器の持ち込み等に適用される。米国政府は核兵器の存在を公表しない方針であり、さらに、条約締結時、米国政府は、日本国政府の意思に反するような行動をとる意図のないことを保証した。この論理から、日本国政府は、米国政府が核兵器のイントロダクション(持ち込み)の許可を求めてきたことはないし、日本国政府が許可を与えたこともないので、核兵器は日本に存在したことはない、と否定するのがつねであった。
 ところが、核兵器のイントロダクションとは、日本の国土に配備、貯蔵する意であり、核搭載の艦船や航空機の寄港、通過、飛来の場合は、イントロダクションと見なさいとする密約があった。つまり、イントロダクション以外は、フリーパスだったのである。後年、ライシャワー駐日米大使と大平正芳外相との会談で、確認されることになる密約の中身がこれであった。
 米艦船や米原潜が寄港したときなど、核搭載が疑われ、国民を不安に陥れたものであるが、時の政府はその都度、核兵器の持ち込みはないと否定した。米国に対しては、どうぞご自由にお使いくださいと容認し、自国民に対しては、そんな事実はまったくないと強弁する恐るべき二重基準──。日本国政府は国民を欺き続けてきたのである。
 ③は、戦闘作戦行動のための基地としての使用、すなわち、戦闘任務に就く航空部隊、空挺部隊、上陸作戦部隊が、発進基地として日本の基地を使用する場合、事前協議が必要とされる。これらについても、日本の領土、領空、領海を出てから戦闘作戦命令を受けるならば、いかなる戦闘部隊の戦闘参加も事前協議の対象とならない。
 また、戦闘作戦行動のための基地としての使用以外については、「米軍が極東戦略のうえで日本を主として補給基地と考えている現状からすれば、米軍の行動は大部分が協議の対象にならない」(日高六郎前掲)という事情を勘案すると、第六条が、米軍に日本の基地を自由に使わせる規定と化していることは明らかである。これが、岸が政治生命を賭して改定に臨んだという新安保の実質であった。
 日本において、安保反対を叫ぶ空前絶後の一大国民運動が展開されるのは、新安保条約調印からわずか四ヵ月後である。
 哀しいかな、一九六〇年の安保闘争後も、新安保の論理構造に大きな変化はなく、その後の日本の米国に対する隷従の関係を統御し続けた。日本側はこの非対等の関係に慣れきって、本土からは不可視の沖縄にあらゆる不条理を押しつけ、現在に至っている。
 密約が存在するという観点からしても、岸が政治生命を懸けて締結したという六〇年安保は、密約が表に出ないことにより、辛うじて双務を口にできるじつ惨たる失敗作であった。日本側は譲歩、また譲歩を強いられ、対等にははなはだしく遠く、しかも、その密約が後継内閣に引き継がれなかったという何ともお粗末な代物であった。
 一九六三年四月四日、先にも触れたようにライシャワー駐日米大使は、六〇年安保改定の際の密約について説明するため、大平正芳外相を大使公邸に招いた。ライシャワーはその折りのことを、「大平にとって、われわれの解釈および秘密議事録の存在自体がニュースだった」(春名幹男前掲)と、本国に報告している。大平外相は、密約の内容をまったく知らされていなかったのである。


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