09-サークル活動を楽しもうじゃないか。
こんばんは。
今日の雑談と導入。
「エモい」
近年、急速に流行りだして一つの価値観として認められた言葉である。語源はエモーション+形容詞化したことによってついた「い」。僕も何の気なしに使う言葉だが、実は「ヤバい」同様、語彙力の低下という危険性をはらんでいる気がしている。
「エモい」という単語は以下の感情を含んでいるらしい。
例えば、川越の蔵造りの街並みを見た時、情緒があると発言する人と、エモいと発言する人がいるということである。どちらも意味は同じものだが、受け手の印象は異なる。そもそも、なぜ異なるか。それは、受け手との共通言語になっていないからである。
「エモい」には複数の意味がある。「エモい」を発した話者と受け手が必ずしも同じ意味でその単語を使用しているかは分からない。話者は、古風な雰囲気があって情緒があるという意味で使用していても、受け手が、もの悲しいという意味で捉えている可能性もある。大きく意味がずれることはないものの、多少のすれ違いは発生する。
僕は日本語は美しいものだと思っている。そして、日本語の可能性をもっと知りたいと思って語彙力を高めている。「ヤバい」「エモい」などの若者言葉を蔑視するつもりもないし、使っている人を下に見ることもないが、古き良き日本語が廃れないように、状況に合わせた言葉、日本語を使っていきたいと思っている。
今日はちょっと思想が強めな雑談でした。
昨日、中高時代の部活について書いたので、今日は大学時代の部活というかサークルについて書いていこうと思う。
部活?サークル?
初めてのサークル選び。
大学入学後に楽しみだったことの1つがサークル活動である。
僕は大学に入学する前から、フジテレビのハモネプが好きだった。RAGFAIRや腹筋学園、AZなどなど…。テレビで素敵なハーモニーを奏でる人たちは、皆、大学でアカペラサークルに入って活動をしているようだった。
好きになったきっかけは高校1年の時、同級生に誘われて東北大学に行ったこと。その当時の僕、そして同級生では無理な学力レベルだったのに。そして、オープンキャンパスではなく文化祭に。部活も休んで1泊2日で。僕らは、朝から晩まで東北大学アカペラサークルの演奏会にいた。その時にアカペラの魔力に魅了されたのである。そこからは、高校在学中に何度もアカペラライブに行った。こんな僕だから、大学では絶対にアカペラサークルに入ると決めていた。
大学が始まり、オリエンテーションがスタートした。
その日は学内の様々な活動を紹介するというちょっと変わった日で、学内の部活動・サークル活動が一覧になった冊子を渡された。オリエンテーションの合間に冊子を読んでいると、ある問題が発覚する。
アカペラサークルがない…!
なんと、僕の大学生活はスタートからつまずいたのである。しょんぼりした気持ちを胸に、色々な部活やサークルのブースを歩き回った。その時、妙に光り輝いている場所を見つけた。そのブースには「アカペラ」の文字。
「お!これはアリアドネの糸か」と思った僕は話を聴きに行った。実情としては去年からできたので規模が小さく、冊子には載ることができなかったとのこと。落ち込んだ気持ちもどこかに、ウキウキで新歓参加者の名簿に名前を書き、その日はブースを後にした。
色々なブースを見て回っていた時にもう一つ、新歓参加者名簿に名前を書いたサークルというか部活があった。それは「へき地教育研究会」。元々、教員志望で大学に入っていることもあり、大学の講義以外で何か教育について学べるところがあればと思っていた。
他にも教育関係のサークルはあったのだが、ボランティアが中心で軽そうだったり、教育と名はついているものの遊んでばっかりそうだったり、授業研究会なんて硬そうだったり。
ちょうど名前も緩すぎず硬すぎずで、「へき地教育」というものも想像ができなくて面白そうだったので名簿に名前を書いた。
これが、僕の大学生活の方向性を決める瞬間だとは気づかなかった。
どちらのサークル・部活を選ぶか。
アカペラサークルとへき地教育研究会の2つに名前を書いた僕は、それぞれの活動に顔を出してみた。アカペラサークルでは、実際にリズム取りの練習やボイトレ。ボイスパーカッションの練習なんかにも参加させてもらった。
へき地教育研究会では、9月に行われる各学校への訪問に向けて授業準備や子供に送る記念品の作成を行った。
どちらも魅力がたくさんあったが、困ったことが一つ。活動日が被っている。アカペラサークルは毎週金曜が全体練で、あとはグループごと。へき地教育研究会は毎週火曜と金曜が固定で、たまに水曜も。
両方に参加するという考えがなかったわけではない。へき地教育研究会は火曜だけにすれば、どちらにも参加できた。ただ、僕の性格上、中途半端は嫌だった。迷った挙句、僕はへき地教育研究会への入部を決め、アカペラサークルからは手を引くことにした。
へき地教育研究会(へき研)。
僕は、この部活に大学生活の大半を費やすことになる。
細かいが、へき研はサークルではなく部活(文化部)だった。なぜか細かいところだったけどこだわってたな。
自己紹介でも簡単に活動内容は書いたが、大学の長期休みに山間部とか島嶼部の児童生徒数が少ない学校に1週間入らせてもらうっていうちょっと特殊な活動。そこでは、授業を見させてもらったり、一緒に授業に参加したり、学校行事や学校運営上で手が回っていないところのサポートをしたり、中には、授業をさせてもらったりなんてこともある。
勿論、教育研究会なので、へき地教育についての研究テーマを持ちこみ、観察やアンケート結果などで分析をし、研究っぽいこともやる。
思い出深い人。
僕がこの部活に入って、特に思い出が残っている3人を紹介したい。
①同期のJ。
3年間の活動期間の中で、一番仲が良かったというか関係性が変化した奴。
Jくんは、へき研のボリュームゾーンである教育学部出身ではなく、理工学部で教職課程を取っていた。
彼は、見てくれから変わっていた。細身のイケメンでかっこいい。だが、髪型が常にこうなのである。
似合っているからいいんだが、なんだか変わっていた。そして大学までバイクか高級外車かアルファードで来ていた。訳が分からん。
そんな彼と僕の最初の出会いは最悪だった。
へき研にはいっても間もないころ、活動終わりに先輩からご飯の誘いがあった。その時は、3年生の先輩3人と僕とJくんの計5名で近くの定食屋に向かった。先輩たちは、まだ入りたての僕らに多くの質問をしてくれていた。話が盛り上がってきたとき、Jくんがふと言った。
「埼玉の奴らって運転荒いんですよ、埼玉って血の気多いやつがたくさん」
埼玉出身の僕をイジってきたのである。普段なら笑ってすます僕だが、なぜかその日は違った。
「お前のこと、俺あんまり好きじゃないわ」
若干、空気がぴりついた。今振り返ると、ほぼ初対面の人にこんなことを言ってしまう僕がおかしい。実は、これにはちょっとした前段があって、活動中にJくんが先輩にタメ口を使っていて、運動部出身の僕としては、どうにもそれが許せずに、ご飯中にそれをJくんに伝えていたのである。結果、Jくんは素直に謝ってくれ、僕も熱くなりすぎたと謝ったのである。
ここから僕ら2人は部内でアウトサイダー気味の存在として目立っていく。
2年では同じ活動班として活動をし、3年では活動班は異なるものの、お互い、活動班のリーダーとして悩みを相談しあっていた。
最終的には、一番仲良くなれたかなと思っている。僕が終電を逃しそうになると、近くの駅や家まで車で送ってもらったし、ご飯にもよく行った、親友とも呼んでいい奴である。
②同期のS。
学部も学科も一緒で、学籍番号も近くで講義もほぼ同じものを取っていた。
時間だけでいえば、大学生活で一番時間を共にした。
彼は3年時、部長になるのだが、まあポンコツ。3年の会議で決まっていないことも勝手に発表するし、決めなきゃいけないところでミスすることも多いし。
ただ、人柄は今まで出会ってきた人の中でも、一番いい奴。周りがサポートしなきゃって思わせる魅力を持っていたし、僕よりも学はなかったが、人としての魅力は圧倒的にあった人。青森出身で訛りがひどくて、何度聞き返したかな。
③I先輩。
僕が1年の時の3年生で、同じ活動班として、熊野の小学校に行った時のリーダーの先輩。ニックネームは、麻雀にちなんだもの。眼鏡がトレードマークで、弓道が特技。
この人は、人との接し方がすごく上手だった。何か指摘をしなきゃいけない時も、必ず相手に配慮するし、思慮深さが菩薩というか。僕はその先輩の引退までの半年間しか接していないが、あの人のことを悪く言う人に会っていないし、怒っていたりイライラしているところを見たことがなかった。今でも、心の底から尊敬している先輩。
思い出。
もう結構書いているが、あとちょっとお付き合いを。
僕のへき研時代の思い出を紹介したい。
①愚痴会事件。
僕らの代は、先輩からすると扱いずらかったのかなと思う。男しかいなくて、女子0だったし。最たる例が、愚痴会事件である。
愚痴会は名前に反して大人しい会である。やっていることは、同期で飲み食いするだけなのである。飲んで食べていれば、それは愚痴や不満は出てくる。部活に限らず、大学の講義やバイトなど。そんな愚痴をつまみに同期だけでゆったり飯食おうぜ!というのが愚痴会だった。ただ、この名前が良くなかった。
へき研では、活動終わりに何人かでご飯に行くのが通例だった。その誘いの際に、「今日、愚痴会しようぜ」という誘い文句になる。そんな名前の由来を知らない先輩方からすれば、「後輩が愚痴会と称して活動終わりに集まっている」という不穏極まりない状況だったのである。そりゃ、先輩の立場からすれば嫌だよね。後日、ある先輩から呼び出され、問題になっていることを教えてもらってからは、誘い文句は「同期でご飯行こうぜ」になったものの、先輩方が卒業してからは、各活動班で抱えている問題児の後輩に対する愚痴が増え、愚痴会という組織体は僕らが卒業するまで続いたのであった。
②LINEでブチギレ事件。
僕らが2年生の時、ある活動班で問題が起きた。
3年生に対して、1年生が猛烈なイジりをするようになったのである。
その3年生は、優しくて人が出来すぎている人だった。ただ、所々で抜けがあったり歯車がかみ合わないことがたまにあった。僕らは、その先輩の周りへの気遣いや想い、考えを知っていたから、そんなミスなんかは気にしていなかった。だけど、1年生はそのミスを繰り返しイジった。そのイジりも、活動班内で納めればまだ許せたが、部全体が集まる場所や全体LINEでも同じことをやり始めた。その活動班内にも僕らと同期はいたものの、そいつも優しい奴で後輩に注意ができていなかった。
そこで、Jくんと僕のアウトサイダーの登場である。当時、Jと僕は同じ活動班で活動しており、こんな状況を憂いていた。先輩イジりは部活のピークでもある合宿中も続き、フラストレーションが溜まっていた僕らアウトサイダーは、夜に同期全員とLINE通話をすることになる。話していく中で、誰かがこんなことをやめさせなきゃと思った僕らは、部員全員がいるLINEに長文のブチギレお叱り文章を載せたのである。僕が口火を切り、Jくんが援護射撃をする。そのLINE以降、全体でのイジりはなくなったが、翌朝、同じ活動班の先輩が言った。
「こんな状況になるまで俺らが動けなくてごめん。3年もお前らがLINE送った後、連絡取り合って相談した。今回のことは、俺らが中心に対応していくから」
事実上の手を引け宣言である。こう言われてしまったら、僕らだって手を引く。先輩方は大好きだし、先輩方にこれ以上迷惑をかけたくないから。
後日談というか、今回のオチ。
結局、その日以降、全体LINEでのイジりはなくなった。先輩たちからも当人に注意が入ったらしい。イジられていた3年生の先輩も1年とよく話し合って解決したらしい。僕らの代が、より危ない奴らの集まりだということが知れ渡った。
③活動班決め事件。
僕らが3年生になるちょっと前の春休みに起きた。
へき研のメイン活動は、この時期あたりからスタートする。
だいたいのスケジュールは以下みたいな感じ。
2月~4月:活動班と訪問校決め
4月~8月:先方打ち合わせ、活動内容決め、訪問準備
9月初旬:訪問
9月中旬~11月:文化祭での発表準備、研究冊子作製
12月~:新体制発足
ちょうど春休みごろに訪問校決めと活動班決めが発生する。
僕らの代は、①だいたいどこら辺に行きたいか、②山か島か、③小学校か中学校か小中併設校かの3点で、活動班を決定した。
僕は1年目も2年目も山間の学校だったし、教員免許は小学校だったので、ラストの年は、そこまで遠くない島の小学校に行きたいと思っていた。僕自身、誰かしらの同期と一緒に行けたら嬉しいなと思っていたが、1個下の代がなぜか40人近くもおり、1校当たりの訪問人数を考慮すると、僕らの代はほぼ全員が班長にならなければならなかった。
そうすると難儀するのが後輩の配属である。なんせ、アウトサイダーとして動いてしまったせいで、後輩からは恐れられているから。
僕と同じコンセプトの活動班はもう1班しかなく、先輩と後輩の相性、後輩同士の相性なども加味すると、かなり班決めに時間を費やすことになった。
「誰と誰が付き合っているからここは一緒に」、「こことここは去年喧嘩したから離したほうがいい」、「この子一人だと同性がいないから誰か入れるか」など。
最終的には、ちょっと相性が悪くても条件を優先させたり、逆も然りで組み合わせを決めた。全体を見れば大きな問題はなかったものの、僕と一人の後輩では、とんでもない喧嘩が起きたことは知る人ぞ知る…。まあ、そいつとは引退の時に仲直りできた気もするけどね。そう思っているのは自分だけかも。
最後に。
僕は、この部活に入って良かったと思っている。
卒論もへき地教育について書いたし、一時期は教員採用試験もへき地教育が盛んなところを受けるつもりでいた。今も、へき研の同期とは顔を合わせるし、仲が続いている。つい最近も、同期の結婚式に行ってきたばかりだ。
今後も、関係が続けばいいなと心から思っている。
今日の最後。
過去一で長くなってしまった。かなり読みごたえはあると思う。
まあ、全部読んだ人がいるのであれば、だいたい何分ぐらいかかったか
教えてくれると嬉しいな。
今日はおわり。
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