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バリ島の影絵人形芝居「アルジュナの瞑想」を観て...


はじめに

 縁あって、バリ島の影絵人形芝居「アルジュナの瞑想」というものを観に行った。想像を超える異文化体験に感動したのと、私が今考察している探究が絡み合ってとても興味深く感じたので、書き留めておきたい。

ホール入り口

 人形遣いで「教授」の梅田英春さんのワヤン・トゥンジュク梅田一座は、大阪では2年に一度公演しているらしい。ギータ・クンチャナの演奏も素晴らしかったが、梅田さんの影絵人形を操る所作とインドネシア語と沖縄弁と大阪弁がチャンポンな日本語の言葉巧みな語りに引き込まれ2時間があっという間に過ぎた。私にはわからないインドネシア語にも笑いが起こっていて、インドネシア大使館からも招待されていた要人と共に、文化を大切にし合う心にも触れ、私にとって日本在住のインドネシア文化圏の存在を知れる場が暖かかった。

演者側の席

 ホール入って、人形遣いや演奏が見れる側に空いている席の一つがピンと来たので、そこに座った。座ってから「ああここだと影絵が見れないのじゃないか?」と気づくが、ここに留まったおかげで興味深い体験ができることになる✨

演者さん一同

 縦割りで中学生から高校生まで一緒に文化祭や体育祭をやる自由の森学園で一緒に火の鳥の気球を製作した友人の吉田ゆか子さん(笛奏者)と35年ぶりに会える機会だったことが、そもそもの動機だったのだけど、「アルジュナの瞑想」と聴いてシュタイナーが非二元の教え(ノンデュアリティ)にどう触れるのかに興味を持っていて本を2冊読んでいる途上だったので、内容にも興味を持った。

シュタイナーとバガヴァッド・ギータ

なので、書き留めておきたい気づきとしては、3つの次元が絡んでいる✨

  • 実際の演奏と内容の現実次元

  • プラトンの洞窟の喩えから連想する神々の次元

  • 「表象と他者」のテーマと35年の年月の次元

実際の演奏と内容に現実次元

 バガヴァッド・ギータも、「アリジュナの瞑想」も、壮大なヒンドゥー叙事詩マハラバータの中の一つ一つのエピソードになる。詳しくは、マハラバータの構成(Wikipedia)を参照にして欲しいが、「アリジュナの瞑想」は、バガヴァッド・ギータで血縁を争う戦争に向かうアリジュナにクリシュナが教示するヒンドゥー教の聖典になるエピソードのずっと前、アリジュナが森に行き瞑想しシバ神から武器をもらうというエピソードにあたる。

影絵人形とスクリーン
ガムラン

 影絵なのに(?)、人形自体はとても色彩鮮やかに美しく作られていて、大部分演者側から見ていたので梅田さんの人形遣いの迫力にまず感動した。演奏中の写真は撮れなかったのだけど、横にある人形を入れる箱が実は太鼓のように音も奏で、足の親指と中指に黒い小さいバチを挟んで、両手で人形を操っていても、足で箱を叩いて音を奏でていた。語りもさながら、全身での人形遣いは、私の想像を超えた芸能だった。

 時折、場所を動いて、どんな影絵になっているのかも見に行った。想像していた白黒クッキリした影絵ではなくて、人形が金模様になって光が通るのでグレーな部分もできて綺麗な影絵だったのだ。電球(伝統では火を使うらしい)の光源からの距離の違いが2次元であるスクリーンに像を織りなす様も意図されていて、放たれた矢が遠くまで飛んで行く様子や踊りの場面もかなり激しい動きが表現されていた。そう、想像していたのはもっと静的な影絵だったのだけど、動的なものだったことが新鮮だった。

 ガムラン演奏と笛の音は、まさに「瞑想」的で、ガムランと言えば映画「AKIRA」の音楽とぐらいしか知らなかったのだけど、何かやみつきになる「魔力」の振動数を持っているように思う。聴いているだけでトランスに入って行くような… 場が一体になって行く「魔力」がある。

プラトンの洞窟の喩えと神々の次元

 そんなことを感じ考えていると、突然、演者側の世界が神々の次元に思えて来たのである。影絵とは、まさしくプラトンの洞窟の喩えではないか!

 こんな風に、私たちの3次元の現実を神々が影絵として創造している様が、演者側で見ているガムラン演奏や人形遣いの努力とダブって見えたのである。そして、興味深いことにガムランの振動数で観客も一体となって、スクリーンの前と後ろを行ったり来たりもできる文化に、人々と神々の共存する在り様も見えて、何か嬉しくアットホームな気持ちになったのだ。

 シュタイナーによると、ゲーテは前世でプラトン哲学を学んだギリシャ彫刻家だったそうだ。私は、イデアの世界に憧れプラトン主義に傾倒するが、感覚世界の「奥行き」に霊界を見たゲーテの精神に希望を感じるからこそ、シュタイナーに惹かれるのだろう。ゲーテが世界や人々を愛したように、私も人生の晩年に至ってもっとこの地上の世界と人々を信頼したいと想う。

「表象と他者」のテーマと35年の年月の次元

 今週、北海道でシュタイナー教育を実践している「いずみの学校」で2日間のワークショップをすることになっている。内容は、NVCのイントロを夜にして、次の日は「内なる闘いの舞台でワークする」+「他者と共に世界を創る」というテーマで体験的な場を創りたいと思っている。

 その準備として、ここしばらく下の図式をじっくり眺めていたのだけど、この図式の理解を深めてくれる、人生できっと稀である体験があったのだ。

シュタイナーは、「表象とは、受胎以前のあらゆる体験を映した像なのです」と言う。対して「意志とは私たちの中にある一種の萌芽であり、それが死後、私たちの中で魂霊的現実となるのです」と言う。表象は反感により反射した像であり、共感が萌芽を彼岸に運んで行く… 感情はその狭間に生じ、「なり切っていない認識、なり切っていない意志、抑えられた認識、抑えられた意志なのです」と言う。

シュタイナー『教育の基礎としての一般人間学』(森章吾さん訳のKindle版より図式拝借)

 さて、起こったことというのは、こういうことだ。
 演奏直前にゆかこ(吉田ゆか子さんのことをこう呼ばせてもらう)に、35年ぶりに会ったのだけど、明らかに私の中に「表象」されていたのは、35年前の中学生の「ゆかこ」だったのだ。35年の年月を経ていた瞬間だったからこそ、それが鮮明にわかる経験だった。演奏後、比較のために写真を撮らせてもらった(そして写真を使うことを許可してもらった)。

35年後
35年前
火の鳥@自由の森学園

 火の鳥を一緒に創った頃の楽しい思い出と一緒に、その「表象」としての「ゆかこ」がいて、私の中にもその頃呼ばれていた「ゴンちゃん」というパーツがいた不思議な体験であることに気がついたのだ。

終わりに…

 表象として「知っていると思っている」他者に、さらに意志を持って共感的に向き合っていくと一体何が起こるのでしょうか?
 
 私は、NVC(非暴力/共感コミュニケーション)は、現在(第5後アトランティス文化期にいる)私たちが開発中のハート器官を通じて、この問いを実践的に探究する試みだと捉えることができるのではないかと感じています。 
 
 シュタイナーは「天使は私たちのアストラル体で何を行うか」という講演(松浦賢訳『天使と人間』収録)の中で、「人間の魂的な生活に関して、天使たちは、人間のアストラル体に刻みつけるヴィジョンを通して、「未来では、一人一人の人間が他の人間の中に隠された神性を見るようにならなくてはならない」という目的を目指しています。」と述べています。

 そして、三千年紀の初頭つまり西暦2000年以後に向けた「重要な霊的な開示」は、「突然、「他者とは何であるか」という秘密が、霊的な側から実際に人間の中に流れ込んでくることによって生じる」ものであると示唆しています。「一人一人の人間に関心を抱くようになることを可能にするような何かを、人類は経験するだろう」と予言しているのです。
 
 他者とは一体誰なのでしょうか?

 実は、私たちは投影であったり過去の記憶としての「表象」を相手に日々人間関係をやり過ごしているのだけなのかもしれません。本当にその人に出会うには、まずそのことを自覚して「内なる闘いの舞台でワークする」必要があると思うんです。そうすれば、「(ありのままの)他者と共に世界を創る」ことができるようになるのかもしれません。戦争のない世界を創るためにも…

これを聴いてどう感じるでしょう?

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