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LOOという“伝説の”雑誌のこと

近ごろ、文章らしい文章を書くことができない。原因はわかっている。コトバの詰め込みすぎだ。


この夏は、傍らにつねに四、五冊の本を積み暇さえあればずっと活字を追っている。1ミリも外出する気が起こらない、酷暑の副作用がどうやらこんなところにもあらわれているようだ。


もうひとつ、夏休みの宿題のような気分で手にとった歌集をきっかけに短歌のおもしろさに目ざめたことも大きい。


わずか三十一文字にどのようにして“思い”を乗せるか? 読み手を信じて詠むとはどういう意味か? そんなことを四六時中かんがえていれば、どうしたって文章を書くことに慎重になってしまう。


ああでもないこうでもないと書いては消し、消しては書きをくりかえすうちしまいには面倒くさくなってしまうのだった。コトバの摂りすぎによる、胃もたれならぬ“コトバもたれ”といったところか。


こういうときは、ひとまず文字から離れるというのがもっとも理にかなった対処法にはちがいない。けれど、ぼくの場合はたいてい真逆の、いわば「毒には毒を」式のやり方をとることがしばしばある。


自分の好きな、これまで幾度となく読んだ文章をひっぱりだしてきて読み返す、というやり方だ。効果はてきめんで、ぐちゃぐちゃの黒板を黒板消しでひと拭きしたかのように頭の中に余白が生まれる(ような気がする)。


こうした“整腸剤”のような本や雑誌がぼくにはいくつかあるが、ここに紹介する雑誌「LOO」もまたそのひとつである。

雑誌「LOO」No.005〜No.007

長い人生のなかで、その出会いがじぶんの「核」を形成するのにつながったモノやコトというのがきっと誰にもあると思うが、ぼくにとって「LOO」はまさにそうしたひとつと断言できる。


近所の本屋でたまたまそれを手にとった十代のぼくは、「からだじゅうに電流が走った」なんて紋切り型の表現をつかいたくなるくらい衝撃をうけた。


誰かが、ぼくのために作ってくれたのではないか? 冗談でなくそんなふうに思ってしまうほど、じぶんの趣味をその雑誌はみごと映していた。

No.007誌面より

わかりやすく言えば「LOO」はカルチャー系の情報誌ということになるが、当時はまだそういった雑誌はかならずしも多くなかったし、なによりまったくと言っていいほど“実用的でない”ところが気に入った。


そこでとりあげられる映画や音楽、また本にしても、まるで見たことも聞いたこともないものが大半で、当時のぼくにはまるで呪文をならべた魔法書のようにみえた。

“週末”特集の選書

それでも、それらはきっとじぶんの好みに合うにちがいないという妙な確信があったし、じっさいその通りであった。


稲垣足穂、チェット・ベイカー、J・D・サリンジャー、ゲイリー・スナイダー、鴨沢祐仁、ロバート・アルトマン、種田山頭火、エブリシング・バット・ザ・ガール、パブロ・カザルス、フランソワーズ・アルディ、植草甚一、ウッディ・アレン、高橋源一郎、デヴィッド・ベイリーやシンディ・シャーマンなどなど、「LOO」の誌面をとおして出会った名前を挙げていったらキリがない。ちなみに、このnoteで使用させてもらっているハンドルネームはイタロ・カルヴィーノの小説の題名だが、それをはじめて目にしたのもやはりこの雑誌でだった。


ときには、スティーブ・ハイエットのアルバム『渚にて』のように、数十年経ってからその雑誌に名前を発見して驚かされることもあった。その意味では、何十年もかけてぼくはこの雑誌をまだ紐解いている途中なのかもしれない。

“週末”特集の寄稿者たち。豪華すぎる

当時、周囲にじぶんの好きなモノについて語り合う仲間のいなかったぼくにとって、この「LOO」という雑誌の存在はどこからか不思議なものをみつけてきてはおもしろおかしく話してくれる“ぼくの伯父さん”のようなものだった。


きみはいま、この世界がなんだかとてもつまらなく思えているかもしれないけれど、まだまだ山のようにきみをよろこばすものはあるのだからじっくり探してみるといいさ、とまったく押しつけがましくないやり方で教えてくれた。

男女を通して都市を描く山川健一氏の連載

さて、このあたりでこの鬱陶しい夏に起こった最高にうれしかったできごとについて書かないわけにはいかない。


じつは、長い間ずっと探しながら入手できずにいた「LOO」のリニューアル後第1号をとうとう手に入れたのだ。

リニューアル第1号の表紙は佐野元春

それまでぼくが持っていたのは、リアルタイムで手に入れた第2号から第4号(通巻でいうと第5号から7号)までの3冊のみだった。うっかり本屋で見逃したか、あるいは入荷するようになったのが第2号からだったということもありうる。


その後、なんの前触れもなく、ついに本屋の棚に第5号(通巻第8号)が並ぶことはなかった。本屋に足をはこんでは血眼になって探すのだが、見つけることができず大きな失望を味わった。なぜなら、大好きな“伯父さん”が突然姿をくらましてしまったのだから。

井口真吾氏のドリーミーな短編とイラスト

しかたなく、ぼくは手元の3冊をひっぱりだしてはボロボロになるまで読み漁った。


やがてインターネットの時代となりオークションサイトでまれに“第1号”を見かけることもあったが、とんでもない値段がつけられていてさすがに手が出なかったのだ。それがとうとう、この夏ある古本屋で発見したのである。


あらためて4冊の奥付を見てわかったのは、リニューアル後の1号、2号の編集長を新井敏記が、そして残り2号を渚十吾が務めていること。名前を見てピンときた人もきっといるだろう。


新井敏記氏はその後みずから「スイッチ・パブリッシング」を立ち上げ、「SWITCH」、「Coyote」、さらには「Monkey」といった90年代以降の雑誌文化を牽引してゆくキーパーソンとなる。


いっぽうの渚十吾氏もまた、音楽家/文筆家としてその膨大な知識をもとにした活動で知る人ぞ知るといった存在である。

渚十吾氏の独壇場といった頁

ちなみに、「LOO」の突然の廃刊にまつわる裏事情については、「ほぼ日」に掲載されたインタビュー記事のなかで新井氏自身がひっそりと明かしている。まあ、そんなことだとは思っていたけれど。

発行元から編集制作費が支払われず全額自腹を切る。

ほぼ日 特集「編集とは何か」第13回より


おふたりにとっては、いまさら思い出したくもない苦々しいできごとにちがいない。


が、ある意味まったくコマーシャルを意識させないあの誌面作りの秘密はそんな背景があったからこそという気もする。


いずれにせよ、この雑誌を宝物のありかを示した地図のようにして小脇に抱え人生を歩んできた人間がすくなくともひとりここにいることを感謝とともに伝えておきたい。もし「LOO」と出会っていなかったら、ぼくの人生はもっと味気なく寂しいものになっていたはずたから。


残念なのは、この「LOO」のすばらしさについて書かれた文章がネット上に見あたらないこと。じっさい、同世代の趣味の近い友人でもこの雑誌のことは知らなかった。ほんとうに惜しいことだと思う。ネットに見つからない情報はまるごとなかったことにされてしまうような時代だ。だから、このよう文章にして残しておこうとかんがえた。


じっさい、この世界観を好むひとはいまだってこの世界のどこかにいるはずだし、なによりぼく自身そんなひとがいたらぜひ会ってみたい。きっとすぐに打ち解けることができると思うから。

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