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金曜日の雨女


自称、雨女。


と言うのは、摂子にとってもはや自己紹介の一部だったけれど、なにもこんなに続けて雨降りにならなくってもいいと思う。

梅雨明けのニュースを合図にこれでもかと続いた晴天は、数日前から週間天気予報をばっさりと裏切って姿を消した。

ならばついでにひどい暑さも連れてってくれればいいのに、湿っぽい蒸し暑さだけを宵の始めに置きざりにしている。

それがここんとこ毎週の事なんだから、いい加減摂子もうんざりしていた。


バチが当たったと、言えなくもない。


三週前の金曜の夜。


摂子はあるバーでバーテンダーにひどい八つ当たりをした。


それがどうにも引っ掛かっているから、毎週金曜の夜、その八つ当たりの店を探している。


酔いに任せてたまたま目について飛び込んだその店の事は、地下の薄暗いバーだった事しか覚えていない。


店の名前もバーテンダーの顔もわからない。


ただ出されたカクテルに添えられた、手だけを覚えている。


それだけは、はっきりと。



あの晩と同じで、知らない内にスカートの裾がびっしょりと濡れるような細い雨の中、摂子はまた見知らぬ一件のバーへと降りる階段の前に立った。


たぶん、ここじゃない。


そう思いながらも暗がりへ降りて、摂子は畳んだ傘を持った手で木づくりの扉を引いた。





八年も付き合っていればもう夫婦みたいなもんでしょと周りは言うけれど、案外そんなもんでもないと摂子は思う。

相手の考えてる事なんてさっぱりわからないし、自分を分かって貰えてるという図々しさもない。


ただあの晩は、最初から不穏な気配がしたのは確かだ。


子供の頃からぼーっとしてる子とはよく言われたものだけど、なぜだかここ一番の悪い知らせには鼻が利く。


かくして今回も、その唯一と言っていい摂子の才能は、腐れ縁の恋人の異変を嗅ぎとった。



「ちょっと距離を置いてみたほうがいいと思うんだ。お互いの為に。」



という台詞の目眩がする程の保身っぷりは、むしろあっぱれですらある。


三十をちょろちょろ過ぎて、いくらお酒の勢いを借りたって今時こんなパラフィンみたいな薄っぺらい言葉をなかなか吐けるもんじゃない。


「すこし時間が欲しいんだ。」


薄紙を重ねて、自分で切りつけた摂子の傷口に貼り付けるように、目を伏せたまま恋人は言った。



何にも答えずに席を立った時、とっさに伝票を掴んだのはなかなか良かったと思う。


小銭をばら蒔くようにお金を払う癖を、立ち去った後で思い出したくはなかった。





「地下のバーねえ。この辺いっぱいあるからなあ。」


やたらとカジュアルな格好の若いバーテンダーは、そう言って二杯目のジントニックをカウンターに置いた。


ざっくばらんな物言いだけど、嫌な気はしない。


店探しを始めてなかったら、こんな店に来ることも無かっただろう。


敷居が高い気がして、何となく敬遠していたバーはいざ入ってみると思いの外居心地が良かった。


何より、ひとりで居ることに違和感が無い事にほっとする。


カウンターに座る他のお客は、当たり前に皆一人きりでいる。


年齢も格好も様々だけど、それぞれが一様にグラスかカウンターの奥を眺めている。


そして不思議に似たようなタイミングで、時々酒に口をつけた。




このカウンターに並んだ、たとえどの年代の人にとっても、八年と言う時間は長いと思う。


その間ずっと、摂子の隣には恋人がいたのだから、すっぽりと空いた存在の穴をこの瞬間に感じていないのは不思議だった。


それが不意に始まったバー通いのお陰なのかは、正直わからない。




「マスターだったら分かるかもしれないけど、今ちょっと出てて。」


若いバーテンダーは、氷をアイスピックで割りながらそう言った。


古びたピックを握る、白くて長い指を持った手。



あの晩。


地下の店のバーテンダーの手は、もっと節の太い指をしていて、そのあちこちに小さな傷が沢山あった。


それが美容師をしている恋人の手によく似ていると気付いた途端、摂子の胸は急に詰まった。


想い出の全部にあって、恐らくもう二度と見ることのない手は、こんなことは何でもないと、何でもない事なんだと自分に言い続けていた摂子の時間を、あっさりと止めた。


「お仕事の帰りですか。」


そんな他愛もない意味のことを、あのバーテンダーは言ったと思う。


その顔を、いや、視界にあの手が見えてしまったら泣いてしまいそうで、それだけは絶対に嫌で。


もう二度と指を繋げない、私の髪ごとくしゃくしゃに頭を撫でたりしない、背中を強く抱いたりしない。


恋人に似た手を見れなくて。


摂子は、話しかけないでと言った。


身じろぎもしないような沈黙の後、さっと自分の前から気配が消えたのが分かったから、摂子はそのままひとしきり声を出さずに泣いた。


バーテンダーは摂子の事情を汲んでくれた訳じゃないと思う。


ただ、余計な事をしないという気遣いをくれた。


「好きだったんだけどなあ」


蓋をしてた気持ちから、その言葉が漏れてきたら涙は止まらなくなった。


黙ったままスカートの膝に涙を落とす摂子は、バーの喧騒からほっておかれた。


それがただ、ありがたかった。





「もうちょっとしたらマスター帰ってくると思うんで、そしたら聞いてみますよ。」


若いバーテンダーは空になったグラスと摂子を交互に見ながら言う。

なかなかに商売上手だ。


「いえ。やっぱりいいです。自分で探してみたいから。」


そう言うと

「それもいいっすね。」

と、若いバーテンダーはにっこりと笑った。




通りに出ると、細かい針の様な雨はまだ降っている。


開きかけた傘をやっぱり閉じて、摂子は歩き出した。


バーの場所は分からないままだけど、あの日みたいに濡れて探そう。


見つからなければ、それでもいい。


ただもし見つけたら、やっぱり謝るんじゃなくてお礼を言おう。


誰かに連れていかれる以外の場所を、沢山教えてくれたから。



そう決めると、何だか宝探しでも始めるように、摂子の胸はざわざわとまた前を向いた。



「好きだったんだよなあ」


と、口にだして言ってみる。



悲しくなくなった訳じゃない。


ただ、もう涙は出ない。


よし、あの手に会いに行こう。


真っ暗な空に薄目をあげて、雨を額に当てながら、摂子はそう思ってしばらく路地に立っていた。



































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