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きゅうりとズッキーニとメロンの違いを書く

「キュウリ嫌いなの? ズッキーニは平気?」

何度となくイタリアンで言われた言葉だが、of course. それらは見た目が似ている以外何の共通点もないのです!!!!

子供の頃、物心ついた頃からきゅうりが嫌いだった。嫌いなものに対して人は敏感なもので、ポテトサラダに細かく刻んで入れられてもダメ、サンドイッチのレタスとハムに隠されていてもダメで、サンドイッチからはうっすらマヨネーズをまとう薄細長いきゅうりをそーっと抜き出して食べていた。お行儀悪くてごめんなさいね。(ところでスーパーやコンビニでおなじみのサラダ巻きのきゅうりはきゅうりヘイターにはだいぶ慈悲深い存在だ。味を周りに転化させず、箸でついっとつつけば簡単に転がり落ち、皿の上の見栄えもそこまで悪くはならない。キュウリとはワカメときゅうりの酢の物とか、キュウリが完全にその一品にブレンドされている時が一番どうしようもないのであって、ぽろっと転げ落ちてくれる海苔巻きは天使)

天使なサラダ巻き

なぜきゅうりを避ける手法に長けているのか(?)というと、キュウリをうっかり噛んでしまうという事態をただただ避けたい、その一心で生活してきたからである。

だからきゅうりが入っているか判別が難しそうなコンビニのお惣菜サラダは目視で判別できなければ裏返してラベルを見るし、居酒屋でポテトサラダをオーダーするときは、最初に聞く。

正しいポテトサラダ
NGポテトサラダ

きゅうりを避ける人生の記憶は小学生の低学年に遡る。学校給食にキュウリというものはよく登場してくるレギュラーで、キュウリが食べられない(食べたくない)という事実は、小学生ながら早くも若干の不便さを私に感じさせるものだった。

なんでかって、「好き嫌い」とやらがそうオープンに認められるものではなかったからだし(大人になったら嫌いなものがあるなんて当たり前じゃん!!!の世界だけれど、子供って本当難儀よな)、食べものを大切にし、秩序を重んじる学校教育の現場では、皿に配膳されたものを処分するには口の中に入れる、決まった手順とルートでバットに戻すのどちらかしかない。

キュウリを捨てる場所は給食タイム終了後の配膳バットの中(not パントリーのゴミ箱@会社!)でしかなく、そしてそこに堂々を捨てることが許されるのは、「食事は終わりモード」に突入し、「はーいみんなで片付けて!」的な声がけがあった後になった後だけ。

懐かしい給食……
キュウリ以外は美味しそう。

それが面倒だったのは、本来早く食べ終わったらさっさとお皿をカゴに戻し(完食してれば可能)一人机で本を読んだりとか好きなことをできるのに、きゅうりを最後どさくさに紛れて捨てるためには、最後の最後まで「食事中ポーズ」に参画し続けることが必要で、私はそれがなんだか非常に面倒くさかったのである。

ま、対して長くもない給食の5分〜10分くらいの差の話なのだけれど、その後にくっついている放課と合わせるとそれなりの塊になり、本を読みだすと止まらない私はそれが恨めしかったんですね。20分あれば本て結構読めますからね。

別に嫌いなものくらい、みんな一つや二つ持っている。ただ、きゅうりの登場頻度が高いのが問題なのである。鶏肉やオレンジを避けようと思って給食を見たことはないから、もしかしたら鶏肉や人参的なレギュラーメンバーを嫌ってしまう小学生にはおんなじような不便さがあったのかもしれないが、その頃私はきゅうりってなんでこんなによく出てくるの、と心の中で嘆き、「自分の子供は、絶対きゅうり嫌いにはさせないようにしよう」などと思っていた。英語で苦労したから子供には絶対早期英語教育を施す親みたいな発想だな。小学校5年生くらいだったんですけど。

きゅうりが嫌いな理由は、味というより味も含めた匂い、みたいな感じなのだけど、大人になってその存在を知ったきゅうりの双子のようなズッキーニは、私は大好きなのである。(感覚的には抵抗があったが……恐る恐る食べてみて、完全に別物なのだと理解した)

そんなわけで、少し気の利いたお店できゅうりとズッキーニの関連性を想像してくれるようなウエイターさんが出てくる場合ほど、ズッキーニは大丈夫ですか?と聞かれるわけだが、もう全然大丈夫。大好きだから抜かないでください。

それから、これはもっと頻度高く遭遇する質問。「メロンは大丈夫なの?」
大好きです!!!メロンもスイカも大好きというと、へぇ、瓜科がダメってわけじゃないんだねぇ。そんな難しいこと考えたことなかったわ。

冬瓜

ちなみに冬瓜も問題なくいけるので、ウリ科に属する食べ物が苦手ということでもないらしい。そう、私はなぜだかど真ん中でキュウリだけが嫌いなのだと理解し、この世にキュウリに準ずるものはないと思って生きていた頃、私は口の中で「これはキュウリ……?!」と目を白黒させるものに出会った。

上品なお鮨屋さんで出てきた、生ハムに巻かれた水茄子の漬物である。(再来する可能性は極めて低いくらい上品なお店のため、あの店の『水茄子の漬物』が世間一般の水茄子の漬物の味代表であるかはわからない)

仕事の席であったため、吐き出したいけど吐き出せず涙目で無理やり飲み込んだが、その後しばらくブルーだった。きゅうりと言われていないのにきゅうりを感じるものに遭遇したことに動揺し、ちょっと呆然。

守っているはずなのになぜ侵入したの???この子は???と心の中でリスクランプが点灯する。

……何を大げさな。たかがきゅうりじゃないか。そうなのだが、思えばきゅうりを意識的に避けてきた時間が長すぎて、その味そのものというより、きゅうりを嫌っているというテーゼに対して、それを食べちゃったみたいなことも含めたショックなのである。これはイスラム教徒が、豚肉は食べていないつもりなのに、不慮に食べてしまって受ける動揺に近いのではないかしら、、、

キュウリの味がダメというよりあの匂いを含めた存在感がダメなのだけど、今となっては、私はキュウリという物質をそこまで毛嫌いするほど嫌いなのか?という純然たる問いにはもはや答えられない。キュウリを避けたい気持ちを持ち続けた時間が長すぎて、その避けてきた年月も含めてキュウリの味になってしまい、もう純粋なきゅうりのことなんて見えていない。


ところで私がなんでこんなnoteを書いているか。これは微妙に、私の書き手としてのスタンスを象徴する話だと思ったからである。

何かに対するパーセプションが形成されてきた歴史と、その類似品という社会的な連想。うわぁ、こういうと気持ち悪いw

私はどんな文章を書く人でありたいのだろう?


もう失われない鉄鋼の書くを持つ人もいるのかもしれないけど、私の『書く』は脆弱だと思ってる。心とつながった書き方をする人ほど、その不確かさと隣り合わせに生きてる気がする。もっと完全に取り外しの効く部品見たいな能力だったらいいのにな。

「書く」は精神状態のことだと思う。簡単に書けなくなる、自分を知っている。だからこそ、書けなくなってももう戻れないくらい、書いた痕跡が欲しくて、このアカウントを作った。(決意表明はここ

価値観やスタンスはある程度明確なショーケースになるような場所にしようと思ったが、意外にも書きたいことは次から次へと溢れてくるため何を書いてるのかはわりとさまざま。


文学みたいなタイムレスなことよりもニュースに近いことを書く方が必要とされるのかもと思う感覚と、だけど読んでもらえるからといって世の中についてある一つのトピックについてだけ延々論じ続けるアカウントを作るつもりもまたなくて。


じゃあ、私は何を芯として文章を書くのだろう?少なくともここに?



私は、きゅうりとズッキーニとメロンの違いを書きたい。



世の中の関連性と違いを自分の目で見出し、感覚を言葉にする。そのために必要なら過去のどうでもいいような思い出を遡り、通りすぎてきた知識をコラージュさせ、「たかが水茄子の漬物をうっかり食べただけの話」か、「子供の頃から嫌いだったものの話」を、そこに違う味わいだとか意味をかけられる文章を書く人でいたい。


「きゅうり」は奥が深い。


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