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メディアの形容詞が追いつかない。元留学生が両陛下の親善訪問を独自解説

記憶に新しい英国訪問の最終日、天皇陛下と皇后さまは、母校であるオックスフォード大学を『私的に』訪ねられた。『』をつけているのは、私がそれを、私的とも言われる親密さを兼ね備えた、どう考えてもパーフェクトな公式訪問だったと思っているからだ。

宮内庁およびメディア数社は、主に皇后陛下のされることに「私的」とつけないと死ぬ体質なのか、「私的に」「私的に」「私的に」と連呼するが、国家元首や首相が外遊に行く場合、訪問日程のなかで現地の名門大学に赴くことは、極めて慣例的なことである。

平成の天皇皇后陛下として、1998年に英国・デンマークへ国賓訪問をされた上皇・上皇后両陛下はデンマークのコペンハーゲン大学を訪れ、2014年に国連総会のためにニューヨークへ渡った安倍元総理はコロンビア大学を、2023年に日米首脳会談のため訪米した岸田総理はジョンズ・ホプキンス大学を訪問し、両総理は現地の学生に向けたスピーチを行った。

日頃、アウェーの環境でマイノリティとして切磋琢磨をする日本人留学生にとって、自国の要人が大学の賓客として扱われることは、少しばかり心躍る出来事である。2014年に安倍首相がコロンビア大学を訪問した際、同大学の学生としてスピーチの抽選に応募した私は、当日そこに現れた日本人留学生に限らない長蛇の列に驚きを覚えながらも、その事実を嬉しく思ったことを覚えている。

テレ朝News

ところで、日本人留学生の数は年々減少をたどっていることはご存知だろうか。コロナ禍の落ち込みを回復した後も、22年度の実績で5万8,162人と、過去最高を記録した18年度の11万5146人からの半数程度にとどまっている。岸田首相は2033年までに海外で学ぶ日本人留学生の数を50万人(ご・じゅ・う・ま・ん・に・ん)に増やすという勇猛果敢な目標を掲げるが、18年度の内閣府の調査によると、「外国留学をしたいと思わない」と答える13〜29歳の若者は5割を超え(韓国・米国の数値は2割)、次世代を担う日本の若者の「内向き」さが際立つこともうかがえる。
 
そんななか、今回の訪英で両陛下のアカデミックガウン姿、皇后陛下の名誉学位授与式の様子が報じられたことは、潜在的な教育奨励効果も高かったのではないか。

オックスフォードをアカデミックガウンで更新される両陛下(宮内庁インスタ) 
John Carins/宮内庁インスタグラムより。SNS上では、「ハリーポッターの世界」という感嘆詞や「雅子さま、かっこいい」という声がバズっていた。

パーソナルな親密さを兼ね備えた「公的な」訪問は最高難易度。歴史は後から買うことができない

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同大学でも大変な歓迎を受けた両陛下だが、このような形での親善訪問は──つまり、パーソナルな親密さを兼ね備えた、パブリックなヴィジットという最高難易度のものは──それまでの「公式訪問」という印象を大きく塗り替え、これから永く手本として語り継がれるようなものだったと言えるのではないか。そう思うのは、私自身が、かつて日本人留学生として安倍首相の訪問を見たからだろう。

2014年の当時、安倍首相は米国とどんな繋がりがあるのだろうと簡単に検索した私は、留学生としてお世辞にも尊敬できるとは思えない安倍氏の留学歴をネットで拝見し、正直複雑な気持ちになってしまった。その足跡から、何とも闘わなかったのだな、と思ってしまったからだ。結果を出すこととも、資金を確保するという意味においても。その二つはしのぎを削る留学生活で留学生が直面する最たるものであり、「いかに奨学金を得るか考えたこともなく、聴講生として遊学をしていた人に、学位習得に来た留学生の何がわかるのか」と思う気持ちを当時は隠せなかった。
 
いや、20年前の学業に対する態度がひどくとも、現在形の政治家としてのご本人やその生き方に敬意を抱けばそんな昔のことはどうでも良い話であるが、当時私に、安倍首相を尊敬できる理由は特段思い当たらなかった。
 
そんな気持ちを抱きながらも物珍しさもあって当日はスピーチを聴くために会場に赴いたが、現地の大学生を相手にするのだからてっきり英語でスピーチするのかと思っていたら、当日のそれはなんと日本語の朗読だったというのもまた白けてしまう理由であった。

皇族だから、総理だから「誇らしい」とは思えない

安倍首相がひとかたまりの原稿を読み、通訳の音声がしばらく入り、またそれが安倍首相のスピーチに戻るという形で進行したのだが、安倍首相が発話している間は、アメリカ人にとっては「意味不明」の言語がしばらく流れる時間なわけで、集中力も途切れるし、迫力も感動も何もなくなってしまう。(同時通訳ならそうはならないけれど)

前提的な感覚として、日本で英語が話せると加点がもらえそうだが、「英語の国に来た瞬間、英語は話せて当然」という立ち位置になり、アメリカ人はアメリカにいるんだから英語で話して当然だろという彼らが世界の中心的な感覚でいる。もし外国の首脳が日本に外遊に来て、全文日本語でスピーチしたら拍手喝采になるだろうが、英語という国際的なツール認定されている言語に置き換わった瞬間、それは「できたら凄い」から「やって普通」のことになるということだ。

その感覚で生きていると、一国の総理としてアメリカの大学にわざわざきて、英語でスピーチをしないという感覚が、なんだかすごく「国際感覚が欠落した」ことに思えるのである。どこでも、日本バブルにくるまって、移動するんですね、という感じ。
 
私自身も英語を非常に苦労して学んだ人間のため(かつ大人になってから学んだため)、暗記してスピーチすべきというほど非情な感覚は持っていないが、安倍首相のそれは、完全な「朗読」であったため、なおさらそう思ってしまった。原稿を読み上げるだけでよいのであれば、英語であってもさほど難しくないからだ。(もちろん「留学経験がある人物にとって」ではあり、安倍首相に留学経験があるからこそ、同じ留学生として感じる違和感である)
 
首脳や国家元首が、海外訪問時の公務の一環で訪れるような──つまりはその国を代表するような大学に留学し、そこで学位を取るとは、当然オールイングリッシュで議論し、メモを見ずにプレゼンし、日々自己否定感と己の足りなさを感じながら死闘を繰り広げるということだ。こんなとこまで来て、日本語の朗読って……と少々愕然としながら会場を後にした私にとって、両陛下のオックスフォードへの親善訪問は、「現地大学への訪問」を完全に別次元に押し上げる出来事だったように思うのである。

 邦人の留学生に限らず、その訪問を目の当たりにする現地の学生にとって(今回の場合はイギリスの学生にとって)、大学への来賓とはなんらかの感情的なつながりがある方が嬉しく、お二人ともがオックスフォードの卒業生であることは人物への親近感を何倍にも高める話である。さらにはそれが日本の天皇・皇后両陛下であり同学から名誉博士号を授与されているともなれば、もはや別格。

尊敬とは、日本国の総理大臣という事実や、皇族という立場に生まれるのではなく、その一瞬の道と道が重なり合った時、その人が歩まれてきた道や重ねてきた自己研鑽、品格に対して発生するものだ。同大学から名誉博士号という最高の栄誉を授与され、両陛下がアカデミックガウンで校内を歩かれる姿を見た日本人は、さぞ誇らしかったのではないだろうか。

ロイター

ビル・クリントンとヒラリー・クリントン夫妻以来のこと

ちなみに、同大学の名誉博士号を夫婦揃っての授与された公人には、1組の先例がある。アメリカ合衆国のクリントン元大統領夫妻である。ビルクリントンは1994年、ヒラリークリントンは2021年に同栄誉を授与され、夫婦揃っての授与が話題となった。(逆に言えば、クリントン夫妻以来と言えるほど希少な出来事なわけである。オックスフォードの名誉博士の歴史についてはこちらに詳しく)。
 
実は、クリントン夫妻と令和の天皇皇后陛下は、ご成婚からわずか一ヶ月後、1993年の東京サミット時に催された宮中晩餐会でお会いになっている。報道の映像には、ご成婚まもない皇太子殿下と皇太子妃殿下がクリントン夫妻をお迎えし、握手を交わす場面が残る。

TBS(映像見たい人は『TBS』をクリック!)

30年の時を経て、令和の天皇陛下・皇后陛下となられたお二人が、お二人揃って国際親善と皇室外交の場に立たれることに心から敬意を称し、お二人のオックスフォード訪問が、20年30年後、多くの果実となることを期待したい。


おまけ:

2014年の安倍首相の大学訪問映像がどこかにないだろうかと探したら、なかなかにしょっぱいナラティブで報道されていたことを知った。興味のある人はこちらを。


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