見出し画像

【初心表明】noteに戻ってきた理由。メリットとデメリットの葛藤の先

何年かnoteで書くのをやめていた。理由はいくつかあるが、読まれないことに耐えられなかったからだと思う。

noteって、渋谷の交差点みたいなものに思える。トラフィックが多く人目に止まる可能性も高いが、その分反応がないときは、それは無価値であると言われているような気持ちになることから逃れられない。

「誰もが創作をはじめ、続けられるように」と謳うnoteの様式は、その可能性を加速させるつくりに見えて、実は表現しようとする心の源泉を殺すような仕様でもある。

なぜなら、何を書いてもいいねの数とセットで表示されることを避けられないからだ。これは「ネット上のカルチャーだから当たり前」に見えるかもしれないが、表現をするという文化圏のなかでは異例のことであり、それがnoteがした発明であるのだと思う。

作家の本(書籍)の実売数は(つまりはネットのPVとかスキの数みたいなものだけど)、非公表であることををご存知だろうか。数年前に、本の実売数がどこかの出版社から流出したというニュースに対し、芸能人か文化人の誰かが「え、それって今まで非公表だったの?作家ってそんなチキンなの?」と言ったのだけど、そうだよ、と言いたい。それは単に慣習であるからということもあるが、多分、99%の作家は、何千部刷られたか、何刷までいったか、ということを常に本の帯に記されたいですか?と聞かれたら、まず嫌がると思う。
(帯に5万部突破、10万部突破と勲章のように載せる場合を除き。ちなみにそれはnoteでいう1000スキとか、そういう感じである)

それは、作品の価値をそれと常にイコールかのように見られたくないと思うからだ。どれくらい売れたか、届いたか、そこから逃れることはできないけれど、でもそれを作品の襟元に常においておきたいか否か、で言えば。

noteの発明とは

noteのもう一世代前は、アメブロやはてなブログが乱立するブログサービスが盛り上がった時期だったと思うけれど、私はnoteがそれら以外全てのものと違う点は、「様式のシンプルさ(だから「書く」ことだけに専念できる)」ではなく、ユーザーのなかの一握りの上位という特殊層だけの人気を可視化し順位づけるような構造から、すべての作り手、発信者、表現者の、一つ一つのコンテンツを評価(スキ)というものさしに晒し、評価のメカニズムに組み込んだ点だと思う。

それは、「だからこそ、力のある無名のコンテンツ」がネット上の読み手に支持されたとき、スキの数の力が価値に転化され、無名のクリエーターが何者かになれるという夢や可能性を秘めているのと表裏一体さとして、「読まれない」「価値がない」「支持されていない」という烙印を全ての人に押し付ける形式でもあり、それは心を込めて表現をする人の心を、何よりも残酷に削っていく。

noteとは究極のポピュリズム的なプラットフォームでもあるのだと思う。


4年前、それを理解できなかった。読まれることが価値だと間接的に大音響で言われているようなライブ会場の中で、スキの数はコンテンツの質と比例しない。そんな当たり前のこと、思えないように。


あの頃私は、100時間かけて全力で書いて、一桁のいいねしかつかないことを繰り返すことに、耐えられなかった。

でも、企業広報やライターとして、主に取材記事や自分から距離のあるものをコンテンツとすることを通して、つまりnoteを「我思う」ではない、自分と離れたところで運用したり見る立場になると、徐々にわかっていった。なんだ、コンテンツの質の問題じゃ、なかったのか、と。

30スキ、50スキという、個人として投稿していた頃はどうあがいても超えられないところにあるように思えた数は、どんな薄っぺらいnoteであっても、生きてる人間がどれくらい自分のSNSで拡散したかで左右される程度なんだと知ったし、自分と距離があるものを見ると、「これのどこが150スキに値するんだろう」と思えるような殴り書きにそういうハートが輝いていることもあって、もしくは、「これは名作」と思うものに400スキが輝いていることもあって、その価値を示すとされるバロメーターなんて、完璧に狂っているんだと思えた。


最たる瞬間は、出版社が公式noteで公開している金原ひとみのエッセイ(書籍になっているものを宣伝する目的で公開しているもの)に、「2スキ」しか付いていなかったことである。あれより人を励ます事実はない。

私はそうして、noteで読まれるコンテンツを作れなくとも良いのだという開き直りをようやく持てるようになった。

って、ここで言いたいのは、私は別に、「いいねされるコンテンツ」を書きたいという承認欲求でnoteで何かを書いていたわけじゃないということである。書きたいというのは内在的な欲求で、たとえ誰にも読まれなくても書き続けられるものにこそ価値があるのだと思ってる。そうやって書いたものを「どうか最大限人目に晒されたい」と願って、渋谷の雑踏に置いておこうとする気持ちは、スキを得るために(それを目的として)何かを書くとは、違う。

表現の真髄とは、心の深奥をさらけ出せるかだ。もし「どう言われても、傷つかない」のであれば、それは、その人の心の深いところを取り出さなかったから傷つかないのだと思う。表層的な話を表面的に取り出して、それが読まれようと読まれなかろうと、どうでもいい、ように。

noteとは、渋谷の交差点みたいなものだと言った。そしてそこのナラティブは、「価値があれば評価されるはずですよ」。その場所で、価値がないという烙印を襟元につけたまま、自分の最もフラジールで繊細なものを渋谷の交差点に置いておけるかって、キツイと思う。3桁のいいねに守られない限り。


私はそうやって、自分の分身のようなコンテンツほど、そこに置き続けることが耐えられなくてしばらくして非表示にし、次第にどうでもいいような文章しか残らなくなった自分のアカウントをやがてみなくなり、


私はそうやってnoteを離れた。


でも、今noteに戻ってきた。それは、「書く」にもいろいろあるけれど、書く対象が、自分の外側にあるものに対するもの(文芸批評やジャーナリスティックな色が強い)が増えてきたことが理由だ。



そんな折、またnoteで書いてみよう、と思った。そこにある2つのメリットと1つの理由で。

noteで書くメリット①

noteはSEOに強い。自分が書いていることに近いようなキーワードで検索された時、人に出会ってもらえる可能性が個人のドメイン(ドメインパワーが全然ないとして)で細々書いているより、圧倒的に高い。

そう、香川県の田んぼ道の道横にプラカードを持って立つことと、渋谷の交差点で同じことをやることの、それが人目に触れる可能性の違いだ。

noteで書くメリット②

SEO効果が高いプラットフォームで書くというのは、それが、人目に触れやすいところに置いてあるということで、思想を訴えたい場合、著作権的にその安全性が高いように思える。

ネットには、専門家として世の中に君臨していなくても、たまに素晴らしいような質の高いコンテンツを個人で出し続けているような人がいて、私はそういうものに出会うと、今の時代こんなのnoteに出したらさぞ読まれるであろうに、とたまに不思議に思っていた。

(私みたいに読まれないことが辛くて書くのを続けられない、みたいなの通り越して、個人のドメインでずっと積み上げてるような人なのだから、どうせだったらnoteみたいなトラフィック多いところでやればいいのに……あるいはそっちにも流せばいいのに……ってこと。まあ、本当に余計なお世話なのだけど)

例えば、この70年代〜90年代の音楽批評のサイト。

華原朋美『LOVE BRACE』

華原朋美『nice cubes』

これを書いている管理人のまこりんさんという人は天才だと勝手に思っていて、ネットでもそんな言葉で彼女(か彼かわからないが)を褒める言葉が2、3あるのだが、ある時私は、note上に、まこりんさんの文章(この華原朋美のアルバムレビュー)を明らかにコピペとわかる形で剽窃し、自作のレビューのように出しているnoteがあることに気づき、そのnoteには結構ないいねがついていて、いろんな意味で驚愕した。

なぜって、あまりにも特徴的なその文章は、「すぐわかる」レベルの剽窃だったからだ。そっくりそのままの言葉が並ぶ二つのコンテンツを比べてみたら、公開日付自体で、片方が何年も先。その文体や思想が見事なまでにたわわな花となっている本家のサイトと、その見事さのあまりにその一部を剽窃した人のパクリコンテンツは、一目瞭然なくらい力量が段違い。

信じられなかった。百万歩譲って、古びた図書館で見つけて絶版になったような書籍の文章をパクってネット上の自分の表現として剽窃したら、露見する可能性はまだ低い(だからと言って許されるわけではない)。でも、ネット上の、それもコアなファンはいそうなものに対してそんなことする人いるんだ、と。

もうここに両方貼ってやるかと思って今noteの方を探したら、数年前に見たそのパクリコンテンツは、もう消えていたようだった。誰かが通報なり、批判なりをした結果消えたのか、と思うけれど。

そういうのを見ると、やはりnoteで書いているというのは安全性という意味では高いと思う。そういうことがあった場合に、それは自分の文章であると主張しやすい。

それもこれも、剽窃されたら嫌だと思うくらい、自分が書くものや観点のオリジナリティに自信がないと、持たない不安かもしれませんが。でも、そんな不安もないくらいだったら、文章書こうなんて思わないでしょ。

理由①使い分ければいい


私は自分の心の最もソフトな部分について書くことは、これからもnoteを選ばないかもしれない。『静かなインターネット』にするかもしれない。

最近知ったそのサービスは、スキの数や評価という一切から表現者を解放し、「読まれなきゃ価値がない呪い」から解放されたい人に向けて作られた画期的なサービスに見えて、感動した。

(noteがスキの数を非表示にしてくれる機能があったら全部解決なんだけど、それはサービス戦略上、きっとしないだろうと思う)

書くには、いろんな「書く」がある。

①パーソナルなエッセイ
②社会批評性の高いエッセイ
③小説
④芸術批評
⑤ジャーナリスティックな思想
⑥風刺が入ったコラム

読まれなくても書く文章にこそ価値があると思う でも 読まれるために書く文章もある。5や6に近くほど。


私はここには 読まれるために書く文章を書く。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?