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「国語」は最初、外国語だった?!

by 古家 淳

いま、日本の教育界には「国語教育」と「日本語教育」の二つがある。一般的に、前者は日本で生まれ育ち日本語を第一言語としている子どもたちを対象にし、後者は日本語を母語としない人々(大人も含む)に「外国語としての日本語」を教えるものだとされている。
しかし調べてみると、「国語」という単語が学校教育の文脈で初めて登場した時には、どうやら日本語を話さない人々に日本語を教えることを意味していたようなのだ。

まず日本で近代的な学校教育が始まったのは、1872(明治5)年に公布された「学制」から。翌年から全国に「小学区」が設定され、日本で初めて「小学校」が開設されるようになった。この時点で、「国語」という教科名は存在しない。
一例として『神奈川県教育史 資料編 第1巻』に収録されている1873(明治6)年の「小学教則制定のこと」という公文書には、「読物」「習字」「書取」「問答」「復読」「暗唱」などの科目名が列記されているが、「国語」という文字はない[0]。
文化庁が2005(平成17)年に刊行した『国語施策百年史』[1](p.141)によると、「従来『読書、作文、習字』と分かれていた言語教育科目が『国語』という教科名に統一された」のは、1900(明治33)年の「小学校令」改定においてである。同書はこの時代、方言が混在していた日本語の標準語をどう規定するか、言文一致体など新しい文体の模索、さらには漢字廃止論も含めて仮名遣いや表記をどうするかなどの問題があふれていたと記している。これらを解決するために1899(明治32)年には帝国議会において「国字国語国文ノ改良ニ関スル建議」 がなされ、1902(明治35)年には、この改良運動を主導した上田万年をはじめ嘉納治五郎、前島密、大槻文彦らそうそうたるメンバーを揃えた「国語調査委員会」が発足している。ナショナリズムの一環として近代国家にふさわしい統一言語を策定したいという機運が盛り上がっていた。

1900(明治33)年「小学校令」(国立公文書館)


一方それ以前に、日清戦争によって割譲された台湾は帝国主義的版図拡大の最前線となり、1896(明治29)年3月に「台湾総督府直轄諸学校官制」において台湾総督府国語学校国語伝習所の設立が定められ、同年9月に「台湾総督府国語学校規則」が、翌1897(明治30)年には「台湾総督府国語学校官制」が発布されている。この国語学校には師範部と附属学校が設けられていたほか、国語部に国語学科と土語学科の二つがあり、国語学科では台湾人に日本語を、そして土語学科では日本人に台湾語を教えていた[2]。「国語」は、ここでは「土語」の対立概念であり、国語学科で行われていたのは日本語を母語としない台湾人への日本語教育だった。日本人が歴史上初めて、本格的に外国語としての日本語教育に取り組んだ事例だと思われる。

1897(明治30)年「台湾総督府国語学校官制」(国立公文書館)

さらに1898(明治31)年には、「台湾公学校令」ならびに「台湾公学校規則」が発令されている。このうち「規則」第1条では「公學校ハ本島人ノ子弟ニ徳敎ヲ施シ實學ヲ授ケ以テ國民タルノ性格ヲ養成シ同時ニ國語ニ精通セシムルヲ以テ本旨トス」[3]と規定している。つまり「(日本)国民たる性格を養成」することと同時に「国語に精通させる」ことが公学校の目的だった。

1898(明治31)年「台湾公学校令」(国立公文書館)


結論として、1900(明治33)年の「小学校令」よりも4年ほど早く、植民地台湾において「国語学校」が誕生し、しかもそこで行われていたのは「日本語を母語としない人々に日本語を教えること」だったと言える。
いずれにしても、「国語」の誕生がナショナリズムあるいは帝国主義と深く結びついていたことは事実である。


[0]川崎市立中原図書館にて閲覧。
[1]文化庁https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/archive/pdf/93728801_01.pdf
[2] 国立公文書館「アジア歴史資料館グロッサリー」https://www.jacar.go.jp/glossary/term2/0050-0010-0010-0010-0220.html
[3]「台湾公学校規則」(個人サイトによるテキスト化)https://userweb.mmtr.or.jp/idu230/tabun/hyo/horei/kisoku3.htm

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