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【アジア】18の国際問題解説

この記事では下記のことをまとめています。
1. ラオスってどんな歴史があるの?
2. ブータンってどんな歴史があるの?
3. パプアニューギニアってどんな歴史があるの?
4. インドネシアってどんな歴史があるの?
5. 東ティモールとインドネシアのあいだで何がおきたの?
6. タイってどんな歴史があるの?
7. フィリピンってどんな歴史があるの?
8. ベトナム戦争勃発まで世界で何が起きていたの?
9. カンボジアでおきた悲劇とは?
10. インドとパキスタンと中国、カシミールで何が?
11. 中国とインドとの問題、ネパールで何が?
12. 香港と中国のあいだで何が?
13. 中国と台湾のあいだでの争いとは?
14. 中国のウイグル民族とは?
15. アゼルバイジャンとアルメニア、ナゴルノカラバフ紛争とは?
16. ロシアの紛争
17. シンガポールの政策
18. タリバンとアフガニスタンのあいだで何が起きているの?

[ラオスってどんな歴史があるの?]

ラオス独立まで

フランスの植民地支配を受けていたラオスは、第二次世界大戦の際の日本による支配を経て、戦後再びフランスによる支配を経験しています。

独立後

1954年に独立を果たしたラオスは、憲法に基づく君主制を始めます。皇族が国にいる制度ですね。

しかし、すぐに "皇族に忠誠的な勢力" と "the Pathet Lao という名の共産主義勢力" のあいだで内戦がおきます。

1960年代になると、ベトナム戦争下のアメリカによる攻撃がラオスにも飛び火していき、大規模な被害を受けました。アメリカものちに賠償金を支払うなどの対応をとっています。

1973年になるとラオスでは内戦も終結し、両勢力で国を二分割することが決められました。
しかし、the Lao People's Front に名前を変えた共産主義勢力は国の権力を牛耳り、当時の国王を辞めさせて逮捕するんですね。

これにより、The Lao People's Democratic Republic という共産主義に基づいた民主共和国が建国されました。

the Lao People's Revolutionary Party (LPRP) という政権による一党制が始まったんですね。

経済難

1970年代、社会主義の経済を行う中で食糧不足などの問題をかかえ、ラオス経済は安定しませんでした。

この時期に多くのラオスの人が難民として隣国タイに逃げ込んでしまったため、資本主義的な経済システムを取り入れるために、ラオス政府は農業の民営化を認めたりして対応します。

1980年代になると、同じく共産主義のソ連でも社会主義経済の見直しが行われ、市場経済が導入されていきます。

しかし、ラオスの政治体制は、共産主義を徹底的に維持していました。

1989年にラオスで独立後初めての選挙が行われたのですが、一党制を行っていた the Lao People's Revolutionary Party (LPRP) 政党から許可を得ないと立候補できなかったんですね。

そういった状況下で、ラオスは ASEAN に加入するなど、隣国タイやアジア諸国との関係も強めていきます。

国の安定を目指して

国連などの国際機関からも経済支援が行われ、ラオスは経済の安定化と栄養失調などの貧困問題解決を目指していきます。

経済政策の一つとして、外国へ輸出するための電力創出を目的としたダムの建設があるですが、これは環境への影響が懸念されていました。

2000年代になっても、ラオスの首都で爆破事件がたびたび起きたり、ラオス国内の the Hmong 民族が共産主義政権に反発するなど、権力分散の動きや、さらなるダムの建設、市場経済の促進が行われていきます。

こうして現在もラオスは、共産主義の政治体制は維持したまま、経済の発展に励んでいるんですね。

参考: BBC News
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[ブータンってどんな歴史があるの?]

ブータンと外国

ブータンは植民地支配はうけていないものの、1910年に "イギリスがブータンの外交に実権をもつこと" が決められています。

さらに第二次世界大戦が終わると、新しく国になったインドがブータンの外交に実権を持つようになります。
そんな中ブータンは 1971年に国連に加盟し、1974年から外国人観光客の国内への入国をはじめて認めるなど、国際化を進めていきます。

しかしこの国際化の動きとは裏腹に、1986年に施行された新しい法律で、ブータンに一定期間住んでいる人に市民権が与えられる反面、ネパール系の人たちを違法な移民として見なすようになったんですね。

さらにネパール語で行われていた学校教育は禁止されていきます。

こうした背景から、ネパール系の人たちへの敬意や民主的な政治を望む抗議活動が起きるのですが、政府も暴力で対応しました。

それまで絶対的な権力を保持していた国王は1998年に政府のリーダーから退き、制限付きでインターネットの使用が許可されたりしていきます。

民主化への道

絶対的な国王による君主制が終わると、2008年にブータンで初の民主選挙が開かれることになります。

2007年にはブータンは自国の外交や防衛に関する権限をようやく手にし、初の選挙に慣れるための模擬選挙が行われていきます。

当時の首相もいったん辞職し、選挙に立候補する形をとりました。

2008年の選挙の年になると、ネパール系の人たちの権利を主張する勢力が爆発事件を起こしたりしたのですが、初の民主選挙は無事に行われ、君主制に肯定的な政党が政権を獲得し、皇太子が新しい国王を引き継いで、ブータンは新時代へと突入したのです。

参考: BBC News
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[パプアニューギニアってどんな歴史があるの?]

パプアニューギニアの独立まで

パプアニューギニアという国がある島はもともと、アフリカのギニアという国と混合しないように New Guinea(ニューギニア)として1500年代に命名されました。

1800年代には、
島の南東側はイギリスの支配、
島の北側はドイツの支配を受けます。

1900年代になるとイギリスの影響力がオーストラリアに受け渡され、第一次世界大戦のあいだにオーストラリアはドイツが支配していた領域も手にします。

イギリスの支配をうけていた島の南東側は Papua(パプア) と改名され、
ドイツの支配をうけていた島の北側とは異なる統治方法が実行されます。

第二次世界大戦のあいだには日本が両地域を占領したのですが、日本の支配は短命に終わり、オーストリアによる支配が復活すると、1949年に両地域が the Territory of Papua and New Guinea としてオーストラリアの管轄下におかれるんですね。

もともとオランダ統治をうけていた West Papua と呼ばれる地域は、インドネシアの侵略をうけたことで国連の管轄下に一時的におかれたのですが、結局インドネシア領になっています。

パプアニューギニアの独立後

1975年になるとパプアニューギニアは、オーストラリアから独立した国家となります。

しかし 1989年になると、パプアニューギニア国内にある Bougainville という島が独立を願って反政府軍事行動にでたんですね。

1994年にパプアニューギニア政府が "段階的な自治権を反政府軍にあたえる" ことを提案するのですが、完全な独立以外受けいれたくない反政府軍はこの平和条約を拒否して争いを続けます。

しかし1998年に両者のあいだで停戦が約束され、オーストラリアが平和維持を監視する役割を担うことになります。

Bougainville 島では独自の政府が設立され、そのうち新しい国として認められるであろうと言われています。

難民

オーストラリアにはこれまで、多くの難民が各地から逃げ込んできました。

そういった事情から、2013年以降、
パプアニューギニアやナウルの島国に支援を提供することと引き換えに、
オーストリア政府は難民に対してその両国で一時待機してもらう政策をとりました。(Offshore processing といいます。)

しかし、待機場所の生活環境が人権保護の観点から問題になったり暴動がおきたりしたため、2017年にオーストラリアは、パプアニューギニアの難民一時待機施設を閉鎖することを発表しました。

参考: BBC News, UNHCR
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[インドネシアってどんな歴史があるの?]

インドネシアの独立まで

インドネシアはもともと、オランダの植民地支配を受けていました。

第二次世界大戦のあいだは日本の侵略をうけ、戦後に独立を宣言します。

インドネシア独立後

1965年に共産主義政党によるクーデターが起きると、共産主義者を対象にした大量虐殺がインドネシア軍により行われました。

1967年から1998年まで、Suharto という独裁者がインドネシアを支配していたこともあり、1975年に東ティモールに侵略するなど、強い軍事力の行使があったんですね。

2000年代になると、インドネシア国内でイスラム国などのイスラム過激派による攻撃が活発になります。

そもそもインドネシアは世界で最も多くのイスラム教徒が住む国で、なぜアジアの島国にイスラム教徒がこれほどいるのかは今だに明確になっていませんが、”イスラム帝国の復活” をかかげるイスラム過激派集団にとっては、イスラム教徒の多いインドネシアでの活動は都合が良いのです。

参考:TRT World, BBC News, Inside indonesia, The Atlantic
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[東ティモールとインドネシアの間で何がおきたの?]

東ティモール独立までの歴史

ポルトガルが植民地支配をしていた東南アジアの一つの島に、オランダが侵入していき、島の東側半分のみポルトガルが支配するようになります。

第二次世界大戦の間は日本に占領されていたのですが、1975年までポルトガルの支配が続きました。

東ティモールとインドネシアの紛争

島の西側はインドネシアの領土であったのですが、1975年にポルトガルの勢力が島の東側から撤退すると、インドネシア軍が西から東へとすぐに攻め込んできたんです。

島の東側に住んでいる人たちは "このままではインドネシアの一部になってしまう" と思い、Democratic Republic of East Timor という独立国家として名乗りを上げます。

このインドネシアの侵攻とそれに対抗する東ティモールの人たちのあいだで紛争になったのですが、インドネシア軍が市民を中心にジェノサイドをおこなったため、国際社会から批判を受けました。

当時のインドネシアの独裁者が1998年に権力から退くと、東ティモールはもう一度独立を宣言するのですが、インドネシアの軍事勢力がまた攻撃に出たんです。

これには国連の平和維持活動も介入に入り、国連の支援の下、ポルトガルとインドネシアは "東ティモールの人たちに今後の国の方針をゆだねること"で合意します。

1999年に東ティモールで選挙が行われ、投票率は99%だったと言われています。

そのうち78%が独立に賛成だったのですが、東ティモールの国としての独立に反対する勢力が、インドネシア軍の支援をうけて攻撃に出たんですね。この時多くの東ティモールの人が島の西側へと逃げていきました。

この事態をうけてオーストラリアを主導にした平和維持軍が介入していきます。これにより、インドネシアは東ティモールの選挙結果を認めることに合意しました。

東ティモールとインドネシアの紛争後

国連による代理政府が東ティモールに設立され、東ティモールの復興に励んでいきます。

2001年には東ティモールの独立政府を設立するための民主選挙が行われ、大統領が選ばれます。

国連や各国も東ティモールの支援を進め、2002年には東ティモールは 191番目の国連加盟国にもなります。(ちなみに 192番目はモンテネグロ、一番新しい 193番目は南スーダンです。)

経済的なつながり、各国や国連からの支援を経て、東ティモールは独立国家として国家を安定させていったのです。

参考: History, BBC News, United Nations
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[タイってどんな歴史があるの?]

タイのこれまで

タイは歴史上植民地支配を一度も受けなかった、珍しい国です。それゆえに 1939年に国名が "Land of the Free" を意味する Thailand になったんですね。

第二次世界大戦の時にも、タイ政府は各地へ侵略していった日本と交渉をし、タイ本土への影響を退けてイギリス領土に矛先を向けることに成功しました。

タイの政治

タイは日本と同じように、憲法に基づいた政治を行い、皇族がいる国です。

第二次世界大戦の後には、親日の軍部がタイ国内の勢力を獲得し、軍部による統治が1973年まで続きます。

しかし1973年になると学生による暴動がおき、軍部による統治は終わります。その後選挙が行われたのですが、政治は不安定になってしまったんですね。

そのため、1976年には軍部が再び勢力を獲得します。

これまでに、新しい首相を任命するための軍事クーデターが度々おきていて、タイでは軍事政権の時期と民主政権の時期が入れ替わりになって、政治を安定させるために模索してきました。

そうした中、2010年には国民による大規模なプロテストが起きたりしたのですが、2016年には "軍部が政治をリードした方がよい" という国民の投票が多くなり、新しい憲法に改正されます。

この年には国王が寿命で交代するなど色々なことが起きる中、軍部が政治をけん引しつつも民主政治を実現しようという流れになっているんですね。

国の南側に住むイスラム教徒

イスラム教国家のマレーシアに近いタイの南側には、イスラム教徒が多く住んでいて、独立を望む動きがみられてきました。

2004年にはその地域で一時的な軍事統治が行われたりして、緊張状態にあったんですね。

2013年にタイ政府とイスラム教徒のあいだで平和交渉が行われたものの、2019年に暴力事件が起きるなど緊張状態は続いています。

参考: BBC News
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[フィリピンってどんな歴史があるの?]

外国からの支配

フィリピンはもともとスペインの支配を受けていたのですが、それに反発するフィリピンの人たちが 1898年に独立を非公式に宣言します。

しかしすぐに、当時スペインと戦っていたアメリカがフィリピン国内のスペイン勢力を攻撃し、スペインはフィリピンにおける影響力をアメリカ軍に受け渡しました。

もちろん非公式に独立を宣言していたフィリピンの人たちは、アメリカ軍支配に反発して First Philippine Republic という国の建国を表明したため、アメリカ軍とフィリピンのあいだで紛争になるんですね。

この紛争は、"アメリカ軍支配" ではなく "アメリカ政府による支配" に切り替えることによって終わりを迎えます。

以降、フィリピンの人たちによる自治も始まっていき、1935年には Commonwealth of Philippines として 10年以内に独立をすることが約束されました。

しかし、この期間に第二次世界大戦が起こり、1941年に日本がフィリピンを占領したんです。そのためアメリカはフィリピンにおける影響力を再び強めて対抗します。

第二次世界大戦で日本が負けると、1946年にはフィリピンは Republic of the Philippines として公式に独立を果たしました。

フィリピン独立後の国内政治

1972年から当時のフィリピン大統領 Ferdinando Marcos は一時的な軍事統治を始め、反大統領勢力を逮捕したり、規制を強めたり、大統領に強力な権限を与えるように憲法を改正しました。

軍事統治を解除した後も独裁的な政治が続いたため、1986年に大規模なプロテストがおきて新しい大統領に交代します。

1989年には元俳優の Joseph Estrada という人がフィリピン大統領に選ばれるのですが、憲法違反などの政治の腐敗を原因に 2001年には大規模なプロテストに発展し、また大統領交代となります。

イスラム勢力との争い

不安定な政治に加え、1969年からフィリピン国内のイスラム教徒 (Moro National Liberation Front) とフィリピン政府とのあいだで紛争が起きていきます。

この紛争は休戦を約束したり紛争を再開したりを40年ほど繰り替えしたのち、2014年に平和を約束しました。

しかし、the New People's Army (NPA) という共産主義の軍事組織や、イスラム過激派による活動も見られ、2018年にはフィリピン国内の一部で一時的な軍事統治が行われたりするなど、不安定な状況は続いています。

参考:BBC News
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[ベトナム戦争勃発まで世界で何が起きていたの?]

ベトナム戦争が始まるまでの経緯

ベトナムはもともとフランスの植民地支配を受けていて、第二次世界大戦中はナチスドイツや日本に占領されていました。

そんななか、共産主義のソ連に影響をうけた Ho Chi Minh という人は、ベトナムで共産主義政党をつくり、フランスや日本の影響力を排除しようと動き始めます。

第二次世界大戦が終わると海外諸国も植民地支配を継続する余力がなくなったため、ベトナムは独立国家となります。

それでもフランスはベトナムでの影響力を維持しようとしていたため、Ho Chi Minh という人はベトナムの北側地域でさらに独立することを宣言します。ベトナムから北ベトナムとして独立しようとしたわけです。

冷戦

この頃アメリカは、世界の国々に共産主義が波及することを恐れていて、”共産主義に脅かされそうな国はアメリカが支援する” と宣言します。(the Truman Doctrine といいます。)

1949年にカザフスタンでソ連の原子爆弾が爆発したり、中国の Mao Zedong が共産主義に基づく中華人民共和国を建国したりと、世界で緊張感が強まっていたんですね。

ベトナム戦争勃発

1950年になると、中国とソ連は Ho Chi Minh という人が独立を宣言した北ベトナムを国家として認め、共産主義を応援するために経済支援や軍事支援を行います。

この支援をうけて、Ho Chi Minh という人は国内のフランスの影響力を徹底的に排除しようとするわけです。

しかし、アメリカは共産主義を掲げる北ベトナムを警戒していたため、フランスを支援し始めるんですね。

結果は共産主義勢力の勝ちで、1954年にフランス軍はベトナムから撤退することになり、ベトナムも北ベトナムと南ベトナムの二つに分けられることが正式に決まります。(The Geneva Accords といいます。)

Ho Chi Minhという人が率いる共産主義の北ベトナム

アメリカが支援する南ベトナム

が生まれたのですが、共産主義の北ベトナムは南へ勢力を拡大していきました。

"北と南の争い" は "共産主義勢力とアメリカの争い" と重なり合って、ベトナム戦争は泥沼化していきます。

1970年になると停戦に向けた交渉が行われるようになり、1973年にベトナム戦争の停戦とアメリカ軍の撤退が約束されるのですが、1975年に北ベトナムが南ベトナムに再び侵攻するんですね。

北ベトナムはベトナム全土の勢力を手に入れ、現在の社会主義国家ベトナムが建国されるのです。この時、多くのベトナム人が外国へと逃げていきました。

ベトナム戦争のあと

1979年に、ベトナムはカンボジアの共産主義勢力へと影響力を拡大するのですが、同じく勢力を拡大したい中国とベトナムのあいだで紛争が起こります。

しかし1986年からはベトナムでも、より資本主義的な経済システムが取り入れられ、共産主義の政治を維持したまま経済の自由を広げるような憲法に改正されていきます。

30年続いた中国との国境紛争も2008年には終わり、中国の政策に似た "ふたりっ子政策" を人口抑制のために施行したりしています。

ベトナムは現在も共産主義の政治を行っているため、民主主義を掲げる政治活動家の逮捕やインターネットの規制があるのですが、アメリカとの外交や武器貿易を再開したり、ASEAN への加入など国際社会とのつながり強化にも励んでいるんですね。

参考: History, BBC News
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[カンボジアでおきた悲劇とは?]

国の独立まで

カンボジアはもともとフランスの植民地支配を受けいていて、第二次世界大戦のあいだだけ日本に占領されていました。

第二次世界大戦の終わりとともに日本による支配が終わり、再びフランス統治が始まります。

しかし、政党の形成を認める憲法が作られたり、国内の共産主義勢力によるフランスの影響力を排除しようという動きが見られ始め、1953年にカンボジアは独立国家となります。

Sihanouk という人をリーダーとするカンボジア王国が誕生するのです。

国の独立後

1965年に Sihanouk という国のリーダーは南ベトナムを支援するアメリカとの関係を断ち切り、北ベトナムを支援し始めます。

しかしこのあたりから隣国のベトナムやアメリカとの関係が悪くなっていき、カンボジア国内でも国政への不満が出てくるんです。

Sihanouk という国のリーダーは Lon Nol という政治権力者によってリーダーを下ろされ、Lon Nol という人はカンボジア国内の北ベトナム人に軍事攻撃を始めます。

the Khmer Rouge

1975年になると、the Khmer Rouge という過激派共産主義集団がカンボジア国内を制圧し、宗教の信仰を禁止するなど国民の自由を制限し始めます。

この時期のカンボジアは、The People's Republic of Kampuchea という国名の共産主義国家でした。

Pol Pot という人をリーダーとする the Khmer Rouge 過激派共産主義集団が、1975年から1979年にかけてカンボジア国内で虐殺をおこない、全国民の21%が亡くなったと言われています。

これは国際社会からも批判をうけ、the Khmer Rouge 共産主義集団のトップの多くは逮捕されています。

共産主義の終わり

1989年になるとベトナムとの争いが落ち着き、カンボジア国内では経済の立て直しが必要になってきます。

そのため、Hun Sen というリーダーは海外からの投資を増やすために、共産主義をやめて国名も Cambodia に変えるんですね。国の宗教として、仏教の信仰も復活します。

王国の復活

権力が偏らないように国連と各機関の権限を一時的に分割したりして、平和に向けて動き始めまるなか、独立当初の Sihanouk 国王をリーダーとするカンボジア王国が復活するんです。

しかし、the Khmer Rouge 過激派共産主義集団や Hun Sen という人はこの動きに反発します。

現在も続く国政の問題

Hun Sen という人は選挙によって再びカンボジア国内で権力を手にするのですが、国政内での争いは続きます。2008年の選挙結果は EU から批判を受けていたり、2013年には選挙結果に反発する大規模なプロテストが起きているんです。

野党は政治への参加をボイコットしたりしているものの、反政府勢力に対する規制は強まっているんですね。

参考: BBC News

Netflix で見れる映画を紹介
"First They Killed My Father" という映画は、カンボジアでおきた虐殺をその場にいる子どもの視点から描いています。
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[インドとパキスタンと中国、カシミールで何が?]

インドとパキスタンの国境にある Kashmir(カシミール)という地域で、今現在も争いが起こっています。

なにが起こっているのでしょうか?

国の独立

まず、インドもパキスタンも1947年まではイギリスの植民地支配をうけていました。

第二次世界大戦で疲れきったイギリスが1947年になると植民地支配を手放していき、インドとパキスタンも独立した国になります。

そして、その両国の国境を決めるときに基準にしたのが、信仰宗教です。

イスラム教を信じる人が多く住む地域をパキスタン、
その他の宗教(多くはヒンドゥー教)を信じる人が多く住む地域をインドとしたわけです。

問題

しかしこのとき、イスラム教徒が多く住む地域で、ヒンドゥー教を信じる人がリーダーをしている地域があったんです。それが Kashmir(カシミール) 地域で、しかもインドとパキスタンのあいだに位置しているんですね。

Kashimir(カシミール) 地域は "両国にも属さずに自立したい" と主張したわけですが、両国はそれを許しません。

しかも Kashmir(カシミール)地域には川がとおっていて大事な水源であることから、パキスタンが Kashmir(カシミール) 地域を占領しようとしたんです。

Kashmir(カシミール) 地域はインドに助けを求めたところ、インドは "インドの一部になれば助ける” と主張したわけです。そのため Kashmir(カシミール) 地域がインド側につこうとすると、パキスタンが攻撃にでて、インドとパキスタンのあいだで紛争になるんですね。

解決策は失敗

この状況をみかねて、国際連合が動きます。

Line of Control (LoC) という境界が設定されて、両国の軍事行動を制限しようとしたのですが、紛争は終わりませんでした。両国はともに Kashmir(カシミール) 全域における権利を主張し続けます。

しかもそれに加えて、中国が Kashmir(カシミール) の南側を占領し始めます。中国も Kashmir(カシミール) 地域に面していて、パキスタンとの経済的なつながりがあります。

インドにとって中国の存在は脅威であり、この状況はパキスタンへの攻撃を強める理由にもなりました。

紛争が長期化している理由

国だけでなく様々な軍事組織がこの紛争に参加していて、相手国内で過激な軍事行動を繰り返しているわけですが、両国は "テロ行為を支援している” とお互いを非難しています。

国が市民を攻撃することは国際社会から大きな非難をあびるため避けられがちなのですが、軍事組織は市民を紛争に巻き込んでしまう恐れがあります。

国にとっては "敵の勢力が弱まることは嬉しい” わけで、そういった軍事組織をうらで支援している可能性を両国が互いに非難しているのです。

ちなみにパキスタンはインドとの紛争のなかで、もともとパキスタンの領土であったインドの東側を失っているんですね。(その地域が今の Bangladesh という国になります) だからこそ今回 Kashmir(カシミール) 地域は失いたくないわけです。

インド、パキスタン、中国は、いずれも核兵器をもっている国であるため、紛争が悪化すれば世界全体に影響がおよびます。

参考:Al Jazeera, BBC News, Vox, South China Morning Post, The Economist, TRT World
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[中国とインドとの問題、ネパールで何が?]

ネパールがかかえる問題

大国のインドと中国に挟まれている Nepal(ネパール) は、中国の影響力とインドとの国境、この二つをめぐる問題をかかえているんです。

中国の影響力

ネパール国内では

Nepali Congress Party (NCP) という多党制による民族的な政治を求める政治組織

政党のない独裁的な政治をのぞむネパール国王

のあいだで政治権力をめぐる争いがあったんです。

そんななか、1949年に Mao Zedong という人が中国で共産主義をとなえて革命を起こし、今の The People's Republic of China(中華人民共和国)を建国したのですが、その影響が隣国の Nepal(ネパール) にも及んでくるんですね。

Mao Zedong勢力が過激な行動を繰り返し、2006年までネパール国内でも紛争が続きます。

2006年には紛争をやめることと引き換えに、ネパール国内で政党による民主的な政治を行うことと Mao Zedong勢力が政党として介入することが決まるんですね。

そして現在、こうした共産主義政党の中から今の首相である Khadga Prasad Oli という人と、元首相の Pushpa Kamal Dahal という人がネパールでの権力を争っているんです。

そして、この勢力争いのなかで、民衆の注目を集めるために利用されているのがネパールとインドの国境問題です。

インドとの国境問題

1816年という大昔に、国境にある川を基準にネパールとインドが分けられたのですが、いままでこれといった国境問題は起きてきませんでした。

インドにとっても国境付近は中国の勢力から国を守ったり、貿易の拠点として大事なのですが、
ネパールや中国にとっては川が起点となる地域を手にいれることができれば民衆の注目を集めることができます。こうした背景から、ネパールとインドのあいだで国境をめぐって争いになっているのです。

参考: Al Jazeera, BBC news, CSIS, Council on Foreign Relations
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[香港と中国のあいだで何が?]

対立の起源

Hong Kong(香港)は今のところ中国の一部なのですが、独立を求める動きが続いています。

この問題は1842年にイギリスが香港を占拠したことにはじまっていて、
新たな収入源、植民地先として中国をえらんだイギリスは、香港における支配を始めたんですね。

第二次世界大戦のときは日本が香港における支配を始めたのですが、日本が負けた戦後にはイギリスの影響力がまた強くなります。

そんな中、香港はイギリスの影響もあって、産業を中心に経済的な成長を進めます。

1997年にイギリス支配がおわると香港は中国の一部に戻るのですが、"one country, two systems" と呼ばれるように、"共産主義の国である中国の一部ではあるが、資本主義の経済システムや部分的な民主主義を香港は続けていく" ことが決まるんです。

中国で民主化運動

この頃は、中国の首都 Beijing(北京) にある Tiananmen Square というところで1989年に中国の民主化を求める大規模な抗議活動が起きていたりして、民主化の動きは中国にとっては脅威だったんですね。

それでも、香港の経済力や海外諸国へのアクセスなどは共産主義で閉鎖的であった中国にとっては大事だったわけです。

こうして、中国という一つの国の中で ”香港の西洋的なシステム” と "中国の強力なリーダーによる厳しい管理的なシステム” が共存してきたわけですが、やはり中国は 香港も他の地域と同様に厳しく管理したいんです。

そのため、中国は香港における選挙に規制をもうけたり、一人っ子政策が施行されなかった香港に行く妊婦を規制するなど影響力を強めていくんですね。

こういった状況の中で、香港の人々は中国からの独立を求めて抗議活動をおこしているわけです。

参考:BBC news, The Economist, TRT World, TLDR news
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[中国と台湾のあいだでの争いとは?]

中国と台湾のあいだで起きていることの概要

China (中国)の正式名称は The People’s Republic of China (PRC)で

Taiwan (台湾)の正式名称は The Republic of China (ROC) 。

"台湾は中国の一部” と主張する中国に対して、

”台湾は独立した国” と主張する台湾のあいだで今現在も緊張が続いているんです。

なぜこんな争いがおきているのでしょうか?

問題の起源

今の中国本土がある場所、つまり The People’s Republic of China (PRC) 政府が統治している場所というのは元々、The Republic of China (ROC) 政府が統治していた場所でした。

しかし1945年に第二次世界大戦が終わって、共産主義に基づいた反政府勢力が軍事行動にでました。

この反政府勢力が統治を勝ち取り、1949年に The People’s Republic of China (PRC) という共産主義に基づいた国が建国されるんですね。

もともとの統治勢力である The Republic of China (ROC) 政府は中国本土を追い出されるわけです。

台湾は日本の統治下にあったのですが、第二次世界大戦で負けた日本は台湾の統治をやめていたので、The Republic of China (PRC) 政府は台湾に逃げ込むわけです。

こうして、中国本土の The People’s Republic of China (PRC) 共産主義政府と、台湾の The Republic of China (PRC) 政府という二つの対立構造ができます。

問題の悪化

両政府の溝が深まったのは1971年で、国際連合が中国の代表として The Republic of China (PRC) ではなく、The People’s Republic of China (PRC) を国連加盟国として認めたことをきっかけとします。

もちろん The Republic of China (PRC) はもともと中国を統治していたプライドもあるので、独立した国家としての立場を主張するんですね。そういった背景もあって、台湾は共産主義ではなく民主主義に基づいた政治を行っているわけです。

中国の事情

台湾の独立をなぜ中国は拒むのかというと、民主主義をかかげる台湾が独立に成功してしまうと、
共済主義政治を行っている中国本土内で民主主義を求める人たちが反乱を起す可能性があるからなんですね。中国は自身の勢力を弱めるまねはしたくないわけです。

こういった背景から、中国と台湾のあいだで緊張が今も続いているんです。

参考: Al Jazeera, BBC news, CSIS, Council on Foreign Relations
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[中国のウイグル民族とは?]

中国の北西、アフガニスタンなどの他国と国境を接している場所には Xinjiang と呼ばれる地域があり、この地域には Uighurs (ウイグル民族) が多く住んでいます。

中国の多くの人は Han 民族である一方、ウイグル民族は中国における少数民族であることにくわえて、異なる言語を話し、イスラム教を信仰しています。

Xinjiang 地域

1949年に共産主義に基づく中華人民共和国が建国されてXinjiang 地域が中国の一部になる数年前には、Xinjiang 地域が短期間独立していた時期もありました。

Xinjiang 地域は石油や天然ガスが取れる地域で、中国がいま手掛けている The Belt and Road initiatives (一帯一路構想) という、各国のインフラ整備に投資して中国との貿易を円滑に進めるプロジェクトの対象地域にも含まれています。

国との対立

そのため中国は Xinjiang 地域を手放したくないわけですが、中国の人とは文化や民族性など多くの部分で違うウイグル民族の人たちは独立したいわけです。

中国政府は Xinjiang 地域への移民を増やしたり、ビジネスの拠点をXinjiang 地域に増やすなど、ウイグル民族の人たちが多く住む Xinjiang 地域を中国に近いものにしようとしてきました。

ウイグル民族の人たちに対する差別もあって、中国語の習得を強要したり、イスラム教徒の慣習を禁止したりしてきたわけです。

中国のビジネスによってもたらされた経済発展によって、 Xinjiang 地域での土地やモノの価格が上がっていく一方、ウイグル民族の人たちに対する差別は雇用格差にもおよんでいて、ウイグル民族の人たちの貧困増加にもつながっているんですね。

今どうなっているの?

ウイグル民族の人たちは抗議活動を行うなど、中国政府に自分たちの権利を主張してきたわけですが、2001年のイスラム過激派によるテロ攻撃をうけてイスラム教徒であるウイグル民族の人たちに対する対応が悪化します。

"Re-education camps" と呼ばれる所で、ウイグル民族の人たちに中国の共産主義に従うことを強要したり、イギリスは中国政府が ウイグル民族の人たちを強制労働させていることを非難していたりします。

参考
The Times, Al Jazeera English, BBC news, The Economists, Vox, Guardian News, South China Morning Post
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[アゼルバイジャンとアルメニア、ナゴルノカラバフ紛争とは?]

ナゴルノカラバフ紛争の起源

Nagorno-Karabakh(ナゴルノカラバフ)という地域をめぐって、Azerbaijan(アゼルバイジャン)と Armenia(アルメニア)が長い間紛争を続けています。この紛争のポイントは "資源と自尊心"です。

Azerbaijan (アゼルバイジャン)も Armenia(アルメニア)も Soviet Union(ソ連) の一部として共存してきたのですが、1991年にソ連が崩壊して各国は独立していきます。

Nagorno-Karabakh(ナゴルノカラバフ)は国際的に "Azerbaijan(アゼルバイジャン)の一部”とされてきたのですが、実際には Armenia(アルメニア)の人が多く住む地域なんですね。

そこで、Nagorno-Karabakh(ナゴルノカラバフ)に住んでいる Armenia(アルメニア)の人たちが
”Armenia(アルメニア)の一部になりたい”となったんです。

紛争に発展

1992年から1994年にかけて紛争になり、戦争に勝った Armenia(アルメニア)が Nagorno-Karabakh(ナゴルノカラバフ)の統治を獲得するのですが、その後も両国のあいだで軍事攻撃が続いていきます。

そして2020年11月、さすがにもう紛争をやめようということで、ロシアが仲介に入って Armenia(アルメニア)と Azerbaijan(アゼルバイジャン)は停戦、平和を約束したんです。

そして現在はロシアが Peace-keeperとして Nagorno-Karabakh(ナゴルノカラバフ)に駐在し、Azerbaijan(アゼルバイジャン)と Armenia(アルメニア)が軍事行動を再開しないよう見張っている感じです。

しかし、Nagorno-Karabakh(ナゴルノカラバフ)はまだ正式には Azerbaijan(アゼルバイジャン)の国内にあり、この約束を機に Armenia(アルメニア)が軍を引き下げてしまえば Azerbaijan(アゼルバイジャン)にとって有利になってしまうんですね。

そんなこともあって、ロシアの報告によると
”Armenia(アルメニア)とAzerbaijan(アゼルバイジャン)が約束をやぶって、Nagorno-Karabakh(ナゴルノカラバフ)で軍事行動を再開している” というのが今の現状となっています。

紛争が長期化する理由

なぜ長いあいだ紛争が終わらないかというと、

”住んでいるArmenia(アルメニア)人の自尊心が侵害されている” ことにくわえて、Nagorno-Karabakh(ナゴルノカラバフ)は、石油と天然ガスが豊富にとれる地域だからです。

これはかなり重要で、たとえば、Azerbaijan(アゼルバイジャン)にとっては隣国トルコへの石油や天然ガスの輸出が国の経済のおおきな支えだったりします。

さらに、Azerbaijan(アゼルバイジャン)の人たちはトルコ語をしゃべりますし、トルコと Azerbaijan(アゼルバイジャン)は長い間同盟国としてやってきたので、トルコにとってAzerbaijan(アゼルバイジャン)は大事なパートナーなわけです。

そしてこれは、トルコがAzerbaijan(アゼルバイジャン)をサポートする理由にもなってくるんですね。
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[ロシアの紛争]

Yeltsin 大統領の時代

Russia(ロシア)はソビエト連邦が崩壊したあと、1991年に独立した国家になり、
Yeltsin という人が大統領として安定した経済、政治体制の構築に励みます。

そんな中、ロシアが独立国家になった時に、Chechnya(チェチェン)という地域が非公式に独立を宣言していたのですが、
その Chechnya(チェチェン)地域の勢力がロシアの領土に侵攻していったんですね。

これをうけて、Yeltsin 大統領はChechnya(チェチェン)地域を制圧するため、警備部隊にもともといた Putin(プーチン)を1999年にロシアの首相に任命したわけです。

プーチン大統領の時代が始まる

この後すぐに、Putin(プーチン) はロシアの大統領になり、ソ連時代のロシアの強さを取り戻すことを目指します。

2000年代初めには、ロシア国内のメディアや石油、天然ガスなどを管理していた会社の影響力を統制し、重要機関における政府の影響力を強めていきます。
こうすることでロシア政府が外国への石油の輸出価格や天然ガスの供給などを、より大きく管理できるようになったわけです。

また、2006年にはロシア政府にとって不都合となる NGOs (非政府組織) の統制も強まり、プーチン大統領の非民主的な政治体制に反発するプロテストが起きたりします。

プーチン大統領の時代が終わる

ロシアでは大統領3期目が法律上禁止されていたため、2008年にDmitry Medvedevという人が新しいロシアの大統領になり、Putin(プーチン)は首相になります。Medvedev大統領はアメリカのオバマ大統領との距離を縮めていき、核兵器の削減などに取り組んでいきます。

プーチン大統領の時代が復活する

しかし2012年に大統領選挙で勝ったのは Putin(プーチン)で、プーチン政権が復活します。そんな中、Alexei Navalny という人を含めプーチン政権に反発する人たちが逮捕されていくんですね。

ウクライナとロシア、クリミア半島の紛争 をへて、プーチン大統領はアメリカのトランプ前大統領や北朝鮮とのつながりを強化してロシア経済、軍事力を高めていきます。

こういった理由から、
プーチン大統領は
ロシア経済を重んじる人たちから支持され、
民主主義を重んじる人たちからは批判される、
という構造が今も続いているんです。

参考
AP News, Council on Foreign Relations, The Washington post, Vox, NowThis World, BBC News, Vox, The New York Times, neo
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[シンガポールの政策]

シンガポール独立まで

第一次世界大戦前には日本の侵略を受け、
その後イギリス支配が始まり、
マレーシアの一部となってから、
1965年に独立を果たしたのが Singapore(シンガポール)です。

シンガポール独立後の経済

Lee Kuan Yew という人がリーダーとなって1990年まで安定した政治や経済の基盤を固めていってたことが、今の経済発展に生きています。

小さい国であることや天然資源があまりとれないという側面がありながらも、
アジアとヨーロッパの貿易の中継地としてビジネスを発展させることによって国の経済を発展させてきました。

所得税を低く設定したり、金融関連の規制を少なくすることで、海外からの投資やビジネス展開を積極的にうながしています。

シンガポール独立後の政治

経済を支えるための政治の安定にも力を入れていて、国民が理解して従いやすいような法律をつくるとともに、規律に一貫性を持たせることで国民の信頼を保ちながら国政の腐敗も防いでいます。

教育機関や政治家の質にも配慮していて、こうした安定した政治体制が海外の投資家からの信頼を勝ち取るのにも大きな役割を果たしているんですね。

シンガポールは海外の政策がどういった結果になったかというデータを積極的に取り入れています。

国民に対する手当を増やそうとすれば、選挙に有利なわけですが、その財源を確保するために所得税を上げれば、高所得者によるビジネスや投資の拡大を拒んでしまうことになりかねません。

また、政府からの手当に依存する体制を強化してしまうと、経済の発展に悪影響を及ぼす可能性があります。

こういったことをヨーロッパ諸国やアメリカの過去の事例から学び、手当は最低限にとどめるような政策をしてきたことで効率的な国家政策につなげてきたんです。

シンガポールのユニークな住居政策とは?

シンガポールでは住居不足を改善するためにユニークな政策がとられています。

シンガポール政府は民間の土地へのアクセスを制限し、都市設計の研究結果を踏まえたうえで公共住宅を積極的に建設していきました。
この政策の結果、今では国内の90%の土地を国が所有し、ほとんどの国民が政府所有の住宅施設に暮らしています。

土地の利用制限を設けることで、住宅の数が減り、住居の値段が上がるという理由から、一般的に政府が住居の建設や提供に関与するのは経済学的に良しとされていません。
しかし、シンガポール政府は国有の住居を99年契約で売りに出し、それを買った人々は、99年の契約期間はその住居に住み続けたり、ほかの人に売ったりすることが認められているんですね。

こういった経済の仕組みを国政にうまく取り入れることにより、住居の値段の高騰による貧困格差や非効率な土地の利用を防いでいるわけです。
また、住居費を低くおさえて国民の生活費をおさえることで、賃金の上昇をしなくてすむようになり、これが海外企業の投資やビジネス展開を一層促しているのです。

ちなみに公共交通機関の使用を促すために、S シンガポールでは車の所有に高額な費用がかかるようにも設計されていたりします。

参考: BBC News, Insight Guides, Economics AltSimplified, World Bank Blog, Market Urbanism, The Economist, EHL Insights, NPR, Why Singapore works: five secrets of Singapore’s success by Jon S.T. Quah Anti-Corruption Consultant, Singapore
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[タリバンとアフガニスタンのあいだで何が起きているの?]

紛争の起源

ことの始まりは1979年、ソビエト連邦のAfghanistan(アフガニスタン)侵略です。

ソ連とアフガニスタンは隣国として長い間関係をたもっていて、その影響からアフガニスタンで1978年に社会主義の政府が誕生したんですね。

しかし、アフガニスタンの国民はこれをあまりよく思っておらず、the Mujahideenという軍事組織を組んで、”打倒社会主義政権” として名乗りをあげたんです。

そこで、ソ連軍がアフガニスタンの社会主義政府を守るためにサポートに入るのですが、これは海外諸国にとっては、社会主義が勢力を広げていく脅威だったわけです。
それを抑え込むために、アメリカやパキスタン、アラブ諸国が、the Mujahideenのサポートに回ります。

1989年までこの紛争が続き、ソ連軍は撤退することになります。
ソ連軍が退いたあとも、アフガニスタンの社会主義政府は平和を築こうとするのですが、上手くいかないんですね。the Mujahideenも政治をしていくだけの組織力はなかったんです。

タリバンの誕生

そんな不安定な政治情勢のなか、1996年にthe Mujahideenから派生したTaliban(タリバン)という軍事組織がアフガニスタンの首都Kabulを占拠し、アフガニスタンでの統治を始めます。

パキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦といった国々はTaliban(タリバン)を公式なアフガニスタン政府として認めています。

ちなみに、”Taliban(タリバン)" はアラビア語で "生徒" を意味しています。
ソ連やアメリカがアフガニスタンを舞台に争っていた時、アフガニスタンの人たちは国を追われ、難民キャンプで生活しなくてはいけませんでした。

その中にはもちろん子どもたちもいるわけで、”大事な少年時代にちゃんとした教育をうけることすらできなかった” という不満や憎しみが、アメリカやソ連などに向くわけです。
そういった子どもたちが成長し、”海外からの侵略を防ぎ、アフガニスタンの安定を取り戻す”ためにできたのが Taliban(タリバン)なのです。

Taliban(タリバン)は 別の軍事組織Al-Qaedaに軍事キャンプを提供していたりしていたのですが、Al-Qaedaが2001年の9月11日にアメリカを攻撃したことをうけて、アメリカがアフガニスタンに軍事侵略します。
これによりTaliban(タリバン)の勢力は落ちてしまうんですね。

アメリカの影響力

ところが2003年にアメリカがイラクに軍事侵略をはじめると、アフガニスタンにおけるアメリカの力が弱まります。ここでTaliban(タリバン)が力を取り戻すんですね。

今では Taliban(タリバン)は公式のアフガニスタン政府よりも強い統治力をもっていて、薬物の取引などから資金を確保しています。

アメリカの軍事介入は、アメリカにとっても莫大な費用がかかるうえ、アフガニスタン政府が海外からの援助に頼ってしまい、アフガニスタン国内における統治力を伸ばせない原因にもなるんです。

こういった状況の中で2020年に、
アメリカとTaliban(タリバン)のあいだで、
"2021年の3月までにアメリカ軍はアフガニスタンを完全撤退する代わりに、Taliban(タリバン)は過激な軍事行動をやめ、アフガニスタン政府との平和的な交渉をはじめる” ことが約束されました。

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