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16)「食べ物」から見たゴールデンカムイ

番外編として食べ物を使った表現について書き留めておく。
単行本読了済みであることを前提に執筆している。
当シリーズを最初から読むなら以下のマガジントップから。

【読了まで 14分】


0. 大前提

ゴールデンカムイは狩猟が軸にある。だからこの作品の価値観は「他者の命を取って自分が生き長らえること」を肯定している。

この世は喰うか喰われるかのサバイバルである。
生き延びるためには一人で何もかもやろうとするより群れた方が良い。
動物の群れは生存率を高めるための方法論の一つであり、その延長線に国家というシステムもある。
したがって群れや国家という安全保障コミュニティ内部において、生存や生存率を脅かす行為は禁止。安全保障コミュニティ自体を脅かす行為は厳禁である。

「弱った狼に役割がないから殺した」というのはウイルクの履き違えだ。
彼らは仲間の呻き声が聞こえると場を離れがたく、群れが移動できないと生存に関わるので決断した。あの個体は鳴くことで安全保障コミュニティ自体を脅かしたのだ。役割の有無が問題なのではない。

(※以下、福田里香氏のフード理論の分類を参考にしているが、そのままを当て嵌められる作品ではないし、筆者もそのまま使ってはいない。独自に展開させている。
福田氏に依拠する言い回しは『』を用いて表記する。以下フード理論の用語そのまま『善人』や『悪人』を使うが、この作品は「善悪」を描いてはいないため、あくまで分類上のラベルとなる)

1. 美味しそうに食べる者は『善人』か

『(美味しそうに)食べているキャラは善人』というのがフード理論のいの一番にあるのだが、ゴールデンカムイではこの最初の一歩から蹴つまづく。「同じ釜の飯を食った仲」でも殺し合いに発展してしまう。

一応、同じ釜の飯を食った間柄でトドメは刺してないようだ(谷垣⇒キロランケは微妙)…してないようだが、何らかの外部の介入によって阻まれるだけで、やっちまう気は満々である。
「同じ釜の飯を食った仲」だから「やっちまう気にはどうしてもなれない」のではない。

では、食べても殺し合いに至るなら、真に消化吸収されたか「排泄」を見てみよう。
排泄ネタに関わるのは以下の6人。

  • 杉元

  • アシㇼパ

  • 白石

  • キロランケ

  • 尾形

  • 鯉登

実際に本人がオソマした(と思われる) のは、杉元、アシㇼパ、白石。
彼らは『善人』つまり読者にとって善人「読者を裏切らない者」である。

キロランケは、杉元がどっちした論争には参加するも、樺太で白石のブツを発見した時は不参加。尾形はいる。尾形は白石の尿まみれになった杉元に背負われたため、排泄物に極限まで顔を寄せる事に。
鯉登は杉元に溶かしてもらって助けられる。
尾形と鯉登は入院中に用を足すための器が出てくる。

キロランケは当初「読者を裏切らない者」たちの近くにいたが、樺太で遠ざかり『正体不明者』に。
尾形と鯉登は「悪人ではない者」。

1-B. 仲間たちに『食べさせる者』

他者に飲食物(=) を与えた者も『善人』とされる。見返りを求めずに与える者。
「親鳥が雛に餌を与える」イメージで、糧を自力で得て生きていけるだけでなく、それを他者に与えられる力を持つ者。そのキャラが「親(鳥)」ではない場合「親(鳥) になる準備が出来た者」とも言える。
この項目に該当するのは3人。

  • アシㇼパ

  • インカㇻマッ

  • 尾形

主人公の一人アシㇼパは分かりやすいだろう。彼女は自力で糧を得られる一人前の猟師であり、実年齢よりも遥かに大人である。
樺太編以外では、仲間の胃袋は彼女が主導して支える。
アシㇼパの描かれ方から作中世界における「肯定される生き方」や「大人」が見える。

インカㇻマッは「親(鳥) になる準備が出来た者」だ。
彼女は直接に獲物を狩るのではなく、身に着けた技術で「お金」を稼ぎ、三人分の路銀を支える。
狩猟がテーマの作品であるのに、あえて「お金」なのは、経済のサイクルにしっかり根を下ろした社会人であり、アイヌとも和人とも生きていけることを示す。
天涯孤独で胡散臭い放浪の占い師という表層とは違い、彼女が最も社会人している。
インカㇻマッの描かれ方から見えるのは「社会」や「経済」である。
ちなみに鯉登が樺太に持参したお金は、糧を買っているのではないことと、まだ本人の貯金が多額にあるとは思えず、父親が持たせたものだろうと推察できることから、インカㇻマッとは区別する。

尾形はああ見えて、命を無駄に奪うことがない。
戦闘員と非戦闘員の別は的確で、練習台になってくれた動物もきちんと頂く。
頼まれなくとも獲物を狩って仲間に与え、文句つけられても獲物を与えることはやめない。

そして尾形は、小銃という兵士の仕事道具で、仕事もすれば糧も獲る。
アシㇼパが「狩猟具」で仲間に食べさせるのと、尾形が「武器」で仲間に食べさせるのは別物である。
前者は「作品内世界に生きるキャラ個人」を読者に示すが、後者が示すのはキャラ個人ではない。「外からの脅威と戦う」と「仲間内に食べさせる」が分かち難い一つなら、「安全保障コミュニティ」を暗示する。あるいは「殺す」と「生かす」が分かち難い一つな存在とも言える。
尾形の描かれ方から見えるのは「国家」そして「読者が身を置く現実世界の現在の日本(あるいはそこから登場人物たちを動かしている作者)」である。

国防の仕事は、国民を間接的に食べさせても、直接的に食べさせることは出来ない。そのため創作物において、軍事力(force) は「破壊のみで生産性が無い物」として示されることが多い。直接食べさせられる尾形の描き方は珍しい。

ちなみに樺太編で尾形が猟に積極的なのは、キロランケからの離脱を見越してのことでもある。
逆にアシㇼパの毒矢が鳴りを潜めてしまうのは、北海道では一人前の「大人」でも、樺太では何も知らない無垢な「子供」の状態であるため(毒矢も有坂弾も樺太で補充できないことに変わりはない)。

二瓶⇒谷垣⇒チカパㇱの関係は、確かに食べさせてはいるのだが、三人の疑似父子の閉じた物語であり、食べ物より村田銃の方が意味が重い。そのため意味を重く取らない。
そういう意味ではインカㇻマッも閉じていて、谷垣とチカパㇱにしか食べさせてはいない。
また、谷垣がカネ餅を持っているのは半人前を示す。猟師が真に持っていなければならない食べ物は獲物だが、リハビリ期間中に一頭獲れたきり。つまり谷垣はまだ狩りの往路に居る。

その他は食べ物の原資が不明なので『食べさせる者』とは取らない。例えば牛山のカレーの代金は誰のものか、家永の鍋の"なんこ"は何処から来ているのか…ということ。

杉元の味噌も最初から所持していて来歴は不明。また味噌で腹は膨れない。故に「和人である杉元自身」を表しているかもしれないが「杉元が食べさせている」とは取らない。
ちなみに、アシㇼパが相棒に示す信頼は…
❌「杉元が違うと言うのなら、オソマではないと信じて食べる」
⭕「杉元が美味しいと言うのなら、たとえオソマでも食べる」
…だから彼女は食べられるようになっても「それ」を味噌とは呼ばない。

また、鯉登の差し出す菓子折は、原資は彼の給料だろうがやはり重く取らない。菓子は嗜好品で、生きるのに必要な糧ではなく、部下から上官へは「養う」ではなく「媚を売る」であり、見返りを求めるものだからだ。
見返りを求める典型が、菊田から杉元に奢る定食である。

だが、同じ菓子でもチカパㇱがインカㇻマッにねだるのは、彼女が余裕を持ってチカパㇱを養えていること、チカパㇱがインカㇻマッに対し、年相応に大人に甘えられる良い信頼関係を築けていること、と肯定的に捉えることが出来る。
谷垣のチカパㇱへの対応は違い、ファーストコンタクトで自身の猟を手伝うよう提案した。こちらは子供扱いしない対等な関係である。
異性の親と同性の親に求められるものの違いと言ったところか。

従って、猟に参加する意思に乏しい白石は、他者に食べさせたり、安全を保障してあげられたりする立場に縁遠く、本質的には「王」になるとは考え難い。
同様に、既存の国家に成り代わって国民に食べさせる術を考えていたはずの、ウイルク、キロランケ、ソフィア、土方、鶴見、いずれも「自ら糧を得て他者に食べさせる」シーンがない。
彼らは「アイヌの金塊」という他人の金を当てにしていた。
それに対して『食べさせる者』として挙げた三人は金塊に興味を示さなかった。そう発言している台詞もある。

大口叩いて国家に成り代わろうとしても、手の届く範囲の者にすら食べさせられないのであれば「子供」「放浪の占い師」「一介の兵士」に及ばない…というのが、食べ物から見たこの世界の構造のほぼ全てである。
第9回の通り「夢は夢のまま射止められずに終わる」のだ。

2. 食べ物と縁遠い『正体不明者』

物語上、正体が分からず不気味な者は、食べ物に絡む場面が巧妙に回避されていたり素直ではなかったりする。その手っ取り早い表現が「食べない」ではあるが、この作品ではみんな良く食べる。
この項目に該当するのは以下。

  • キロランケ

  • ウイルク

  • 尾形

  • 月島

キロランケは初登場の時、獲った魚を分けてくれなかった。白石もタダでもらう気はなく、きちんと対価を払うつもりだったのに…である。以前、酒を持ってきた白石と鹿を獲ってきた杉元/アシㇼパとの間で、持ち寄りパーティが成立したのとは対照的である。
「道具を貸す」ことで巧妙に回避し、直後に食事を共にするものの、この初登場のエピソードで単に「父の友人」なだけではないと仄めかされている。
この後も、他の者と共同なら漁/猟をするが、キロランケ一人が原資の食べ物は提供されない。
ちなみに白石の持っている飴と酒は嗜好品であって糧ではないため「食べさせる」とは見なさない。

ウイルクも猟師を生業なりわいに子育てしているはずなのだが、自身が原資の食べ物は提供されない。
こちらは猟のシーンにおいて「娘に狩りをさせようとして身を隠す」ことで巧妙に回避している。

二人とも、本来なら子育て真っ最中の現役の「親(鳥)」である。
対して『食べさせる者』の三人はまだ親ではない(インカㇻマッは途中で親になる)。

尾形は食べてはいるが素直ではない。
どんなに促されても、頑なに「チタタㇷ゚」も「ヒンナ」も言わない。「美味しい」とも「美味しくない」とも言わない。逆に、鶴の鍋に顔もしかめず文句も言わなかったのは尾形だけとも言える。
またキロランケが他の者と一緒でなければ漁/猟をしないのと同じく、尾形も他の者がいなければ積極的に食べることはない。尾形が唯一、能動的に口に運ぶのは「雪」である。

月島は食べ物に絡む表現から遠ざけられている。
それは鯉登少年の誘拐エピソードではっきりしている。鯉登少年に水やあんパンを与えるのが、生涯の右腕となる月島ではなく、尾形になっている。
あんパンの原資は尾形ではないので、尾形が行為として食べさせていても『食べさせる者』にカウントしない。これはそのキャラの表現手段として、食べ物アリが尾形、ナシが月島と分かれていることによる。

月島はチカパㇱに訊かれるまで「フクースナ(美味しい)」とは出て来ず、また家出娘の話を聞いた後、ただ一人、消化に悪そうな「怒り」に支配されてしまう。
「いごねり」の話も本質は髪の毛で食べ物ではない(尾形のあんこう鍋は良くも悪くも食べるエピソードである)。
月島が鯉登と信頼を築きつつあることを示すのも、本気で興じるメンコ遊びで食べ物ではない。

ちなみにあの月寒あんパンは傷んではいない。ロシア人が供するの不自然だから一芝居打っているだけだ(鯉登少年はお腹を壊さないし、ロシア語で言っても鯉登少年には伝わらないことに留意)。
むしろ鶴見の甘事が嘘だと分かっていてそれを飲み込まざるを得ない月島こそ「消費期限切れあんパンを食べさせられている状態」にある。
「鶴見のあんパン(比喩)」以外のものを食べない限り、他に比べるものがない限り「期限切れ」から目を逸らすことが出来る。他の物を食べて「期限切れ」を否定できなくなるのを避けるため、月島は食べ物から距離を取る。
故に、鯉登が顔の上に置いたモスに対して「食べようとする意思を見せる」のは興味深い。今は上手くいかなくても、いずれ鯉登は自身が原資の食べ物を「食べさせられる」ようになるのだろうし、月島もそれを美味しく頂ける日が来るだろう。

2-B. 血肉にならない『悪食』

『正体不明者』を「食べない」以外で表現するなら『悪食あくじき』という手がある。

  • 尾形

  • 鶴見

  • 杉元

尾形が能動的に口に運ぶ唯一の物が身体を冷やすだけの「雪」というのがそうである。
もう一つ、杉元の「形見」の味噌を食べて初めて「ヒンナ」と言うのもそうだ。その味噌を形見にしたのは尾形であり、そのことを目の前のアシㇼパに黙っている状況で言う。素直に生理的嫌悪感を抱いた方が良い場面だ。

鶴見は嗜好品である菓子しか食べない。

杉元は名前を与えたシマエナガとの友情を裏切って喰らう。

また『悪食あくじき』の字面に相応しい家永ではあるが、家永は囚人であることが明らかな存在であり、物語上の『正体不明者』ではない。

3. 食に関するヤバいやつ『悪人』

食べ物を粗末に扱う者をフード理論では『悪人』とカテゴライズする。この作品においては「命を無駄にする者」や「信頼できない食べ物」である。

  • 尾形

  • 鶴見

  • 杉元

とは言え、尾形は命を無駄にはしていない。ここで言いたいのは母へのスペシャル鍋のことである。
読者も杉元/アシㇼパと共にヤマシギをご馳走になった気持ちになった後で知らされるのだから「食べちゃったけど大丈夫だろうか」と吐き気を催す。
むしろ母の方が息子の獲ってきた命を無駄にしてしまっただろう。一方、母は息子の苦手な食材を除いてあげてもいる。尾形周りは「好ましいもの」と「好ましくないもの」が混然一体で分かち難い状態にあることが目立つ。

鶴見は初っ端から主人公杉元を串刺しにする。
また「好物が和菓子で、苦手なのが酒」設定は、彼の過去が明らかになると笑えなくなる。
「和菓子」限定ということは、外国の菓子は除外される。当時のロシアの甘味といえば蜂蜜。ウォッカも美味しくは戴けなかっただろう。
連載時の177話にあったロシア語台詞の「ペチカ(オーブン) で保温中の晩ごはん」は(話が繋がらなかったために)単行本では変更されて食に関する台詞ではなくなった(第14回を参照)。
日本のオーブン料理は舶来文化の域を出ず、独自に発展することはなかった。乱暴に言えば和食にオーブン料理はない。
鶴見は妻を愛せても、妻の故郷は愛せなかった。受け入れ難く飲み下すことが出来ないものだったわけだ。

そして真打、杉元である。
物語冒頭でいきなり蟻の命が無駄になる。
名前を与えたシマエナガも、食してすぐアシㇼパに合流できたのだから命を奪う必要はなかったと分かる。

また杉元の供する食べ物は非常に危険である。
ニリンソウと間違えてトリカブトを採る。
殺人の道具とチタタㇷ゚の道具が兼用。同じ銃剣である。
これは尾形の「同じ道具で殺人もすれば糧も獲る」のとは別物。ヒトーヒト感染の感染症が怖いからだ。人間の血や内臓に触れた刃物で調理したものを生で食べるのはさすがに無理である。
杉元の供するものは「食べると死ぬ」と素直に生理的嫌悪感を抱いた方が良い。
銃による猟であれば少なくとも銃が感染症を媒介することはない。

これらの表現は杉元がまだ自力で餌を獲れない半人前の者であることを示す。杉元は「巣立ちしたもののまだ飛ぶのも餌を獲るのもおぼつかない若鳥」である。
また過剰殺傷をコントロールできない状態も示す。
猟のアシスタントや食レポーターとしては優秀である。

4. 不問に帰す『憎めないヤツ』

大切にしてるとは言い難くても、粗末にしてるとまでは言い難い、他愛もないギャグ程度なら『憎めないヤツ』くらいに受け止める。

  • 鯉登

  • キラウㇱ

  • 白石

鯉登の、杉元にコケモモのワインを引っ掛けたり、仲間が遭難して凍えている間、一足先に温かい紅茶を頂いていたり、モスを月島の顔面に乗せたっきりにしたり…がこの項目に当て嵌まる。「幼さ」、つまり若鳥より若い「幼鳥」である。

ちなみに引っ掛けられた若鳥杉元も応戦するが、こちらはコケモモのワインはきちんと飲み干し、無駄にすることは無い。
そしてこの騒動から「コケモモの塩漬けを食べた」アシㇼパの足取りがつかめるため、コケモモのワインをお酒という嗜好品ではなく「コケモモの加工品」という食べ物として捉える。

余談になるが、ワインを表現の小道具として使う場合は、嗜好品やお酒の持つ負の側面としてより、文化的背景や肯定的な意味で使われることが多い(宗教的背景/大地の恵み/食べ物と切り離せない食中酒/恋人の家を訪れる際に持っていく…等)。
今回の場合も、杉元と鯉登はワインでは酔わず、より度数の低いビールで酩酊する。

キラウㇱは「食欲の失せる」ことをする。

白石は猟では「役立たず」である。
とことん役に立たないなら、「ニリンソウと間違えてトリカブトを採る」役は白石に任せ、杉元はアシㇼパの優秀なアシスタントに徹してもらっても良さそうなものだが…そうしないのは、本質的に白石はギャグで済む程度で他者を傷つける存在ではなく、杉元はそのパワーをコントロールできず他者を傷つける可能性のある存在だからだ。「間違えてトリカブト」は洒落にならない。


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