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新しい宗教を創ろう♯3

 新しい宗教を創ろう♯3
 または『月はどっちに出ている』

 仏教語彙である薄伽梵(梵語bhagavat:バガヴァット)は経典を扱う際に世尊とも訳し、ばぎゃぼん、ばがぼんなどと発声することもある。天才バカボンの由来はこの薄伽梵という説もあるけれど、だとするとなんと、釈迦! ブッダである。私達が子供の頃から慣れ親しんできたあのバカボンは、じつは仏の一族だったのだ。

「西から昇ったお日様が東へ沈む」

 この名曲『天才バカボン』の作詞は“東京ムービー企画部”。てっきり赤塚不二夫によるものとばかり思っていた。いずれにしろ、この詞はとても面白い。
 敢えて仏教的に解釈すると、西から昇ったお日様が東へ沈むことは、インド発祥のブッディズムが中国という昼間を経て仏教国としての日本を建築したと捉えることも出来る。

 私の解釈では、ゴータマ・シッダールタという一個人は当然、唯一たった独り。けれど、ブッダのように仏に成れる者は幾らでも在る。日本仏教の最大の長所は、唯一神では無いところだ(神道とは違う意味で)。ブッダをイェスのように崇めてしまったら、大乗仏教の存在理由は消失する。たとえば宗教を、繁華街の雑居ビルの、誰でも気軽に入れて笑って楽しめるハイボールが手頃な呑み屋、そんな感覚で楽しむことは許されないのだろうか?
 眉間にしわを寄せ、世相を憐れむ。それが宗教の本来あるべき姿なのか?
 他者を「邪教」と呼び排斥する、そもそもそれは人間の関係性において正しいのか?

 三島由紀夫の命日も過ぎたので、それっぽい話を。

 天皇についてさほど関心は無いけれど、写真付きカレンダーとか買っちゃう熱心なファンや、そういったミーハーではなくきちんとした尊敬を捧げている方々を含め批判する気にはならない。この日本国において、戦後天皇は世界平和の象徴だからだ。国家最高の崇意の対象(とされている存在)が、政治について発言しない。この異常性が突発的に産まれたのは、本土に対する恐ろしいほど広範囲の空爆や原爆投下などを経過しての、米国による占領という敗戦の悲惨からだった。けれど当時の血だらけの日本を、単なる敗北ではなく未来へ繋がる平和に転換した。様々な関係性によって成立したにしろ、というかそれだけに、こんな奇跡的な事象があるだろうか?  
 奇跡を奇跡として受け取れず、道理に合わないからと潰してしまうのなら、それは虹の光が理解できないからと自分の眼を潰してしまうようなものだ。

 あるアンケートによると、米国人の多くはヒロシマ・ナガサキへの原爆投下を肯定的に考えているという。
 空襲も原爆も、あの火で焼き殺されたのは、被爆して細胞を破壊されながら地獄の苦しみへ死んでいったのは兵士ではない、一般人だ。普通の家庭の普通の母親、普通の少年、少女。家族のために毎日働いていた普通の父親。そうして、普通の赤ん坊。幼い子供が焼き殺される場面を想像できるだろうか? そんな怖ろしいこと、死んでいった彼らのことをなにひとつ悼めないなんて、ほとんどの米国人なら勿論そんなわけは無い。そのアンケート結果は、戦争という政治的行為への、自身の属する国家を基幹としたイデオロギーの表明なのだろうと思う。
 けれど戦時、日本人のこどもは米国人のこどもを殺したのだろうか? もしそうならば復讐する理由は解る。もしかしたら何件かはあったのかもしれない。けれどそのこどもは、焼夷弾で焼き殺されたこどもだったのだろうか。イデオロギーに従って実際に人を殺した兵士だったのだろうか。そもそもその子は、イデオロギーを保有できるほどの年齢だったのか?
 アンケートに書き込みながら考えていたのは自身の思想信条かもしれないし、それは必要なことだ。けれど、あの日、あの時、唐突に殺された一般市民にとって、未来の私達の言葉など何の役にも立たない。
 これが宗教の問題でもなく、政治の問題でもないとしたらどうだろう?
 “無差別殺人”を肯定するかどうか、その者の人格が問題になる。

 少し昔の話だけれど、ホワイトハウスのすぐ外で、コーランを燃やした人々がいる。他者が信奉する宗教の、その聖典を燃やす。あまりにも敬意に欠けているし、思想を語る人間のする行為ではない。もしまったき怒りによって衝動的にやってしまったのならば気持ちはわかる、と言ってあげたいところだが、もしほんとうの国粋主義者であるならば他国の聖典や国旗を燃やすなんてことは実際にはしないだろう。自身の属する国家の品位を落とすからだ。するべきでないことを、その立場に無いやつらがした、というだけのこと。

 焚書(ふんしょ)運動はアメリカでも日本でも、ひとつの常識しか知らない人々によって行われた。手塚治虫の漫画でさえ、焚書運動の際には燃やされた。手塚治虫を燃やす? 今の感覚では理解出来ない。そして芸術は時代を超える。つまり、作品の芸術性をまったく理解できない方々が、子ども達を育てるための名作を燃やしたのだ。まぁ、するべきでないことを、その立場に無いやつらがした、というだけのこと。

追記:崔洋一が亡くなった。
あの人の監督作はほんの数本しか観ていないけれど『刑務所の中』がとっても面白かった。銃砲刀剣所持等取締法の関係で刑務所に入ってしまった男(山崎努)が、日々の食事を楽しんだり映画鑑賞会で『キッズ・リターン』を観たり、とにかく手触りの優しい映画だった。それぞれの房には便所がついているのだけれど、わざわざ看守に頼んで「用便、願います!」と言わないと紙がもらえないとか、そういった小さなことがなんだか可愛らしく描かれている。老齢の男性がただただ刑務所の中を苦しみ楽しむという、それだけのことでさえ、映画造りのプロが集まれば2時間のエンタテイメントになってしまう。

 もしも“あの世”があるのなら、私は好きな映画監督のいるほうへ行ってみたい。地獄なら地獄で彼らは撮影を始めるだろう。天国なら天国で彼らは撮影を始めるだろう。そうしてそこには、歴代の名俳優がたくさんいて、私も役者として参加できる。なぜならばあの世には、時間の制限なんて無いからだ!

 死んだら会ってみたい人、あなたにはいませんか?


 

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