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不確定の未来はあくまで可能性であり、確たる根拠ではない。

 前回の記事を読んでいない方は、こちらをまずご覧いただけると分かりやすいです。

 また、今回の記事は、下記の記事を参考にして書かれています。

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 「特定の問題・事象についての専門家の立場・見解を引用して提示する際には、その専門家の立場・意見が主流派か否か、その問題を巡っては専門家の間で意見の一致や概ねの統一見解があるのか否かを確認する必要がある」

 「もし大半の意見が一致していれば問題なく受け入れられる見解であり、それに反対する意見はいくら説得力があるように思えても実は浅慮と言っていいだろう」

 「専門家の大半が採っている立場や見解にはかなりの説得力があると思ってよいだろう」

 前回の記事において上記のようなことを述べた。

 しかし、「その道の権威とされる専門家の間では実質的に不一致が無いにもかかわらず、論争が作り上げられている場合がある」(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p73~p75)のだ。

 例えば、世界的な気候変動に対してはイデオロギー的な「非人為論」や「そもそも気候変動など起こっていない」というような反対意見が投げかけられている。

 このような反対意見はインターネットやマスメディア、ひいては政治の場でも頻繁に取り沙汰される。

 しかし、「現在では、気候が地球規模で変化しており人間活動がそれに一役買っているという考えは気候科学者たちの間では、異論はまずない」(参考元は同上)。

 先述の通り、専門家の大半が採っている立場や見解にはかなりの説得力があるのだ。このような統一見解(主流派)から外れた立場や見解は、主流から外れているなりの説得力の乏しさがあると考えた方が良い。

 このことに対して、次のように反論する者があるかもしれない。

 「しかし、科学においては非主流派から主流派になる見解もあるではないか。例えば地動説とか。今、主流派から外れているといって、それを一概に説得力が乏しいと言うのは間違っている」と。

 たしかに、科学という世界においては非主流派が主流派になったり、非主流だった見解が常識になったりする。長らく信じられていた天動説を覆した地動説が良い例である。

 発明や発見とは常識を崩すことであるとも言えるかもしれない。しかし、常識を崩すほどの大発明や大発見は一朝一夕では成らない。

 例えば、ピタゴラスやアリスタルコスからコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンという系譜が物語っているように、地動説の主流化には途方もない歳月を要した。

 我々は未来人ではないので、どのような見解が、未来の常識・主流派の地位を占めることになるのかを知らない。それゆえ、現代人は現在の形勢に依拠することでしか議論できないのだ。たとえ、今では非主流派に甘んじている見解が未来において主流派の地位を占めることになるとしても。

 どの時代においても人は、今ある条件や今置かれている状況に依拠して考えたり議論したりするしかない。

 未来人から言わせれば「過去の遺物」的な誤った前提に則って議論をしていることもあるのだろう。そうだとしても、我々現代人がしている議論は誤りではない。これを誤りと評すのは結果論でしかない。なので、我々も天動説に基づいて為された過去の議論を否定してはならない。

 というか、そもそも、「かもしれない」という不確定の未来は根拠にならない。勿論、未来について考えることは議論の目的の一つである。しかし、未来のことは誰にも分からないので、「未来では~かもしれない」という可能性の話は根拠にならない。未来について考えるべきではあるが、未来そのものは根拠足り得ないのだ。

 私は、非主流派を軽視すべきだと言っているわけではない。それこそ、後の大発明や大発見の芽を摘まないようにするためにも、非主流派の見解を安直に否定せず、その見解の良いところをしっかりと認めなければならない。

 主流派だからといって全てが正しいわけではないし、非主流派だからといって全てが正しくないわけではない。

 主流を外れている見解であっても、自分で考えてみて説得力や妥当性を感じるのであれば、それは未だ日の目を見ていない潜在的に有力な見解であるかもしれないし、金銭的(助成金や研究費など)・イデオロギー的(国家体制や固定観念など)・政治的(学校や学会から地方、国家、国際政治など)な理由で主流から遠ざけられている不遇の見解であるかもしれない。これらの見解を発掘することもまた議論の大きな目的である。


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