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「宙吊り」の可能性

摂食障害真っ盛りの頃の私は、食べたもの、体重、体脂肪を毎日記録し、感じたことをとにかく手帳やスケッチブックに書き込んでいた。
当時の私は、書かないと忘れてしまう、なかったことになってしまうということにひどく怯え、自分が生きているという証をできる限り残した。当時のブログのタイトルも「証」だったはずだ。
「消えてしまいたい」、「物体として存在したくない」と思い、極限まで身体を軽くしようとしているくせに、「ここにいる」、「生きている」ということを叫び続けていた。
今はどうかというと、日常生活を優先し、体重や体脂肪を測ってさえいない。長年の摂食障害が功をなし(?)、勘で、今自分がどの程度なのか把握できるようになったのである。
「あ、やばいかも、太いかも」と、浮腫や身体の重さで感じるときももちろんある。しかし、答え合わせはしない。

私の中でこの答え合わせをしないという行為は、ネガティブ・ケイパビリティの実践でもある。
ネガティブ・ケイパビリティとは、周知の通り、物事の真実や理由、正解を早急に求めずに、不確かさの中に留まる力のことを指す(詳しくは帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えのでない事態に耐える力』朝日深部bb出版、2017年を参照されたい)。
この在り方の重要性が叫ばれ始めて久しい。いくつかの人文書でこの在り方が引用、応用されている。
その理由に、コロナ禍があるだろう。

コロナ禍において、私たちはなんだか分からない感染症とどうにか折り合いをつけなければならなくなった。
早急に真実や理由や正解を求める在り方では、あの日々はとても乗り切れるものではなかった。
デマに流され、陰謀論を信じた人々は、正解と真実に速く辿りつきたかったのだろう。私には、彼らの心の動きがよくわかる。

脅迫的だった頃、私は友人や先生方からメールの返信が来ないだけで発狂しそうになり、不安になり、なんなら自傷行為に走っていた。
テストの点数が出るまでの期間は、生きた心地がしなかった。常に体重が気になり、一日に何度も体重計に乗り、この体重になったのはあれを食べた直後だからと原因を明確にしていた。
そして、このような病的と言える特性は、緩和したとはいえ、ゼロになってはいない。

今も、返事や結果を待つことが非常に苦手である。この、待つというネガティブな状態を、「宙吊り」の状態と言い換えることもできるだろう。

「宙吊り」、この語は、私が長年少女を研究してきて重要であると感じているキーワードである。詳細は、いつか出版されるであろう(そう願っている…)書籍に記述するが、少女は、社会的に「宙吊り」の存在である。
年齢的に少女だった頃、私は、その社会的に「宙吊り」である状態を特別愛すると同時に、生活の中で発生する「宙吊り」には耐えられないほどの苦痛をおぼえた。
曖昧な関係性、白黒つかない状態、それらを直視すればするほど、私は自分が嫌いになった。

近年、私はぼんやりと、「宙吊り」「曖昧さ」「境界性」の可能性を感じている。まだ的確に記述できる段階ではないが、のんびりと観察していたい。
「なんとなく」の身体感覚を頼りに、数値の正解がわからない状態と折り合いをつけるということは、摂食障害真っただ中の私を踏まえれば、ネガティブ・ケイパビリティの実践そのものである。
そしてまた、ネガティブ・ケイパビリティを「宙吊り」と関連する事項と捉えるならば、「なんとなく」の身体感覚を頼りに生活することは、その可能性を探る実践ともなる。

全てを文字で記録しなくとも、身体が記憶していることがある。
数字で示さなくとも、掴める身体性がある。
これらが何かしらの希望を見出す糸口になればいいな。


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