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「個性を生かす」が私にとって難問だった話

最近、通学の時間にポッドキャストを聞いています。

「通学って時間の無駄だな」と私はずっと考えていたのですが、ポッドキャストに出会ってからは「通学の時間以外、ポッドキャストを聴けないから、通学はあって良かった」と考え方が180度変わりました。

大学に行けば授業や友だちと話をしますし、家に帰れば家族との時間があります。するとポッドキャストが聴けるのは、消去法として通学の時間帯くらいしかないのです。

そういう訳で、ポッドキャストを聞いているのですが、ここ数週間のお気に入りは伊藤穣一さんの「変革への道」です。

伊藤穣一さんはデジタルガレージの取締役でもあり、元MITラボの所長でもあります。英語がペラペラで、日本語よりも上手いようです(日本語は話せますが、読み書きは苦手とのこと)。

そんな伊藤穣一さんが喋るのは、web3やNFTの話。なかなか怪しく聞こえるトピックについて、真面目に前向きな話をしてくれます。web3やNFTの基礎知識を学ぶための手段としては最適だと感じています。

そんなポッドキャストのストーリーの中の一つで、日本の教育や多様性について話す回があります。

日本の教育は高度経済成長期に画一的な人間を量産するのには役に立った。それは大量生産・大量消費の時代だったので、とにかく同じ質のものを商品と同じように人も作る必要があった。
でも、今は時代が変わった。一人ひとりが個性を生かす時代になっている。それにも関わらず、大量生産・大量消費時代の教育が残ったままだ。

ポッドキャストより(要約しているので正確ではありません)

その通りだと思いました。高度経済成長期を生きた私の両親の時代とは変わっているけれど、教育は画一的で変化がないという点は、私自身も実体験として感じてきた部分です。

特に東京のような都会ではない場所で育ち、公務員の両親に育てられた私は、なおさら感じます。

でも、ふと思うのです。「教育として個性を生かして生きる方法を学ばなかった私は、これからどうやって生きればいいの?」と。

画一的というのは、形が決まっていたという事。型にはまっていれば、ある意味安心で、安定だった訳です。

でも、私は(私たちは)型を(途中で!)外されてしまって、その中で生きないといけない。「好きに生きていいよ!」と言われて嬉しい反面、世界が広すぎて、何をしたらいいのか分からなくて困ってしまう。そういう世代なのだと思うのです。

大学の友だちでも、都会育ちの人の方が、上手く生きている感じがします。たぶん東京にしかない個性を生かした文化に幼い頃から触れているからなのでしょう。ナチュラルに個性を生かせる世代なんだと思います。

一方、田舎育ちで画一的な教育をバッチリ受けてきた私は「個性を生かすって何?」と考えすぎて手が止まってしまうのです。

Twitterやnoteを始めたみたのは、とりあえず手を動かして個性を探ろうと思ったからです。決算書を読み始めたのも、面白そうだと思ったので手を動かして個性を探ろうと思ったからです。

個性を見つけている人は羨ましい。それが私が思う本音です。

今の私に出来る事は、私の個性を見つける事。それを興味のある方向で手を動かすという方法で達成していこうと思います。

私の個性を見つける道は、まだ始まったばかりです。


おしまい。


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