成果に囚われず、納得した出来ることをする


書こうと思った動機


私はいくつかの悩みを抱えています。それらが自分の実力の無さを感じさせ、行動に移すことを遠ざからせます。
・思い立って準備や勉強はするけど、行動を起こすことは出来ない
思い立って準備や勉強はやるのだけれど、どこまでも勉強をしてしまって、行動に移れないし、そこで思う事として「行動を起こしたらきっとこんなことがあったり、あんな失敗をして否定されるんだろうな」と思ってしまい実行できない。
・自分が考えたことが的外れなことが多い
今までアルバイトをやってきたりしたが、そこで誰かに自分の意見を勇気を振り絞って伝えるが「それはもう解決していて・・・」とか「ちょっと違う気がする」とかで話しの流れをうまく捉えられない人間なんだという自己認識をしていて発言するのが出来なくなってる。
・疲れやすかったり、ストレスが溜まりやすい
ストレスが溜まると、誰かの話を聴いたり、逆に誰かに頼みごとをするのが辛くなってきます。目標への道のりも遠く感じやる気が無くなっていく負の連鎖も始まります。

こうしたことは全て”成果”を出すということで解決できると考えていました。
行動を起こすのが怖いのも、自分に実力があって成果を出せるなら怖くなくなるだろうし、成果が出せる人は的外れなことをあまり言わないのだろうし、成果が出るのだからストレスもたまらないし、疲れは心地の良いものになるのだろうと考えるからです。

成果主義の問題点

しかし、成果を出せることを前提に何かに取り組むというのは継続が非常に難しいのです。

例えば、体力が欲しいと思い毎日5㎞のランニングをするとします。
私の体力は学生時代に運動部に入り体を動かしていて、数年のブランクがあるという前提にしましょう。
ここでの成果は”毎日5㎞を完走する”ということです。
実際初めてみると初日はアドレナリンが出てなのか5㎞を走ることが出来るかもしれません。しかし初日から1日、2日と何度も走るうちに、初日から積み重なった疲労が出て来て、初日とは条件が変わってきます。加えて、ランニングという行為自体の単調さに飽きたりしてくるかもしれません。初日は音楽にテンションを爆上げだったかもしれませんが、2日もやれば段々慣れてきます。
このように、初日のテンションは日が経つにつれて維持するのは難しくなるでしょう。5㎞も力がついて短く感じるどころか、日に日に長く感じるかもしれません。
5㎞という成果を掲げた以上毎日達成したいと思うのですが、1週間経ったころには「今日も5㎞かぁ・・(嫌だなあ)」と成果を出すことがしんどいと感じると思います。

成果主義で挑戦してみると、”成果を出せない”と考えてしまいやる気がなくなってしまうのです。

成果主義を捉えなおす。他人にとっての成果主義→自分にとっての成果主義へ


ランニングの例では5㎞が日に日にしんどくなり、1週間するともう5㎞を達成することは出来ないと考えて続かなくなるという話でした。
では、どのようにしたら改善できるか。
初日の自分の目標は確かに5㎞を走りたいと思っていた自分にとっての成果だったと思います。体も心も5㎞を達成する気満々でした。
しかし2日目の自分、3日目の自分はどうでしょうか。1日目の自分が達成した5㎞とは、最初にあったアドレナリンの減少、疲労の蓄積、同じ距離をまた走ることへの飽きなどで条件が違ってきてしまっています。
2日目以降の5㎞のランニングという行動は、言い換えると、2日目の自分に対して1日目までの自分が課したトレーニングをやらされている状態ともいえるのではないでしょうか。
1日目の自分は明らかに好条件の中走っていましたが、2日目は大分悪条件の中走るので、同じ5㎞も全くの別メニューになっていくと思うのです。
他人が作った成果を熟すというのは、目標の成績に向かって働かされるようなものではないでしょうか。営業の仕事でノルマを与えられ、達成してないとまだ出来てないのと催促されるとか、スーパーの仕事で「これバーコード読み取って在庫の数出しといて」と言われるが使い方がまだ覚えられてなくて「まだ覚えてないのかよ」と詰めらるのが続いたりしたら、きっと仕事のストレスが溜まると思います。
他人が認める成果を出すというのは、何も与えられているから目指すものだけでなく、自分で何かをやる時にも作られます。例えば歌手になったとして、路上で100人集まるようなライブをやりたいというのは100人という数を自分で決めるというよりは100人も集まるライブが出来れば誰かが認めてくれて声が掛かるんじゃないかという気持ちからも作られると思うのです。もし他人に認められるために100人という設定をしているのだとすれば、1人も立ち止まってくれない現実を見せられた時続けて行く気力を保つのが厳しくなるかもしれませんよね。
いくつか例を挙げましたが、他人につくられた成果を目指して、それを達成するというのは非常に厳しいものだと思うのです。

そこで私は、他人にとっての成果 から、 自分にとっての成果に変えることが必要だと感じたのです。
今までの例は全て他人にとっての成果の達成を考えていました。言い換えると、他人が認めてくれるラインを目指していたという事になります。それだときついのです。
それならば、”自分にとっての成果”なら続けられるのではないでしょうか。
ランニングならば、1日目の自分の目標が5㎞だったけれど、1日目の条件と、2日目の条件が全く違う事を考慮し、2日目の自分にとって適切な目標を立てるのです。1日1日変わっていく自分が達成できる成果を自分基準で建てて行くということになります。これを自分が納得できる結果とします。
納得できる結果を目指すだけなら毎日気持ちよく過ごせるのです。
しかし、これがランニングでなく、仕事になったらというのが今回のタイトルである”納得できれば自分は満足できるが、他人に成果と認められない”という事に繋がってきます。

納得できれば自分は満足できるが、他人に成果と認められない


今回のテーマは、納得できる目標を1日ごとに設定することで気持ちよく行動に移れるはずだが、他人が関わってくると自分が納得できる目標では他人が喜ばない。あるいは、他人が認めてくれない。それはどう乗り越えるかという話になってくる。
ここまで考えていて思ったのが、他人に認めてもらおうというのと同時に、自分もその行動に納得できることを目指しているのだが、これは難しいのではないかという事だ。
他人に認められようとすれば、そのために他人に合わせることをしなければならず、自分が納得しようと思えば、自分が気持ち良い方向へ行かなければいけないのだが、他人に合わせることと、自分が気持ち良くなることが同じベクトルで同じかそれ以上のエネルギーを必要とするものである可能性というのはかなり難しいのだと思う。
他人と自分の目標設定を同じにするのが難しいのならば、他人に認められることを前提として成果を出そうとすることは諦めなければいけない。そして自分が納得すること、気持ち良くなろうとすることを目指すならば、成果が出せないことが多いという前提条件を踏まえて考える必要が出てくる。
よって、他人に成果を求められている状況で、自分の出来ることというのは他人の指定した成果を出すことではないと考えてもいいのではないだろうか。
そして成果というものの定義を”他人が認めてくれる成果”というものではなく”自分が納得の行くことこそが、本当の成果”と定義しなおそうと思ったのだ。
そんなこと社会で通じないかもしれないが、通じないのが普通でいいのではないだろうか。
自分なりにやってみて、上手く出来なくて、その社会に必要とされないのなら、それはそれで仕方のないことなのだと思う。
そして、”自分が納得の行くことこそが、本当の成果”という事に基づいて、新たな成果基準を設けて、自分が納得行く=気持ちよくなれることを追求し目標を定め、それを達成することが成果だと自分の中で思っていればいいのだ。
もちろん、これでは”他人に認められる意味での成果”という最初に定義していた成果は出すことが出来ないので、自分にとって大満足の成果なのだが、他人にとっては今一つであり続けることになる。
しかし、それでよいのだ。
そして、自分が「これが自分にとっては成果だ!」と思ったところで相手も「これが自分にとって成果だ!」と思ってくれる環境に巡り合うまで、あくまでも自分の成果に照準を合わせて転々と挑戦し続け、環境を変えていくのがこれからやっていくことなのかもしれない。

※途中で、他人軸と自分軸を書いたグラフを使用して考えました。
※今回導いた理屈を更にasanaを使って1日の予定を俯瞰して見ることなど、人それぞれアレンジして使うことで行動力を上げて行くのに使えればと思う。
※今回の記事を書いていて思ったが、1日目はアドレナリンが出たり、新鮮さがあって、2日目はアドレナリンも減るし、飽きが来る。1日目と2日目の条件って全然違う。これは他のことにも当てはまるのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?