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筋トレの意義とは。

社会的不安は突然に

突然虚無感に襲われた。
原因として思い当たるのは現在抱える数々のタスクによるオーバーフロー、終わりの見えない恐怖、モンストをすることの無意味さ。
すべての要因は複合していて根本的な原因足り得ない。
運極にして何の意味があるのか。
クエストをクリアするまでは良い。運極にする意味はない。学がない箔が付いていないで初めた資格試験や、春から入学した通信大学。進まないのレポート。決まらない仕様と無理なスケジュール、後手後手の対応と、仕様変更で無駄にかさむ手戻り。ああ、なんとうまくいかないことだろう。

ジム筋トレ中にパンク仕掛けたので、こんな情けない話をつらつらと書き並べてしまった。インプットばかりでアウトプットができていないからか。とにかく吐き出したい気持ちに襲われた。
こういう時はnoteだ。勇足で筆をとることにする。とにかくTwitterで呟きづらく、ブログにも載せられないことを書くにはここがちょうど良い。(個人の意見です)

ロジック疲れ

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この虚無感を処理しなければならないという思いに駆られてしまった。俺はレポートを書いていた時に起こった。レポートを書くのはそんなに嫌いじゃない節があった。ロジックに沿って組み立てていく過程、うまくまとめられたときは達成感がある。しかし、課題へのレスポンスという点では裏付けは取るべきであろうし、慣れない論文の記述形式にも慣れる必要があった。中でも頭を悩ませたのは引用の難しさだ。引用をすることで文が崩れるように思えてならない。ここを引用しましたよ、ということを書くことは必須であるから、その思考において一旦文脈を断ち切るような気がしてしまって、いちいち差し込むという事に対して苦手意識を持ってしまう。文の接続が悪くなってしまう気がして具合が悪い。自分の文章に自信があるわけではないから、気持ち的には全て引用したい気持ちにすらなってしまう。しかし、それを認めることはレポートを評価する人間にとっては譲れない。引用による裏付けは最小限に、ただし、一つも入れないのはナンセンスである。引用するとそれに話題を絞られるし、そこから発展する話題については引用箇所があっでもやはり明示的に引用したと示すべきか、暗黙的にしれっと挿入するか悩ましくなる。要は余計なしこうが混じってしまうことで、議論が中断してしまうのだ。これは相当具合が悪い。なぜなら裏を返せば、最初に引用すべき箇所を決めずに議論を始めてしまっている点にあることだ。これをやってしまうと行き当たりばったりの五月雨納品のようなつぎはぎだらけのレポートができてしまう。最後に自分がどこを引用したのか見失ってしまうことになる。まあ色々と述べたがレポートはロジックが命であり、様々な制約が課せられ、それらに翻弄され疲れてしまった。とにかくハチャメチャに書きなぐって修復不可能になってしまったものでも、とりあえず出してしまおう。

筋トレは万能か

さて当初の話題は筋肉の意義についてだ。私はかねてより筋肉は自分自身と世界を救うと考えてきた。数多の筋肉の伝道師(にわかも含めて)によって筋トレがあらゆる全てにソリューションを与えてくれる神のような概念?であるかのように語られている。しかし筋肉も万能ではない。筋肉量の増加によってテストステロンの分泌が増加することは科学的に証明されているが、それが鬱にならなかったり、業績不振の改善や、ウェルビーな私生活で、全てが思い通りになることを示すわけではないのだ。あくまで確率論的にそういう傾向が見られる場合が多いというだけである。このことは今日すごく分かった。退屈な仕事に追われ、人間関係にいらだちを感じ、プライベートの活動もうまくいかず、自分の過去の失敗ばかりに目がいってしまう。そして力を入れてきた分野で結果が出ない。つまるところストレスが溜まる状況を解消しなければ、いくら筋肉をつけても、それで全てを解決するという自分の思い描く最良の解決には至らない。

もちろん筋肉に全ての責任を押し付けてしまうのは、ちょっと脳筋すぎる。「筋トレがすべてのソリューション」はあくまで筋トレをするきっかけとして、キャッチコピーにするにはちょうど良すぎるのだろう。筋トレをはじめてその先は(これも個人の感想だが)ソリューションになってる部分もあるだろうが、当事者的には自覚しにくいというのが正直なところだ。だからうまくいかないときはうまくいかないし、病むときは病む。

病みかけて、色々吐き出して思ったのは、地味だが筋肉は予防的面の方が非常に効果が高い。あらゆる艱難辛苦に退治したとき、前向きな思考という形で、ベターな解を導いてくれるイメージである。課題の根本的な解決にはならないが、それに対して有効なソリューションを選びやすく、あるいは妥協することで切り抜けるなどうまく対処できる。切羽詰まったときはわーっと騒いで、思いを書きなぐって、その結果汚い成果物が出来上がって、それでもまあいっかといって投稿してしまうようなものでもいい。完璧である必要はない、とりあえずやってしまえという勢いだけでやってしまっても良い。またそういう領域があることを知れるというだけで心は浄化される。

病むことは想定外?

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予期せぬエラーはつきものだ。プログラムをかじっているとエラーなんて日常茶飯事。むしろエラーがあるとわかっているのは望ましい。課題が認識できていて、対策を検討できるからだ。
シン・ゴジラで、とあるお偉いさん役のおじさんが
「想定外なんてよくあることだ。」と言っていた。なんと皮肉の効いたセリフだろうかと感動したのでよく覚えている。彼は想定外を文字通りに捉えておらず、現状の手札で対策次第ではどのようにも切り抜けられると考えてのだろう。結果は人類が死力を尽くして戦わなければならないほどの存在を相手にしていたわけだが笑。結論から言うと想定外というのは結局程度問題である。病みすぎて鬱になってしまうことは周りから見れば想定外かもしれないが、本人からすれば「ああ、やっぱりな」というのが大半なのではないか。本当に動けなくなってプッツンしてしまうまでは想定内と言って差し支えないはずだ。プログラミングと同じように病んでいることを認識できているうちは対策が取れる。前向きに対策を取る気力さえあればこの部分はクリアできるはずだ。もちろん病むことは悪いことばかりではなく、バグ表のように記録してこんな事があったとして経験値にできる。しかし対策が遅れてしまうと想定を超えるストレス量に耐えきれずプッツンしてしまうことになるかもしれない。これは非常によろしくない。

筋トレはやはりソリューションなのかもしれない

筋トレはソリューションが先回りして、「筋トレすればすべてよし」と言う結論を導きがちだが、そこまで極端ではない。ぶっちゃけ筋トレをしていても病む人は病むし、1ヶ月に1回筋トレしてます、みたいなことを言われても鼻で笑うしかない(やらないよりはマシかも知れないが)。それでも筋トレは良くなる要素しかない。逆にマイナス面があったら教えてほしい。そもそも論だが筋トレって辛いんだよ、疲れるし続けるのも気力がないとだし。辛いことに耐えられるって実績はやっぱり自信になるんだよね。単純にストレス耐性が強いってことにもなる。全然うまくいかない日もあるけれど、そんな日は耐え忍ぶ。そのうちいいことがあるさと前向きになれる。それだけでやっぱりソリューションなんだよなぁ。

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