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銀座花伝MAGAZINE Vol.26

#飛龍の物語  #銀座「和光」時と兆しを読む  #petit 能レビュー

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銀座のランドマークといえば「和光」の時計塔と「天賞堂」のエンジェルです。そのエンジェルが、ビルの建て替えで移転していた6丁目から4丁目に戻ってきました。寂しくなっていた銀座煉瓦通りのビル角にキュートな後ろ姿が現れると、それまで止まっていた通りの歴史が動き出すような感覚が生まれます。

街も同じで、そこにどんな人物がいるかによってその場所が光り輝くのです。たった一人でいい、その人物が輝いていればその場は輝き進化するという法則が世の中にはあって、銀座という街はその見本のような成り立ちを持っています。そこには一灯照隅(いっとうしょうぐう)とも言うべき、 勇気をもらえる物語があります。

本号では、「易経の龍」の物語を道連れに、国産時計を世に生み出し、時を司る「時計塔」を銀座のランドマークとした「和光」創業者・服部金太郎の人生を紐解きます。人が成長するとき「段階」と「時」を踏まえることがいかに大切かを今に伝える生き様をお届けします。また、仕事帰りに本格的な能を楽しむ「petit能」(観世流シテ方林宗一郎師)レビューや「小鼓体験」(坂井兄弟会)の模様をレポートします。

銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に人々の力によって生き続けている「美のかけら」を発見していきます。  


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1 特集 龍の成長物語と銀座時計の老舗

新しい春に因んで、古よりめでたさの象徴と伝えられる龍のお話を一つ
なぜめでたさの象徴なのか。龍は架空の生き物ですが、天の恵みの雨を大地に降らせ、森羅万象生きとし生けるものを生み、育み、次につなぐ循環を起こす存在だと言われます。生き物は恵みの雨によって潤いを得て、大きく成長することから、雲を呼んで雨を降らす龍は、その源の役を果たすという意味でめでたい生き物だというのです。

龍のお話は、易経の冒頭に登場します。易経は中国古典の四書五経(ししょごきょう)の内の一つで、今から150年前に銀座7丁目に創業した「資生堂」の社名がこれの一説に由来していて「大地の徳」を称えていることはよく知られているところです。一方、占いと同じと誤解されている方も多いようですが、実は「時と兆しの専門書」「時の変化の道理を説く書物」だそうで、知恵の宝庫だといわれています。

易経では、龍には成長に3段階(細かくは6段階)、すなわち潜龍時代、見龍時代、(躍龍を経て)飛龍時代があるといいます。それに準えて、人も「段階」と「時」を踏まえないと、成長できないのだと説いています。

潜龍時代   志を立てる 徳を積む
       引き立ててくれる大人(たいじん)と出会う

見龍時代   基本と型を身につける 見る力を培う

ー(躍龍)洞察力を養い飛躍の時を伺うー
飛龍時代   社会に大きな恵みをもたらす


古来より帝王学の一つとして用いられていたというのも分かる気がします。
銀座には、老舗が多く存在しますが、100年以上の時のふるいを超えてなおこの地に文化を放っている店の創業者には、この龍の成長を地で行くような生き様がありました。銀座のランドマーク、時計塔を作り上げた創業者、その人生を辿ります。

●時計屋を目指した龍

偶然、1929(昭和4)年頃出版された古書を手にとる機会を得た。「修養全集」全10巻(大日本雄弁会講談社刊)で、「1聖賢偉傑物語」・・・「7経典名著感話集」、「8古今逸話特選集」などに続いて最後は「10立志奮闘物語」と、偉人たちがどんな修養を積んで世の中に役立つ人間として成長したかについて、まとめられている。経年ヤケがひどく、本体背表紙は全て剥がれているが、丁寧に扱えばなんとか読める代物である。
ゆっくりと傷みのある「立志奮闘物語」のページをめくると、細菌学者としてワクチン開発に貢献した野口英世や大工から米国大統領になったバーフィルドに続いて、「服部金太郎」という名前が登場する。以下は「服部金太郎」についての主にここでの記述に基づくものである。

月と太陽


●商いへの志 服部金太郎の潜龍時代

服部金太郎とは、銀座和光(セイコー服部時計店)の創業者である。1860(万延元)年生、現在の銀座4丁目角近くの京橋采女町に生まれた。父親は古物商を営んでおり、8歳から寺子屋(青雲堂)で学んでいたが、商売に志を立てた金太郎が、自ら用品雑貨問屋辻屋に奉公に出たのが11歳だったという。辻屋というのは、当時海外製品を直輸入する用品雑貨業界の先駆者であった。

金太郎は奉公に励みながらも、奉公先近くにあった「小林時計店」という江戸時代からの時計業の老舗をよく覗いていた。ここでの時計商売との出会いが金次郎の人生の「志」を決定づける端緒となるのである。

小林時計店といえば、創業者小林伝次郎が八官町(現在の銀座8丁目)の外堀通り沿いに店を構え、戦後まで長らくその土地を所有していた。敷地の中に東西に亘る路地を通した名残が今でも残っている場所として筆者も「おさんぽ」でご案内することが多いエリアである。戦後、建物はビル化されたが、境界すれすれに建物が建てられることがなかったことが幸いして、金春通りの老舗鮨店「久兵衛」本店の脇から路地が始まり、先を見通せないほどの細い路地が繋がり見番通りへと抜ける。いかにも昭和の土地の記憶を呼び覚ますかのような、その空気感はまさに路地のワンダーランドだ。案内のコースの中でもクライマックス的な場所なのだ。
伝次郎はこの八官町の店に、当時「八官町の時計塔」と呼ばれた時計塔を建てた。土蔵造り二階建ての店舗の上に設置された御神輿型の古雅な時計塔であった。当時の写真を見ると、驚くほどモダンな姿に驚かされる。

時計塔(機会は時打ち付き)

      参考文献 「明治・東京時計塔記」平野光雄著           (昭和43年6月10日発行、明啓社刊 - 改訂増補1000部限定)


・大切な〈時〉を無為にしない

金次郎はその小林時計店での仕事ぶりを観察しながら、時計業の面白さに気づく。13歳の春のことである。

「雨天の日は客足が少ない。そんな時でも時計店の店員は修理にはげんでいる。販売だけでなく修理でも利益が得られ、大切な<時>を無為にすごさなくともよい。まず、時計の修繕業からこつこつ始めて、開業資金を貯めることも不可能ではない。そうだ、時計屋になろう」

時計商になると決めた金次郎は、辻屋から日本橋の亀田時計店に移り、その後上野の坂田時計店に入り、時計の修理から販売まで心血を注いで修養を続けるのである。奉公人としての賃金はわずかであったが、いずれ自分の店を持つための開業資金を作るために必死に働いた。

・奉公先でのいじめ、倒産 

金太郎は最初に亀田時計店に奉公するが、ここでの丸2年は子守や雑用にこき使われただけで覚えたかった時計修理は一向に教えてもらえなかった。その亀田時計店が商売をたたむ事になり、主人の紹介で坂田時計店に奉公することになる。坂田時計店では、時計修理を直ぐに教えてもらえたことがとにかく嬉しく、他の先輩が手を休めて雑談にふける寸暇も惜しみ、また、朝は夜が明けるのが待ち遠しいとばかりに飛び起き、夜は先輩が寝てしまうまで一心に仕事に励んだのである。布団に入ってもランプを枕元に置いて、「通俗科学講話」「通俗理化学」などから新しい知識を身につけて行く。

一方で面白くないのは先輩たち、「なんだいあいつは!俺たちとの付き合いもしないで、勉強ばかりして気障なやつだ」と生真面目な金太郎を妬み邪魔にし、根も葉もないことまで主人に言いつける始末だった。

ある晩、金太郎が寝床のランプの下で本を読んでいると主人がやってきて、激昂烈火「おい!金どん、お前は毎晩遅くまで本を読んでいるそうだな。職人に学問はいらないんだ。そんな心がけだから、先輩とソリが合わないんだ。ランプの油だってタダじゃないんだぞ」と言って、枕元にあった本を窓から往来へ投げ捨ててしまった。そのようなことが度々あり、金太郎は口惜しさに何度もやめてしまおうと思うが、「どんな辛い時も辛抱」してやり通すと父に誓った言葉を思い出し、修行に励んだ。現代ならばパワーハラスメントも甚だしい話だが、辛抱したのは、やはり志があったればこそ。潜龍の時代は、「志を立てる」ことが最も大事であり、さまざまな困難を乗り越える精神力の源になるのだという。

坂田時計店に入って、主人の毒づき、先輩たちのいじめに耐えながらも3年を過ごす頃には、主人の目を盗んで学んだ本の知識が功を奏して、押しも押されもしない時計工となった。
ところが、奉公していた坂田時計店の店主が他の事業に失敗し、店が倒産してしまう。店を去るに当たり金次郎は驚くべき行動に出る。

・志(こころざし)の形 

いよいよ店じまいという日に、主人は金太郎を呼んで、目を潤ませて頭を下げたという。

「お前は私のところに来てからわずか3年、他の者は皆5年以上もいたのに、今度の私の失敗を見ると見限りをつけて我先にと出て行ってしまった。お前さん一人はこんな主人でもよく今日まで働いてくれた。お前に辛く当たった自分が恥ずかしくてならない。厚くお礼を言います」

「旦那・・・そんな、もったいないお言葉を・・・」


「この落ちぶれた坂田の店に残って、人気のない仕事場でたった一人で時計を直してくれるお前の姿を見て、心の中で何度拝んだかわからない。人の心は零落した時に分かるものだというが、お前さんを厚遇どころか無情な扱いをした私に対してよくぞ今まで働いてくれた。なんと言ってお礼を言ったらいいか・・・」

折角これまで頑張ってもらったが今日を限りに店を閉めねばならない、色をつけて暇を出すのが本当だろうが、この有様で本当にすまない、と頭を垂れた。
その時、金太郎は2階の奉公部屋から紙包を持ってきたかと思うと、主人の前に差し出した。

「旦那、これは金太郎が旦那から今までに頂いた給金を一文も手をつけずに貯えておいた金です。お金の高を申すのも恥ずかしいことですが、この中には7円ほどあるはずです。大店の坂田のご主人にこればかりの金は何の役にも立ちますまいが、金太郎の満分の一の志でございます」

「金どん!百万両の金より嬉しい、お前の志をありがたく受け取るよ・・・」


沈みゆく大店の落ちぶれて行く身の店主にとって、7円に込められた金太郎の熱い心はにどれほど気持ちを暖められるものであっただろう。

それまで坂田時計店で修行をしながら貯めた金を、これまでに受けた恩への返礼として主人に差し出した金太郎。この美談は後々まで業界を中心に語り継がれることになる。

美談 セイコー

 当時の美談として語り継がれた挿絵。               (『修養全集 第10巻立志奮闘物語』)より


・徳を積む 「学び」の大切さ

自らの苦境を考える前に今まで受けた恩を返す、金太郎のそうした高潔な精神性は幼少期に江戸寺子屋で学んだ後も、働きながら私塾に出かけては学びを続けた「学」に対する執念が産んだもののようである。

江戸時代の教育水準は国際的にみても高かったと考えられている。それは武士はもちろん、商人や農民の間にも読み書きなどを学ぼうとする志の高さに支えられていた。僧侶や浪人らが子どもに読み書きそろばんを教える寺子屋から、名の通った学者が指導し人材を輩出した著名な塾まで、さまざまな私塾が存在していた。さらに幕末に近くなると蘭学塾、兵学塾、医学塾など多様な学問の私塾も見られるようになり明治期にさらに発展して行く。

金太郎は13歳で丁稚奉公に、15歳で時計店に修業に出て、そのかたわら漢文を学びに私塾に通ったと記録にある。当時の江戸の漢学塾といえば、蘐園塾 – 荻生徂徠、心学講舎 – 石田梅岩、桃夭女塾- 下田歌子、清河塾 – 清河八郎など、塾主の個性と、有志者の自発性を基盤として発展した教育機関が多く存在していたので、勉強熱心だった金太郎はそうした儒教倫理を底流とした学問に触れていたのだろう。その中で士農工商それぞれの社会的意義を知るにつけ、特に心学で経済と道徳の一致の考え方「都鄙問答(とひもんどう)」(石田梅岩著)に代表される、商人の本性を知って修行や実践を重視した倫理を身につけようとしていた様子がこの美談からも窺い知れる。「学」というのは武器であり、人生を生き抜くための知恵を身につける唯一の方法であるという、その辺のことを実によく分かっていた人物だった。寝る間も惜しんで塾で漢籍(漢文で書かれた書)を学んだ原点がそこにあるようだ。

金太郎は潜龍時代に商いを生業にする「志」を立て、過酷な修行時代の中でも「学」を身につけ、「徳」を実践して行った。それは、まさに易経の示す龍の物語に準えた人間の修養による成長・進化を目の当たりにできる物語として、今日に至るも「社会的に役立つ人生を送った人」の普遍的な在り方を提示しているかのようである。

その後会社を興してからは、従業員の教育に大変な労力を注ぐことになる。晩年には私財を投じて、教育や公共事業を奨励援助する財団(財団法人服部報公会)の設立に繋がって行く。

木龍


・一歩一歩 ステップを上げる商い


貯金の全てを店主に差し出して、裸一貫になった金太郎は、自宅で1877(明治10)年、「服部時計修繕所」の看板を掲げて時計の修理・販売を始める。17歳の時である。これがのちの服部時計店の前身となる。
金太郎の凄いところは最初から時計販売に乗り出さずに、まず「修理」を手がけ修理を軌道に乗せたら、次に中古時計の販売を始める。質流れ品や、古道具屋で売っている時計を安く買ってきて、修理して売って、顧客の信頼と資金を得ることで、事業の礎を築いて行こうとしたところだ。そんな地道な商売の仕方を見ていた人物がいた。「技術にかけては名人」と謳われた桜井清次郎である。気難しかった桜井から絶大な信頼を得て、一流の技術を叩き込まれるという幸運を掴むことになる。


●見龍(けんりゅう)への道ー大人(たいじん)と会う


少し寄り道をして、そもそもの易経ついて一文を手がかりに理解を深めてみたい。見龍の時代とは、暗闇にも似た手探りの潜龍の時代に培った「徳」によって可能になる次のステージだという。言い方を変えれば、潜龍から一転して、「世の中が見える段階」を指す。

易経 乾為天(けんいてん/九十二)に次のような言葉がある。

「見龍 田に在り。大人(たいじん)を見るに利(よ)ろし。象に曰く、見龍 田に在りとは、徳を施し普(あまね)きなり。」

易経は原典の文字面を読んだだけでは理解することが大変難しいものである。素人には手に余るので、一般人にも分かりやすく本来の易経の世界観を伝える易経専門家の竹村亜希子氏の著書「人生に生かす易経」を助けに一言一言を紐解いてみると、実に奥深い意味がそこには横たわっていることが分かる。
まず、易経(九十二)の見龍の「見」とは何か。「見」には、見る、見られる、会う、聞く、学ぶの意味があるという。真っ暗闇で手探りの状態の潜龍時代を抜け出し、急に世の中が見える段階に入る状況を示す。次に、「田」とは何だろうか。これは水田を表す言葉で、水田は物を生み出し、養い育て、実らせる基になる。耕作を学ぶ実践の場という意味もあるという。ここでは、水田に目に見える形で引き上げられるイメージとして使われているという。古来より龍は水そのものであり、水を司る象徴であることから、雲を呼んで恵の雨を降らせるのが龍の存在である。

さらに、「大人」が出てくるが、これは潜龍の時代に培った徳を一早く見出して世の中に引き上げてくれる存在のことであり、「大人」との出会いがあって初めて見龍になれるという。「この人物は将来伸びるぞ」、「この会社はこの先伸びるぞ」という先見の明のある人物のことだという。いわば、見習うべき大人との出会いと言えるかも知れない。

光


・見えない物を見る目、 聞こえない音を聞く耳

自分を見出してくれる大人に出会ったら、とにかくその人を見て、真似る。目で見て、見続けて自然にその人物がするようなことを楽に真似ができるようになるまで、さらに言えば、その人物の癖さえもコピーしてしまうぐらい真似て、基本と型を体に覚えさせることが肝要だと易経は説く。

話を本筋に戻すと、金太郎が名人桜井清次郎の下でひたすらその技を倣い、商売の在り方が身に付くまで修行を続けた時間は「見龍」の時、それに匹敵するのだろう。目の前の修理をコツコツと丁寧に高い技術力でやり遂げる自分になれるまで、ひたすら修養を積んで行ったのだった。

こうした技術力はもとより、経営の面からは横浜居留地の時計輸入商人アイザック・コロンを後ろ盾に、時計資材を問屋からではなく直接輸入商から仕入れる道を拓くことが商いの安定につながることに気づいた点が大きい。

商いにとって信用を得ることが最も大事だと桜井清次郎に叩き込まれた金太郎は、「必ず約束を守る」ことを自分に課した。後に自伝の中で金太郎はこんな話をしている。

「私の店が開業後大層都合がよかったのは、横浜の外国商館が私の小さな店を信用して、何ぞ斬新なものとか、何ぞ珍しい時計でも来ると、他の店よりはまず私の店に売ってくれたということである。こういう次第で、私の店に来れば、比較的斬新な品もあり、品物も豊富にありということで、客足が多くなったのである。・・・(中略)・・・どうして外国商館が私の小さな店に多額の商品を融通してくれたかというと、つまるところ、支払をキチンとキチンとしたからである」


・良品は必ず愛顧を得る

21歳の時(1881(明治14)年)に自宅近くに「服部時計店」を開業してから次第に商館や販売店の間で信用に係わる評判を呼んで行った。当初の資本金百五十円は十倍の千五百円になっていた。コロンの信用を得たことが功を奏して、特に外国商館は服部時計店に優先的に新しいモデルを卸してくれるようになり、比較的短い期間で目覚ましい発展を見ることになる。創業から6年目27歳の時1887(明治20)年には、日本商業の中心地銀座の表通りへの進出を果たし、景気好転の兆しがみえた1892(明治25)年、時計の国産化という目標を抱いていた金太郎は、舶来時計の輸入販売で蓄積した資金を元手に、製造に乗り出すのである。「精巧な製品」により、欧米に負けない時計事業を日本に興すという強い覚悟を「精工舎」の会社名に込めた。「良品はかならず顧客の愛顧を得る」という信念のもと、「品質第一」「顧客第一」とするモノ作りに励んだ。
この時に同志になった天才技術者と云われた吉川鶴彦との出会いが、その後のセイコー社の国産時計製造業の要となって行く。セイコーではボンボン時計(ぼんぼんと鳴って時刻を知らせる大型の振り子時計)を製造したが、この時計は中国(当時は支那)の奥地にまで売り広められ、その後は懐中時計においても外来品に匹敵するような国産品を作り出す。その勢いの止まらない名声・実績は旭日昇天(きょくじつしょうてん)と形容された。金太郎の経営力がと吉川の日本一の技術力の二人三脚によって時計会社の花は大きく開いて行った。

時計修理


●飛龍への道

易経によれば、飛龍になるプロセスから見れば、見龍の段階は潜龍から少し頭をもたげただけの段階で足腰が定まらない、まさによちよち歩きだという。
「社会的な役割を担う」企業になる、いわゆる飛龍の時代を迎えるためには、必ず躍龍の時代をくぐらなければならない。この時代には「時」を観る力を養うとともに、創業者の掲げた志のメンテナンスをすることが求められる。
地道な信用商売が功を奏して、1895(明治28)年には銀座4丁目の角地(現在の和光)を購入し、時計塔(総高さ16m)を設置した。丁稚奉公をしていた時代に老舗小林時計店で見上げた憧れの「八官時計塔」の姿をそこに重ねていたに違いない。この頃の銀座の街頭は文明開化を象徴する時代の先端を行く街になりつつあり、その中心地の角に聳え立った時計塔はさぞかし群を抜いた美しさであったことだろう。


しかし、丁稚奉公から始めて世界の時計メーカーにまでのし上がる、いわゆる立志伝的な人物として語られることが多い金太郎だが、実際には、最初の結婚に失敗したり、明治期の火災や1923(大正12)年の関東大震災では大変な被害に遭うをなど苦難の連続だった。震災では巨額の損失とともに、顧客から修理のために預かった時計が幾千個とあったが、全て灰燼に帰してしまった。
この時、金太郎は焼け跡から燃え残った帳簿を探し出し、ほとんど同一の品を外国に注文して、重々謝罪の上顧客に一件一件返して行ったという。

「正直に、そして弛(ゆる)みなく働くこと」

社員にも自分にもいつも言い続けた、これが金太郎の誠実さを示す言葉だった。
時計事業を世に残すという大きな目的を達成するまでに数々の困難がありながら、まれにみる強固な意志と、なみなみならぬ忍耐力で、常に一歩先を、急がず休まず邁進し続けた金太郎。その精神は、「世界の時計セイコー」のキャッチフレーズ、1964(昭和39)年の東京オリンピック公式計時担当、スイス天文台コンクールでの上位独占、さらには、現在の時計の世界標準となっている世界初の水晶腕時計「クオーツアストロン」の発売、2012(平成24)年の世界初の「GPSソーラーアストロン」に脈々と引き継がれている。

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銀座のランドマークである服部時計店(現和光)が落成したのが1932(昭和7)年だった。その2年後、時計塔の完成を見届けた後金太郎は73才で世を去った。

螺旋階段


・「時の博物館」ーセイコーミュージアム銀座ー

銀座和光の時計塔の鐘は、銀座、そして世界にむけ毎日欠かす事なく鳴り続けている。私たちがいつも見上げる美しい建築物のフォルムとともに耳に届くその音色に、「創業者・人間 服部金太郎」の歩んできた足音が聞こえてくるようだ。易経の龍の物語は「段階」と「時」を踏まえないと成功への道に到達できないことを伝えている。そこには龍の姿そのままに「志」を立てること、「徳」を積み、弛まない「鍛錬」を続けること、そして「時の兆し」を見ることの大切さを発見するのである。

時計塔にほど近い並木通りに、セイコーミュージアムはある。1981年、創業100周年記念事業として「時と時計」に関する資料・標本の収集・保存と研究を目的とする資料館として墨田区に設立された。創業者・服部金太郎生誕160周年を迎えるにあたり、2020年8月にセイコーの発祥の地である東京・銀座へ移転し、「セイコーミュージアム 銀座」として新たに開館した。セイコーミュージアム 銀座は、服部金太郎に関する貴重なアーカイブ資料やセイコーの製品史のみならず、日時計から和時計まで広く時計の歴史を紹介している。

●見学は要予約となります

 


ゼンマイの世界



2 能のこころ    

● GINZA de petit能     —感動の90分能の挑戦—

観世流シテ方 林宗一郎師

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「コンパクトに能を楽しんでほしい」そんな願いから企画された12/7「GINZAde petit 能」、銀座の観世能楽堂での公演は2度目になる。Petitとはフランス語で「小さい」を意味するが、実は《愛される》と云う意味もある。座長を勤める観世流シテ方 能楽師 林宗一郎師は、天武天皇の幼少期の奇跡を描いたおめでたい演能「国栖」でシテを、「二人静」では観世御宗家との共演を披露された。
                        (文責 岩田理栄子)

90分という凝縮された時間は、観る者の集中力を高め、舞台上の気流の襞(ひだ)に観客それぞれの視点が織り込まれて、会場全体に「面白い舞台を観た!」という感動が巻き起こった。
特に、演目披露の冒頭、京観世五軒家のうち唯一残る林喜右衛門家の十四代当主/林宗一郎師と観世流ご宗家/観世清和師の対談が実現。京観世と観世流の成り立ちとの関係や、芸風の魅力など普段伺えない貴重な話題がリアルかつ軽やかに披露され、この日の演能への期待感を膨らませてくれた。稀に見る貴重なひとときだった。

さらに、能舞台ではその日の演目のあらすじや、見どころなどが解説されることが多いが、本舞台の解説は稀に見る臨場感と分かりやすさで大変評判が高かった。
解説して下さったのは、味方團、松野浩之、樹下千慧の各能楽師のみなさん。演目の役柄に応じた所作の意味を、実際に実演して見どころにつなげる手法が素晴らしい。

能「国栖」はめでたいもの尽くしを目的とした能である。瑞雲である紫雲が家屋の上にたなびく情景や、焼き魚が生き返るシーンは通常は神々が出現する能演目の中にあって特殊であり、五節の舞の由来や蔵王権現が出現して御世を寿ぐ展開と奇想天外な表現も多い。その面白さをユーモアたっぷりに解説する洒脱さが実にわかりやすく楽しい。

例えば、能「国栖」で見逃せない名場面と言われる「漁翁と姥が浄見原天皇を鮎でもてなした後、焼き鮎が生き返る」(鮎の段)シーンである。

【物語とお話】

ー宮中の争いで大友皇子に京都を追われた浄見原天皇(後の天武天皇・子方)が、推古天皇の時代に薬狩りの行われたお狩場を過ぎ、春日山を抜け吉野山に逃げて来る。そこで出会った老夫婦は、数日間食事を取れていない帝の姿を察して、鮎を持ってもてなそうとする。二人に感謝された帝は、翁に残った鮎を賜ります。その鮎があまりに生き生きしているのを見た翁は吉野川にこの鮎を放そう、きっと生き返って行くに違いない、などと突飛なことを話す。
はたして、実際に鮎を川に放つと、突然鮎は生き返り岩を切るような急流の川を泳いで行くではないか。これは「吉瑞」(きちずい)だと帝を励ます翁の想いの深さを感動的に描く名場面であるー

この鮎の生き返る場面の面白さを、なぜ翁はそれを確信したのか、どんな思いがそこにあったのか、実際に鮎が生き返る様子を再現しながら翁の心情へ寄り添う機知に飛んだ語りが能への親近感に変わるようだった。
聞き手である観客はこの臨場感にこれから始まる演能への想像力逞しく、ワクワクして舞台を見つめるのである。

petit能 林宗一郎国栖

                                                                                                                   写真:人見淳

【お客様から寄せられた感想】

「鮎が生き返る様子は、前場のクライマックスだと聞いていたので、解説を最初に聞いていたことで、とてもよく理解ができ話についていけました。最前列の席は自分だけの世界に浸れるような迫力があってとてもよかったです」
                        東京都 OL  Y.Aさま

会社帰りにこんな本格的な能を鑑賞できるなんて、素晴らしいです。最前列で見るという機会に恵まれありがたかった。ご宗家をあんなに身近に拝見しながら、話が聞けるなんて、林先生の力量の凄さを感じました」
                      東京都 会社員 R.Sさま

「後場の天女の舞が美しかったです。シテの蔵王権現の能面は深い青が際立っていて大迫力でした。帝の行く末を寿ぐ場面でもあるとか。権現まで祝の心を送るなんてすごいなーと見入っていました」
                     神奈川県 自営業 M.Kさま
「御宗家がお弟子さんと対談するなどあまり拝見したことがなかったので、林先生のお力を見る思いがしました。その上、御宗家のざっくばらんなおしゃべりがとても魅力的な企画だなあと感心しました」
                       千葉県 教員 Y.Mさま
「ツレ(観世三郎太)による「国栖」特有の優美な天女の舞と権現の力強い、颯爽とした舞が素晴らしかった!装束も近くで鑑賞できると眩しいくらいの美しさだった」
                     神奈川県 自営業 K.Kさま

笛の愛好家の方から、体験者ならではの想像力たっぷりの素敵なレビューもいただきました。ご紹介します。


「脇正面、お陰様で本当によい席でした!
 天女が舞う場面では、鮮やかな黄色い衣装に太鼓・笛・琴・笙が描かれているのを見つけ、思わず見入ってしまいました。
 特に「琴」は古事記に何度も登場してますので、古来から神事などで使用される重要な楽器だったようです。衣装に琴が描かれているのも意味があってのことなのかなと感じました。

 そして、脇正面だからこそ囃子方が近く、鼓の打ち姿はもちろん、鼓を上げ下げする所作まで良く見えました。残念ながら笛奏者は影になって直接は見えなかったのですが、掠れた音から力強い吹き込む音までの幅のある技法を感じとることはできました。

 それから、感性はもちろん大切にしたいとは思いますが、やはり感性だけでは限界があるかなと。今回「食べかけの鮎を川に戻したら生き返って泳ぎ出す」というシーン、予備知識がなければ扇子を動かしているだけにしか見えなかったように思います。
 しかし、事前に川の位置や流れる方向のイメージを説明していただいたので、確かに鮎が 生き返って泳ぎ出したように見えました(笑)やはり私としては下調べをした方が楽しめそうです」
                      東京都 会社員 T.Kさま

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ご覧になった方々のリアルな感想から、それぞれの視点で楽まれた「GINZAde petit 能」の感動が伝わってくる。「90分で能を味わう」このシリーズは、京都を皮切りに全国で回を重ねて大変好評で、次世代の能鑑賞の新しいカタチとして注目されている。

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                                                                                                                  写真:人見淳


●新春寿ぐ「小鼓」体験 ー坂井兄弟会 お正月特別企画 in 観世能楽堂

新しい年の初めを能体験で。1/8「銀座で“能”を体験してみよう」の呼びかけに能に興味のある親子連れやスーツ姿の会社員の皆さんの参加が目立ち、会場は清々しい雰囲気に包まれた。(レポート 岩田理栄子)


【高砂の仕舞い 連吟】

観世流シテ方 坂井音隆師によるお正月にふさわしい「高砂」(たかさご)の仕舞いに続いて、謡の体験が始まる。

「私の後に続いて、真似て謡ましょう」

「高砂」のキリの詞章に目を落としながら、能楽師の音程をそのままに辿っていくことを繰り返す。座席から能舞台に向けて、お腹から思いっきり声を出す稽古。筆者も久しぶりだったが、正面席最前列で背筋を正し腹筋を意識しながら大声を出すことの清々しさに、いかに最近こうした機会がなくなっていたかを実感する。改めて能の詞章の美しさと日本音階の高低の面白さに心躍らせる事が出来た。

「たかさごや このうらぶねに ほをあげーーてーーー
 このうらぶねに ほを上げてー

 つきもろともに いでしおの
 なみのあわじのしまかげや

 とおくなるをのーーオ おきすぎて
 はアー〜ア やすみのオーオえに つきにけり

 はアー〜ア やすみのオーオえに つきにけり」


ー 神主・友成は高砂の浦(兵庫県)に立ち寄ると、松の木陰を掃き清める老夫婦がいた。老夫婦はこの高砂の松と、遠く離れた住吉の浦(大阪府)の松を合わせて「相生の松(あいおいのまつ)と言われていることを話し、自分たちはその「相生の松」の精であることを明かす。そして、友成と住吉での再会を約束して沖へと消えてゆく。友成が高砂の浦から住吉に着くと、そこへ住吉明神(すみよしみょうじん)が現れて颯爽と舞を舞い、人々に寿福を与える。ー

仕舞いでは、住吉明神が悪魔を払って寿福を招き、人々に長寿をもたらして平和な世を祝福する場面を演じ、それはそれは寿ぎの世界観にたっぷり浸かることができて幸せな気分が会場いっぱいに広がった。謡体験では、友成が高砂の浦から出発して住吉に着くまでのたおやかな景色を謡上げて、まるで帆を上げて共に船に乗っているかのような気持ちを体感することができた。

最後には、来場者の中から若い会社員メンバーによる「高砂」連吟が舞台上で披露された。コロナ前には銀座花伝のメンバーも「羽衣」の連吟を披露させていただいたことがあるが、清々しい若者たちの連吟は、実に怏怏しく活気に満ちていて身が引き締まる思いがした。やはり次世代が古典を朗々と謡い上げる姿は感動的だ。1日も早く皆で謡える機会が待ち遠しいと切に思った。


【小鼓の体験】

小鼓方大倉流・清水和音師と観世流シテ方 坂井音雅師によるお話と体験である。
小鼓の役割、リズムの取り方、動きや掛け声など実演をしながらの解説がとてもわかりやすい。会場とのエアー小鼓体験は、まず小鼓の持ち方、打ち方、動きの基本を習ったのち、掛け声と間合い、打ちの動きを連続してやってみる。声と打ちの合わせ技で混乱し、日頃見ている小鼓を演ずることがいかに難しい技であるか実感する。しかし、あの能楽堂の天井をも突き破るような掛け声を実際にやってみると、とんでもない宇宙空間に誘われ没入感にひたるのは筆者だけだろうか。
やはり、能は実践してみてさらに楽しくなる芸能であるということが分かる。


小鼓と松


【能「殺生石」】
最後には、能「殺生石」(せっしょうせき)が坂井音雅師によって披露された。

ー那須野(栃木県)の野原に不気味に聳え立つ大きな石。旅の高僧・玄翁 は思わず足を止める。石の上を飛ぶ鳥が次々と落ちていくからだ。すると妖しげな女が現れて石について話しだす。その石は殺生石と言って近づくものの命を奪う恐ろしい石。昔、玉藻の前という美しく、教養のある女性がいたが実はその正体は恐ろしい妖怪である。妖怪は退治させられ、その執心だけが石となった。女は、自分こそその妖怪の仮の姿なのだと明かして姿を消す。
石に向かって成仏するよう祈る玄翁。石はたちまち2つに割れて、光の中から野干(狐)が現れる。天竺・唐・日本と3国に渡り、人間の心をみ出そうとしたが、ついには見破られて退治させられた有り様を再現する。野干(狐)はこの後、決して悪事を働かないと約束して姿を消していくのだった。ー

この舞台では、恐ろしい石の正体を知った玄翁がその成仏を祈っていると、野干(狐)が現れて実際に退治された姿を目の当たりにし、最後に改心して消えていく場面が演じられた。大捕物シーンが見どころで、コンパクトながら緩急のはっきりしたストーリーが展開され心躍る能舞台であった。

月岡 2

月岡耕漁作「能楽図絵」「殺生石」より



観世能楽堂 情報 


◇世阿弥「野守」鬼神の舞 ー坂井音隆師ー     観世会定期能2月

観世ご宗家が認めた、高い演能技術と芸術性を持つ能楽師だけが立つ事ができる観世会定期能の舞台。若手では坂口貴信師に続いて観世流シテ方 坂井音隆師が登壇される、能「野守」(のもり)である。人間国宝・坂井音重師を父にもつ坂井音隆師の謡は澄み渡る声質とともにその表情の豊かさ、品格に定評がある。

世阿弥作 「野守」抒情と鬼神の舞                 【物語と見どころ】

羽黒山の山伏が葛城山に向かう途中の大和国・春日野で、野守の老人より「野守の鏡」の謂れを聞く。すると老人は、本当の「野守の鏡」を見せようと言い残して塚の中へ姿を消す。そして山伏の前に鬼神が真の「野守の鏡」を携え塚の中より現れ、天界から地獄までの有様を映し出して、また奈落の底へと帰って行く。

本作は、『新古今和歌集』や歌学書にある和歌「はし鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見む」という和歌に構想を得て世阿弥が作った作品とされている。前場では、野守の鏡などに関する伝説や故事がうまく取り入れられ、池の水を何事をも映す鏡に見立てるなど、野守の老人の語りの中に情緒が溢れている。後場では鬼が登場しますが、世阿弥は、人間の執心や怨霊が変化した「砕動風」の鬼と、自然の中にある純然たる存在である「力動風」の鬼の二種類に鬼を分類し、後者には良い評価を与えていない。本作に出てくる鬼は「力動風」の鬼ではあるが、風情が感じられるように工夫が凝らしてある。前場の雅味を持つ尉の語りと、後半の力強い鬼神の舞、対照的でありながらも、一貫した芸術性を持つ物語を体感できる。

【観世会定期能 2月】

と き:2022年 2月6日(日) 開演13:00(開場12時20分)      ところ:観世能楽堂(GINZA SIX 地下3階)
能  二人静 立出之一声 寺井 栄  
狂言 土筆      山本 泰太郎
仕舞 弓八幡      津田 和忠
   笹之段     観世 清和
   須磨源氏    関根 知孝
能  野守      坂井 音隆

2月定期能 チラシ


◇荒磯GINZA能 ー坂口貴信師 能「屋島」

と き:2022年2月10日(木)13時開演(12時20分開場)       ところ:観世能能楽堂(GINZA SIX 地下3階)

史上に人気の高い義経が主人公の能「屋島」を観世流シテ方 坂口貴信師が勤める。勇猛果敢な武士の姿の一方で春の夜景の美しい時間を描いた本作で,情感あふれる演技が見どころである。

【物語と見どころ】

義経は死後に修羅道に堕ちた武将として現れる。絶えず戦いや争いが行われる世界とされている修羅道は仏教の六道輪廻の宇宙観である。生前に戦をした者が死後に堕ち、常に戦いを強いられる苦しみを受けるといわれてきた。「八島」は、勇猛で生々しい戦いの様子を描きつつも、それを春の長閑な一夜の美しい景色、宵闇の朧月から冴えわたる晴天の暁方まで移り行く時のなかに含ませて、情景がくっきりと際立つ物語に仕立てられている。

この曲は、主人公が勝利の戦いを表し、勇敢さ、強さ、厳しさに貫かれる勝修羅(物)と呼ばれる種類の能で、名のために身命を賭す侍の心意気など多彩な情緒が絡み、独特の雰囲気が醸し出されている。

〈あらすじ〉屋島へ赴いた旅の僧は、出会った漁翁より屋島での源平合戦の有様を聞く。あまりに漁翁が詳しく語るので、不思議に思った僧が尋ねると自らの正体を仄めかし姿を消す。(中入り)やがて、僧の前に義経の霊が昔の姿で現れ、屋島の合戦の際に波に流された弓を命懸けで取り返した様や、死後修羅道に堕ちての闘いを見せるが、夜明けと共に消え去って行く。

【荒磯GINZA能 演目】

能   屋島     坂口 貴信
狂言  成上り        山本 則重
仕舞  老松                      観世 清和 他
能       胡蝶 物著  津村 聡子

荒磯GINZA能 チラシ


◇名作能「楊貴妃」 坂口貴信師 気品の舞

 ー「三人の会」公演

白楽天が、玄宗と楊貴妃の悲運の愛の物語を詠んだ「長恨歌」をベースにストーリーを脚色した作品である。玄宗皇帝と楊貴妃の深い愛と会者定離の悲しみを描いた金春禅竹作の名作である。その気品と哀愁を湛えた作風から「定家」「大原御幸」に並ぶ「三婦人の一つ」に数えられる名品と称えられる。坂口貴信師による優美さ、気品、寂しさ、静けさといった情感をたたえる謡、舞が、どのように披露されるのか実に楽しみな舞台である。

長恨歌(ちょうごんか)とは?                     唐代の皇帝・玄宗皇帝とその愛妃・楊貴妃の悲劇を詠んだ有名な詩。安録山の乱でこの悲劇が起きてから50年後に、120句におよぶ長編の詩が作られた。白楽天(白居易)35歳、9世紀初めの作品である。紫式部や清少納言が生きた時代より150年ほど昔、この詩の入った『白氏文集』は日本にも伝えられ、『源氏物語』や『枕草子』にも影響を与えたと言われている。


【物語と見どころ】

「長恨歌」から能「楊貴妃」へ

楊貴妃(719〜756)は、蜀の楊家に生まれ、玉環と名付けられた。幼時に父母を亡くした彼女は叔父の養子となりその後、生来の美貌から、玄宗(685〜762:唐の第9代皇帝)の十八子、寿王の李瑁(り・ぼう)の妃になる。ところが、その美しさに心を奪われた玄宗は、楊貴妃を自分の後宮に入れてしまう。玄宗が楊貴妃を寵愛したことから、彼女の親族も唐の要職を担うようになる。その一人が、楊貴妃の従兄弟、楊国忠(?〜756)だった。楊国忠は宰相として権勢を振るいまうが、やがて、唐の軍人で楊貴妃の養子となった安禄山(705〜757)と激しく対立する。その結果、安禄山は唐に対し安史の乱を起こす。安禄山の攻勢を受け、玄宗は首都長安から逃げ、楊貴妃や楊国忠も同行するが、馬嵬(ばがい)という場所に着くと、皇帝警護の親衛隊が、乱の原因を作ったと咎めて楊国忠を殺し、楊貴妃の死も要求する。そしてついに、楊貴妃は玄宗の命により縊死させられてしまう。長恨歌には、乱が鎮まった後、皇帝は深い悲しみのうちに、道士(方士)に楊貴妃の魂魄の行方を探させたと書かれ、そこから能の物語につながってく。

〈能「楊貴妃」の出会いと別れ〉

唐の玄宗皇帝により、亡き妃、楊貴妃の魂魄(こんぱく)の行方を探し求めよとの宣旨が下され、帝に仕える方士はその旅の果てに広大かつ壮麗な宮殿、蓬莱宮へと辿り着く。そこへ帝と過ごした日々を懐かしみ、今の一人を嘆く声が聞こえ、太眞殿の玉簾を引き上げて楊貴妃が姿を見せる。

この世は果てなく流転し、生者必滅の理からは誰も逃れる事が出来ない。かつて天上界に住んでいた楊貴妃も現世仮に人間界に生まれ、そして帝と出会った。しかし比翼連離の誓いを交わした二人も会者定理(えしゃじょうり)の理からは逃れられなかったのだと楊貴妃は悟る。


【「三人の会」演目】

と き:2022年3月12日(土) 開演 13時 開場 12時20分            ところ:観世能楽堂(GINZA SIX地下3階)

仕舞 屋島    谷本康介
   花月 キリ  谷本悠太朗                                
能  楊貴妃   坂口貴信
狂言 宗八    野村太一郎
仕舞 笹之段   観世銕之丞
   玉之段   観世清和
能  善界 白頭  谷本健吾 川口晃平

三人の会 チラシ

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3 編集後記(editor profile)

一灯照隅(いっとうしょうぐう)とは、知の巨人と言われた陽明学者、思想家・安岡正篤氏の言葉で、「自分のいる場所を照らす」を指します。

先の見えないコロナ禍で、どうやって私たちは自分のいる場を照らせばいいのでしょうか。私たちの体も心も天地宇宙からの借り物だと言われたのは、昨年亡くなられた筑波大学名誉教授・分子生物学者の村上和雄氏でした。いずれ時が来れば返さなければならない、自分をもたらしてくれた天に感謝して自分自身をまず輝かせることがその一歩だと説かれました。そして自分が輝けばいずれ自分の周りをも照らすことにつながると。

混沌としした先行きの見えない時代だからこそ、「自分だけは輝くぞ」と気概を持って折目正しく生きることがとても大切な気がするのです。自分の心を燃やして生きる、肝に銘じたい言葉です。

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

          責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子


〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊

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