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銀no琳派 銀座花伝MAGAZINE Vol.36

#ざわつかせる琳派   #民衆の力と自由   #酒井抱一の美意識    #銀


街路樹がこの3年の間に随分大きく育ってきた、銀座中央通りである。コロナ前までは、豪奢の極みを求めていた街並みも、現実に根を下ろし、今年のクリスマスイルミネーションは、密やかな美を求めていくことになりそうだ。

江戸時代に始まったこの街が、世界的な規模の商店街に成長する道筋は実に紆余曲折に富んでいて面白い。世界中のブランドの基幹店が並ぶ街並みには最先端のデザインや建築物が立ち並んでいるが、これらが実は江戸時代の美意識と繋がっているのではないか、そんな発見が美意識を辿る旅を俄然ワクワクさせてくれる。

桃山時代が発祥とされる琳派の美意識が、現代の私たちの暮らしに大きく影響もたらしている。本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、彼ら琳派のスターたちが、何を信じて、どんな美意識を作り出したのか、その精神性がなぜこんなにも現代の私たちをざわつかせるのか。
銀座との成り立ちと共鳴するその姿を追う。

銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に人々の力によって生き続けている「美のかけら」を発見していく。




1. ざわつかせる 琳派という生命力


◆魂が震えるアートの謎

そこには、銀を背景に夏と秋の草花が密やかに揺れている。広げられた二曲一双(にきょくいっそう)の屏風からは異界の風が吹き抜けてくるようだ。

ススキにからむ昼顔、赤い蔦(つた)の葉と青い実。夏のススキの葉には表と裏に色の違いが見える。昼顔の薄桃色がこちらを向いて何かを語りかけてもいるようだ。

「あなたは何を描こうとしたのですか」と問いかけてみる。

すると、

「中秋良夜瓢風驟雨」(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)

俳人らしい表現で「月のきれいな秋の夜と激しい雨後の野を描きたかった」とそっと囁くような声が聞こえてくる。
右隻には夕立の後の情景、左隻は野分の後を描いている。銀地は右隻では雨を、左隻では月夜を表している。なんと繊細できめ細やかな風情だろう。

長い時間絵師と語らいながら、この屏風絵を見つめていると不思議な感覚に襲われる。次第に右隻から左隻にかけて季節が流れていることが観えてくるのだ。

次の瞬間、作者はきっと時間を描こうとしているのだ!ーとハッとする。
1時間でも2時間でも屏風の前にたたずみ、時を忘れて異界に没頭してしまう理由はこの変化の風なのだ、と納得する。

『夏秋草図屏風』。
尾形光琳を一途にリスペクトし私淑をし続け、その美意識を超えて江戸琳派を生み出した絵師、酒井抱一の名画である。

東京国立博物館に所蔵されるこの作品は、銀座から程近い日比谷の美術館で企画展として何度もお披露目されてきた。ことに2018年に開催された出光美術館の展覧会はリアル描写とデザインを視点にした格調高い美術展として記憶に新しい。開催される度にこの作品に会いたい気持ちを抑え切れずに対面に出かけるのだが、その都度湧き上がる思いがある。桃山時代に端を発し江戸時代に花ひらいた「琳派」はなぜ筆者の心をこんなにもざわつかせるのか、という疑問である。いやこれは、筆者に限らず日本文化に心魅せられる人々全てにおいて、この作品に抱く共通する感覚なのではなかろうか、という気がする。

そのうちにふと、琳派が辿った道がどこか銀座の街の成り立ちに共鳴しているのかもしれない、と思い至った。時空を超えて自らに突き刺さるアートムーブメントの正体を、銀座の美意識を辿る旅の道すがら、抱一畢生(ひっせい)の名画をお供に探ってみたい。


酒井抱一「夏秋草図屏風」左隻 重要文化財  東京国立博物館蔵


酒井抱一「夏秋草図屏風」右隻(部分) 重要文化財  東京国立博物館蔵



町衆から生まれたアート 民衆の力と自由

琳派の3大スター絵師といえば、俵屋宗達(たわらやそうたつ/生没年不詳)、尾形光琳(おがたこうりん/1658〜1716)、酒井抱一(さかいほういつ/1761〜1826)である。その色彩感覚から宗達の黒、光琳の金、抱一の銀、などとも称される。

尾形光琳の金を使った作品から、一見華やかな作風でインパクトの強いというのが琳派の印象であるものの、実は「定義がないのが琳派」と言われるほどに枠が無く自由でユニークな深さにあふれているものなのであると、琳派研究の第一人者・静嘉堂文庫美術館の館長・河野元昭氏から伺ったことがある。静嘉堂文庫美術館は銀座から程近い丸の内の英国・クイーンアン様式の建築物が美しい三菱一号館美術館近くにこの10月世田谷から移転してきた東洋美術の殿堂である。

河野氏の洒脱な講話からは琳派が、いかに民衆の力によって磨かれたか(Democracy)、100年スパンという長い歴史で生まれ変わったか(Reborn)、いかに自由闊達なアートであったか(Freedom)、そのユニークさが、語り部の熱量と相俟って伝わってくる。



始祖は本阿弥光悦(ほんあみこうえつ) 

琳派の歴史の始まりは桃山時代〜江戸時代だと言われている。京都の書家であり、当時芸術センスの高さで有名だった本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が創始者で、「京都に平安時代の優雅な王朝文化を再興できないか」と洛北に京文化の原点回帰を求める芸術村を開設した。アートディレクターとして絵師・俵屋宗達(たわらやそうたつ)の才能を見出し、大作をコラボすることになったのが始まりである。

本阿弥光悦はいわゆる町衆(まちしゅう)の出身で、刀を製造販売する家柄だったため経済的に裕福であった(上層町衆と呼ばれた)。それまでの宮廷や武士が中心だった時代からの移行期に、能をはじめ芸術に目覚め、平安時代の藤原美術の復興に興味・意欲を持つようになる。平安美術の美意識の復興を共に実現してくれる絵師としてお眼鏡にかなったのが、当時町絵師だった俵屋宗達である。二人は、伝統的なやまと絵や水墨画を取り入れた風流な画風を開拓し、大きな人気を得ていく。その宗達の代表作といえば「風神雷神図屏風」である。宗達は背景を金一色にしたり、画題を金銀泥で描くなど、扇絵で培った画力や画面構成力を遺憾無く発揮し『伊勢物語』や『源氏物語』などの平安文学の世界を華麗に表現していく。


光悦の目指した「生活芸術」

光悦は、生活を豊かに彩るために芸術はあると提唱し(芸術民主主義)、町人階級の食物や食器、暮らしを彩る飾り物から着る物まで、見て「美味しい」「楽しい」を求める「生活芸術」を目指していく。

こうした光悦の情熱に呼応する絵師たちが、自分の求める絵を自由な立場で描きたいと時代を超え、宗達や光琳の作品を手本にしながら技術やセンスを受け継ぎ発展させる道筋を付けたのが琳派の流れであり、光悦の最大の功績だった。

琳派の革新性の一つには、それまでの屏風絵が6面左右一対 “六曲一双”であったのに対し、“二曲一双”というスタイルに変革したことが挙げられる。これは建具に絵を描くことで生活に用いる楽しさを追求したが故であり、自由表現が許されるきっかけにもなった。

また光悦自身は光悦蒔絵と言われる硯箱のような日常使いにデザインを施した木製漆塗「船橋蒔絵硯箱」(国宝)を残している。蓋甲を高く盛り上げた独特の姿の硯箱で、箱の外側は全面を金粉を密に蒔いた金地に仕立て,鉛板の橋を斜めに渡し,『後撰和歌集』に収められた源等(みなもとのひさし)の歌「東路のさのの(舟橋)かけてのみ思わたるを知る人そなき(東路の佐野の舟橋かけてのみ思い渡るを知る人ぞなき)」を銀文字で散らすという趣向を施した。古典文学に主題を求めたデザインと,大胆な装飾材料の用法を特色としていて実に麗しい作品だ。

光悦は芸事の中でもことのほか能を愛し、能面まで彫ったとも伝えられる。特に能「当麻」などの謡本(うたいぼん/詞章を綴ったもの)を自ら木活字という新しい方法で出版し、古典本である嵯峨本(光悦本と言われる)も手がけている(光悦の関与を疑問視する意見もある)。

光悦・宗達時代、宗達は工房で作画に臨んでいたが画派としての継承はなかったため、その画風は一旦途絶えることになる。しかしながら100年後に琳派の美意識を見つけ出した尾形光琳が宗達を受け継ぎさらにその100年後には酒井抱一が尾形光琳を受け継いで江戸琳派として完成していくことになる。
3世紀にわたる美の継承、これこそが現代人に共鳴を与え続ける時代を超えた美意識の本質である。

豆知識①:琳派の変遷
琳派第一期  本阿弥光悦  俵屋宗達
琳派第二期  尾形光琳(おがたこうりん)  尾形乾山(おがたけんざん)
琳派第三期   酒井抱一(さかいほういつ)  鈴木基一(すずききいつ)

豆知識②:琳派という名前の理由
近代につけられた呼び名。国内外で有名な絵師・尾形光琳が生きていた時代には彼らを表す特別な名称は無く「琳派」は存在していなかった。近代になり、光琳に通じる特徴のある絵を描いた絵師たちがひとまとめにされるようになり、1972年の東京国立博物館創立100年記念特別展で「琳派」が使われたのが最初で、以後それが定着した。美しい玉を意味する「琳」は琳派の絵のイメージと重なっている。


『風神雷神図屏風』 俵屋宗達 国宝 二曲一双 紙本金地着色江戸時代(17世紀初期)
各154.5×169.8㎝ 建仁寺蔵




100年を超えて、受け継ぎ、超える

100年後、宗達の作品に度肝を抜かれた尾形光琳は、宗達の作品をひたすら写し、華やかな装飾と抜群の構図力で琳派様式を大成させていく。
斬新な金箔使いや「光琳模様」と称されるグラフィカルな意匠は、後にクリムトやボナールなどヨーロッパの芸術家の心をも鷲掴みにし、西洋絵画に多大なる影響を及ぼしていく。代表作に「燕子花図屏風」(かきつばたずびょうぶ)、「紅白梅図屏風」(こうはくばいずびょうぶ)、宗達の画題と同じ「風神雷神図屏風」がある。


尾形光琳 燕子花図屏風(左隻) 国宝 6曲1双 紙本金地着色 江戸時代 根津美術館蔵



「私淑」ー先達に憧れ、師と仰ぐ

琳派は、私淑(ししゅく)という独自のスタイルで発展した美術である。「私淑」とは、憧れる師匠の手解きを受けることが叶わない絵師が、作品を手本として模写し、独習を重ね、天才のエッセンスだけを取り込んで新しい自分の作品を作り出すことである。先達の本質だけを学んで取り出すことで、琳派の精神が残されることになったのである。琳派の自由な気風はこのシステムに根差す。

尾形光琳よりさらに100年後、光琳を師と仰ぎ模写を繰り返し、江戸において琳派の華やかさに都会的な洗練を加えた絵画が生まれることになる。後に「江戸琳派」と呼ばれる立役者は俳人でもあった酒井抱一である。光琳画をひたすら追い求めた抱一が辿り着いたのは、光琳が金地に描いた作品を銀地に変えるという実験だった。
その代表例が光琳の「波濤図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)の金地を銀にした「波図屏風」である。この成功で抱一の銀が確立されて名画「夏秋草図屏風」へと繋がっていく。

豆知識③:狩野派との違い(二つの流れ)                                                               江戸絵画には、「狩野派」に見られるように中国様式の水墨画“漢画”をベースにした画風で、室町時代後半の足利将軍家や信長、秀吉、徳川幕府などの権力者の後ろ盾を得て、巨大にして強固な派閥を形成し、武士お抱え絵師一派として子々孫々まで手取り足取り、流派のお手本に則り型をすり込んでいく流派と、「琳派」のように平安時代のやまと絵に憧れたフリーな立場の絵師たちによって、独習という形で美意識を引き継ぎ、宗達や光琳の作品を手本にしながら技術やセンスを受け継ぎ、自分流に発展させたグループと、大別すると二つの流れがあった。


『風神雷神図屏風』 尾形光琳 国宝 二曲一双 紙本金地着色江戸時代(18世紀初期)
各 縦168.2 × 横186.6 cm 東京国立博物館蔵



江戸琳派を完成させた 酒井抱一

姫路藩主・酒井忠仰(ただもち)の子として江戸は神田小川町にある姫路藩別邸にて生まれる。酒井家は大名ながら文芸を愛する家風があり、兄・酒井忠以(ただざね)も多趣味な大名茶人で、抱一も若い頃から風雅文芸の道に親しみながら奔放な生活を送った。江戸の暮らしの中で書画、俳諧、諸芸の才能を開花させて、花街でもその名を知られる存在だった。武士の気風を持ちながらも若い頃は花街・吉原に出入りし、後に吉原の花魁を身請けして妻としている。当時、花魁を初めとした位の高い遊女は舞や芸事の他に文芸にも長け、大変に知的な人たちであった。小鶯女史(しょうらんじょし)と名乗った抱一の妻も教養高い人で、しばしば抱一の絵に書や漢詩を書いて合作をしてもいる。江戸時代において、吉原が文化サロンの役割を果たしていたことがうかがえるエピソードである。

兄・忠以が没すると抱一は出家し、武家の身分から開放され文芸の道に専念、絵ははじめ狩野派を学び、南蘋(なんぴん)派、浮世絵、土佐派、円山派などさまざまな流派の画風と技法を習得するが、後に尾形光琳に強烈に惹かれ私淑し、伝統的な大和絵をベースに雅で装飾性に富んだ琳派表現に、江戸文化らしい粋で瀟洒な美意識を融合させた独自の世界、いわゆる「江戸琳派」を確立していく。


めぐってきた待望の機会 ー光琳屏風裏絵への挑戦

抱一は光琳をひたすら模写する傍ら、「光琳百回忌」をプロデュースするために光琳の遺作を調べ上げ、版画図版「光琳百図」の刊行まで成し遂げる。そしてそのリスペクトの結晶が光琳作「風神雷神図屏風」の裏に描いた「夏秋草図屏風」である。

11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の父・一橋治済(ひとつばしはるさだ)へ贈呈するため、生家の酒井家より注文を受けた作品は、なんと憧れの光琳作「風神雷神図屏風」の裏絵だったのである。裏絵は、水墨でさらりと描かれることが通例だったが、千載一遇の機会を得た抱一は、地色に銀を用い、雷神の裏に雨に濡れた夏草、風神の裏に風にたなびく秋草を光琳以上にリアルに描写し、「銀の抱一」と称される自らの画業の集大成としたのである。ことに夏のススキの葉の表と裏の色と質感の違いの表現や昼顔の花の咲き方の筆捌きなどに見る、デザイン性とリアルが見事に融合しているセンスには、息を呑む。

その後江戸琳派は、抱一の弟子鈴木其一(すずききいつ)、池田孤邨(いけだこそん)に引き継がれ、江戸幕末までその美を継承した。

後半生を光琳の私淑に尽くし、光琳を超えようとした酒井抱一は、作品の中で実に詩的な遊び方をする絵師だった。京都で生まれた光琳の描いた屏風の「表絵」と江戸文化を透過させて描いた抱一の「裏絵」、金と銀が呼応している姿は、まるで高貴な音色が奏で合うかのような美しい響きを持って見手に迫ってくる。

そこには陰と陽が一体化した、崇高な個性のぶつかり合いが、観る者を驚愕させ震撼させる。この京の美意識と江戸の美意識が琳派という世界で融合した唯一無二の美を放つこの姿こそが、この作品の真骨頂にあるに違いない。


酒井抱一「夏秋草図屏風」全体 重要文化財  東京国立博物館蔵


◆現代に生きる琳派

精神を受け継いだクリエーター

銀座4丁目から晴海通り沿いを5分ほど歩くと、昭和通りにクロスする。左手に歌舞伎座を見ながら、さらに平成通りを過ぎたところに築地本願寺がある。そこに今も酒井抱一は眠る。文政11年(1828年)11月に没し墓所に葬られた。先日命日に築地本願寺を訪れ、抱一の好んだ秋草を手向けながら、江戸琳派の私たちの暮らし・美意識への影響の大きさに思いを馳せ、思わず合掌した。

400年以上も日本人の心を捉え続けてきたアート、琳派。なぜ、琳派は私たちのDNAをこんなにもざわつかせるのかー、その問の答えを求めながら見えてきたことがある。

銀座はその昔、江戸幕末から明治時代を迎え文明開化の嵐が吹き荒れ、銀座4丁目を中心に東京日々新聞社をはじめ、多くの新聞社が立ち並び情報発信のメッカだった時代を迎える。それに吸い寄せられるように広告・デザインの会社が集まってきていた。中でも、日本デザインセンターが創立されたことによって、未来の日本の産業やマーケティングを担うデザイン室やクリエーターが次々と誕生していった。近代日本デザイン創設期の立役者は、東京五輪(1964年)のポスターなどで国民的デザイナーと称され活躍した亀倉雄策(かめくらゆうさく)であり、それを引き継ぐ田中一光(たなかいっこう)だった。


私淑によって受け継がれた琳派デザイン

琳派の特徴、「Democracy」、「Reborn」、「Freedom」が誕生した背景には、「私淑」という美の継承システムがあったことはすでに触れた。琳派というのは血縁ではなく私淑の歴史であり、時空を越えて飛び火する現象だったのである。その意味では、20世紀において、一番強く琳派に私淑し、飛び火によってその表現が大きく燃え上がったのは、他ならぬ田中一光だと言われる。
特に田中は、歌舞伎や能などの伝統芸能、琳派や浮世絵といった近世以前の日本の美意識を西洋のデザインに取り込み、現代表現として着地させた作品群を生み出しアート界に衝撃を与えた。その作品は今や日本のグラフィックデザインの金字塔となっている。2002年に71歳で急逝するまで世界を代表するグラフィックデザイナーとして第一線で活躍し、今なお世界のデザインに影響を与え続けている田中に、美意識の多大なる影響を与えたのが他ならぬ「琳派」であった。

シン・リンパと呼ばれるクリエーターたちによる琳派の現代への蘇りを観る度に、長いスパンで生まれ変わり、生き続ける琳派の精神に基づくデザイン性に驚き、脱帽する思いがする。


田中一光作品 Noh(観世能)


田中一光作品 Nihon Buyo



おわりに

京都の美意識と江戸の美意識が合体することによって、琳派という美意識の世界観は爆発的に広がり新たなアートムーブメントを作り上げた。それは、現代に驚くほど鮮明に蘇り続けている。

銀座という街は、400年前には日比谷入江に浮かぶ江戸前島という島だった。江戸幕府によってその周辺は埋め立てが行われ、江戸城から続く今の銀座の場所に両替町が生まれ、銀貨の鋳造所が開かれるようになる。現在の銀座一丁目、銀座中央通りに面したティファニー前が銀座の発祥の場所である。
家康は、質のいい銀貨を鋳造するために京都から優秀な銀の金属加工職人をヘッドハンティングする。金属加工の職人というのは、気質として水田耕作民とは異なるどこか荒々しい、あでやかな、常識破りな感覚、つまり婆娑羅(ばさら)な精神性が宿っていたといわれる。銀は元々京都でも最も高貴な金属としての位置付けがあり、江戸においてもことさら重要な金属と考えられていた。
そんな婆娑羅の雰囲気を纏った銀職人たちは、持ち前の奇抜さで江戸の人々を魅了していった。異様におしゃれに敏感な感覚は特に銀座にファッションにおいて新モードを流行らせていくことにもなる。

銀座という街の名には、そうした非農業民の職人の感覚がつくる街、という思いと京都と江戸の合体という事実が込められている。
銀座の美意識が京の雅と江戸の粋が合体して出来上がった「粋上品」であると言われるのには、このような背景がある。文化のかけらさえなかった埋立地の江戸銀座に撒かれた種は、400年後になって商人が中心となって世界を代表する華やかでありながら、常に生まれ変わる街として花を咲かせた。

江戸期における銀座では花街で名を馳せた人物として先に紹介した酒井抱一の他、戯作者・山東京伝や出版プロデューサー蔦屋重三郎などが活躍し、まさに花街文学をはじめ洒落本・黄表紙・浮世絵など江戸文化の世界を広げていたのである。

当時の銀座8丁目あたりの芸事が盛んな街角で、もしかしたら抱一と筆者のかねてよりの特別のお気に入りの山東京伝がすれ違っていたのではないか、そんな妄想が沸き上がってきて思わずほくそ笑んでしまう。

だから、銀座の美意識を辿る知的好奇心の旅はますます止められなくなるのだ。

                                   

酒井抱一「富士図 絵手鑑」江戸時代 静嘉堂文庫美術館蔵



2. 銀座情報 江戸文化と珈琲の香り

◆江戸の見返り美人に出会うCAFE ー神乃珈琲

レトロな上質感漂う深いブラウンの店内に入ると、天井から床まで一面の壁に江戸時代の浮世絵美人がこちらを向いて微笑んでくれる。江戸美人画で名を馳せた菱川師宣筆による「見返り美人」がコラージュされて、表情様々に江戸の街の空気を伝えてくれるようだ。

茶道のように珈琲を点てる。

実はこの店はドトールの最高級ブランドの店である。そこには、名前「神乃」に込められた珈琲への深いこだわりがある。

菱川師宣「見返り美人図」絹本江戸時代


茶道のように珈琲を点てる

「珈琲は“抽出”ではなくて、“点てる”が相応しいと思っています。人と人が対面する場や家庭で珈琲を点てる、そんな珈琲作りをしたい」

ドトール珈琲の常務取締役でもあり、神乃珈琲の代表である菅野眞博氏は語る。経営者というより、エプロン姿がよく似合う職人風情の人柄である。

美味しいコーヒー豆を使うときは、紙の匂いが移らないようにフィルターを湯通しして洗う。新鮮なコーヒー豆はお湯をかけてあげると、CO2(二酸化炭素)を含んだ香りの成分ガスが出てくる。コーヒー豆は乾物と考えられているが、実際には生鮮品として考えるべき……、愛情あふれる珈琲談義には時間を忘れて聞き入ってしまう。

特に珈琲豆へのこだわりは半端ない。こだわりはあるものの、自分にはなんの技術もなかったことに愕然とする。コーヒーの質を決める原産地にこだわろうとすると、自分自身で開拓するしかないため、ひたすらコーヒー探しの世界の旅に出かけたという。例えばグアテマラSHB(ストリクトリーハードビーン)は標高1350m以上の高地で獲れたグアテマラ豆。実際に現地に行ってみると、高度や農園ごとに全然味が違う。そういったことを一つひとつ研究して、自分の血肉にしていって……そして辿り着いた進化型珈琲が神乃珈琲だという。

熱い思いを込めて自身の名前から転じて、「神」の文字を当てた。

心通わす落ち着いた時間に満たされる珈琲タイムは、都会の喧騒の中でふっと素に戻れる至福のひとときをもたらしてくれる。


おしゃれで芳醇な香 神乃ウインナーコーヒー



 3.   editer note

琳派の祖・本阿弥光悦そして尾形光琳が、幼少より能楽を習い、生涯にわたって謡(うたい)を愛好したことが知られている。絵画だけでなく、工芸や装束・謡本などまで含め、広く能の美意識が吹き込まれていると感じるのは、そんな背景があったからなのだ、と後から納得した。

姿はその人の心を写すー

その光琳は、手がけているのは「絵」ではなく、襖絵や屏風のような建具ーつまり「生活の一部として使われていた」ことが最も大切だと述べている。
しかも、屏風でいえば「裂け目」が一番面白くて、絵心を誘われるというのだ。裂け目の奥には、2次元的な世界から突き抜けてその先の異界に入っていく緊張感が生まれる、というのだから光琳の持つ特別な感性と視点に唸るしかない。

江戸が終わり、それまでは建具だったり、道具だったり、自分の着物だったりしたものが、明治以降西洋的な美術の見方が入ってきて、「使うもの」から「見るもの」に変わっていった。つまり身体とか生活から分断され、いわゆる手触りがなくなってきたと言えるのかもしれない。

それでも、琳派が目指した生活芸術のセンスのかけらを、現代人が今の暮らしの中で見出して行っているのだな、と引き継がれた仕事にその痕跡を見る度に驚き、未来への勇気をもらう。

つながり創造する美意識に出会う旅は、筆者自身の心の底に眠る時空を超えた美意識の発見にもなったようだ。

本日も最後までお読み下さりありがとうございます。
                  責任編集:Ginza Teller 岩田理栄子    


〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         ギンザ・テラー / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊









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