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詩)3.11の記憶と記録は10年でどうなろうとしている?東電 福島 DASH村で

2021年3月11日
罪だと感じ続けたくない
忘れたい
もう10年で終わった
復興とはもう言わない と

東京電力は原発事故後に福島第1原発などで行ってきた3月11日の社長訓示について、今年はオンライン形式とし、終了後の報道陣の取材に応じないと公表した。原発事故後、東電の社長が3月11日に福島県を訪れず、取材にも応じないのは初めて。
原発事故から10年が経過する中、小早川智明社長自らが説明責任を放棄した形となり、東電の当事者としての責任感が薄れていることが浮き彫りになった。
東電の社長は例年、3月11日に廃炉作業の最前線となる県内の各現場を訪れてきた。震災が起きた午後2時46分に黙とうし、事故の教訓や本県復興に向けた思いを社員に訓示した後、報道陣の取材に応じるのが通例だった。

記録は希望への導火線だ
なにがありなにがなかったか
形になるまでどういう試行錯誤があったのか
なにを繰り返し議論したのか 
過ちを見つけ出すためにも

福島第一原発事故以降の行政文書が福島県や県内市町村で続々と廃棄処分されている問題で、福島県福島市が2011年12月、山形県山形市や米沢市に原発避難した市民を対象に開いた説明会の記録も、「保存期限を過ぎた」として廃棄されていた事が分かった。廃棄されていたのは、福島市が2011年12月27日に山形県山形市と米沢市で開いた「避難者説明会」の記録と、福島市職員が両市に定期的に出向いて開いた「自主避難者行政相談窓口」のうち、2015年3月末までに受け付けた記録票。同市の情報公開制度を使って開示請求をしたところ「文書が存在しないので開示出来ない」との回答があった。市生活課によると、庁舎内だけで無く、行政文書を補完している倉庫にも出向いて探したが見つからず「廃棄された可能性が高い」
 当時の担当職員が作成した「まとめ」のような文書がパソコンに保存されていた、として開示されたが、A4判1枚(両面印刷)しかなかった。「渡利を特定避難勧奨地点として指定してほしい」「測定の結果、線量が高くても除染が開始されるまでは待つだけ。どう考えるのか」「食品にベクレル表示をしてほしい」などと書かれているが、それらの声に市側がどのように回答したのかは分からない

福島県双葉郡浪江町の津島地区
かつてDASH村があったところだ
時間が止まっている
復興というより何も変わってない。
人が住まなくなったこと以外は

津島地区は福島県の沿岸部から西へ広がる浪江町にあり、原発からは約30キロ。原発事故に伴い帰還困難区域に指定され、津島地区には今でも住めない。
住民たちは今、別の場所で再スタートしている。

この津島地区には、原発事故前から“警告”が発せられていたという。
「原発ができる前に専門家が来て、『事故になったら、ここは必ず線量が高くなる』と話していたと地元の人から聞きました。谷になっていて風が流れ込みやすいというんですね。実際に専門家の言っていることは本当でした。

「先月、津島地区の地面近くを測ったら警告音が鳴るほど高い数値が出ました。線量が高くなりがちなのは自販機近くのごみ箱。空き缶がサビると、そのサビに放射性物質が付きやすいのです。あとはコケ。コケはカリウムを摂取するのですが、似ているセシウムを摂取してしまうからだと聞きました」

置き去りにされた車もまだ多く残っている。
11年5月に撮られた白い軽トラは、10年後の2月もそのままだった。違うのは、10年前は車体にメッセージが残されていたこと。
「茶色の犬を保護しました」との言葉と携帯番号が書かれていた。

これからなにが始まる?記憶と記録は閉じられ。

まだなにも終わっていないのに
なにかも置き去りなのに。

声も薄れて 消えていくのか 福島 原発 人間

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