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詩)日野コンテッサ1300 三日月の昭和

男はその時 何か欠けている 三日月
女は もちろん 知っている
知らないふりをして やり過ごし
お互い よりかっかっているような
いないような 
それが家族という
形に見えていて

日野コンテッサ1300 記憶に残る最初の車だ。コンテッサは日野が自慢のクーペ。車体は何色だったろう。思い出せない。
親父は家族を乗せて運転することが大好きだった。生きがいだった。息子は男2人の兄弟。2人は後部座席に座らされ、母は助手席にちょこんと座った。母は助手席が好きだった。「助手席にさえ座っていれば、おとなしくしている」いつも口癖のようにそう言っていた。

夏休みは海へ行く。恒例の和歌山加太海岸。ハマチの養殖 バシャバシャと跳ねるハマチを刺身にして食べる。固くしまった身。噛みづらく生っぽい。あの感触がずっと記憶に残った。ハマチの刺身はずっと苦手だった。

日曜日といえば車ででかける。買い物も車で。また次の日曜日も車でどこかへ。少しよそ行きのかっこうで。親父は運転していると必ず「どうだ楽しいか。楽しいだろう」と声にだしていう。「そらあ楽しかばい」おふくろが福岡弁で自分で答える。

実は小学生の僕にとってそれは一種の儀式であり拷問でもあった。まず車の匂いが苦手。さらに香水のような消臭剤はもっと駄目だった。車のモーター音。うっとなるのだ。なんだかすぐ車に酔う弱い兄貴。俄然はしゃぐ弟。弟の前で酔う姿を見せるのは嫌だった。
それにもう一つ。煙草だ。親父はハイライトを吸う。当然車の中でも吸う。いまみたいに禁煙意識なんて全くない。窓を開け、美味そうに、ドライブを楽しみながら。
何の疑問もなく、親父を筆頭に妻である母と僕ら兄弟は、いつも親父の運転であちらこちら回った。
昭和。日本中で 何の疑問を持たず 民族大移動が繰り広げられ 日曜日が終わると月曜日に張り切って仕事に出かける 夜は夜でせっせと励む。それが昭和。

日野自動車は1967年には乗用車部門から撤退、コンテッサーは短命で終わった。日野自慢のクーペは昭和の記憶とともに忘れ去られようとしているんだが。

いまやうろ覚えの記憶の中で
家族の格好をした僕やぼくら。

男はその時 
きっとあると信じた
車一台の中にあった「幸せ」

親父はハンドルを握り 僕らは必死についていった

その親父も弟も逝ってしまった 
昭和はいまも欠けたままの三日月


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