見出し画像

私と「美」との出会い。マティスから祭囃子まで

「美しい」と私たちが思う時、もしくは思わず声に出さずには居られない時に、どんなことが起こっているのだろう。「あーあれは美しかった」という過去の出来事として美を認識するということもあるかもしれないが、通常それは即座に判断される。
美しさの判断というのは趣味判断である。というカントの言葉からすれば、自然美はより一般的な形で私たちが共有できるものではないだろうか。夕暮れ時の河原で、川面に映る夕陽や、風にそよぐ草花を見る時。また満開の桜の木の下で花びらが散っていくのを見る時。また幼子が、その手を伸ばしてたんぽぽの綿毛ををつかもうとする時。美しくないと思う人がいるのだろうか。もちろん、その時の自分の心の状態や、差し迫った仕事に心に余裕がなく、その美を認識できない時もあるとは思うが、一般的に言ってこの様な瞬間に出会ったとたんに、心が美を捉えるのは何故だろう。これらは、私たちに考える隙を与えない美の認識の瞬間である。
 わたしにとって、最初の芸術美との出会いは、マティスの切り絵だった。大胆な色の組合せ。リズムと躍動感。その絵を見た時にすぐに、これは私の求めているものだと思い、マティスの才能に感じ入った。その後大学の夏休みを利用して、南仏へマティスを見に飛んでいったのだが、30年近く前の事で、今はもうニースの美術館だったのか、ロザリオ礼拝堂だったかうろ覚えである。しかし、こんなにも(自分の捉えていた)美を直接的に表現できるマティスが、その芸術美を生み出していた場所に少しでも近づきたかった、若い情熱からの行動であり、原初的なわたしと芸術との出会いである。
 その後、いろんな芸術や美というものに出会ったが、物心ついた時からの、自分自身に対する美意識というものがある。これはエステティックなものであるが、その美意識がどこから来ているかといえば、私の場合は祖母や母親から受け継いだ、感じ取ったものであったと思う。特に母方の祖母はこの美意識に優れていて、人前では必ず口角を上げて微笑する。また朝に目が覚めると必ず鏡の前に座り、丹念に化粧から一日を始める。家の掃除をする前であってもだ。これはわたしにとってのいわば「美のイデア」の様なもので、やがて憧れを生み出し、大きくなったら、お母さんの様に、とかお祖母ちゃんの様にといった、一つの方角を持った美意識を生み出していったと思う。もちろん、身近にこういったロールモデルがいない場合、憧れの芸能人に倣い、その美しさを少しでも自分のものにするべく、美的教育を自ら行っているのではないか。
 しかし昨今の、この美意識に対する過剰なまでの探求は、やがて画一的な「美しさ」や「可愛さ」に向かって行っている様な気がする。ここでの「美」とは、カントのいう趣味判断にならず、もっぱら他人の目を通した「美」となっている事が問題である。二重手術や整形のコマーシャルを見ていると、大体が一定の美の基準に向かっている。もちろん先に述べたように一般的な美しさの感覚は否めない。それが後天的なものであっても、誰がなんといっても美しい人というのは存在すると思う。しかし、それが「美のイデア」であるかどうかは、その人自身の趣味判断であり、そのことを問う事自体が、その人の美意識を成長させてくれるものとなるのではないか。
 
 最後に日本的な「もののあわれ」といった感覚について。これも自分自身の経験からだが、京都の祇園祭について、書いておきたい。7年前に関東から京都に越してきて、はじめのうちこそ、あのお囃子の音は「うるさいなぁ」という感覚であった。しかし6年間、毎年聞いてきた今となってはあのお囃子の音が恋しくなっている自分がいる。夏が来たという感じと、なにかあの音色には寂しさ・哀しさなども混じっている様な、独特の音階なのである。1年前に、今の豊岡に移り住んでからも、7月も半ばになってくると、何か物足りないとステレオでお囃子の音を流してみる。もののあわれというのはこういう感覚の事なのだろうか。聞いていると、しみじみとした気持ちで、京都での日々を思い出し、この一瞬一瞬さえもが常に過ぎ去っていく時間であり、過去に過ごしたいくつもの夏が折り重なって、目の前に現れるかの様な感覚に襲われる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?