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下町音楽夜話 Updated 002「T字路」

40年近く前になるが、運転免許を取り立てのころ貴重な体験をした。その頃、南柏駅の近く、住所では流山市になるマンションに住んでいた自分は、散々に遊び尽くした後、ヘトヘトになって帰宅の途についた。眠くて仕方ないのに、水戸街道は大規模路面改修工事とかで大渋滞していた。もう少しで家だというのに、10メートル進むのに10分以上かかるような始末だった。

常磐線の線路とは反対側の裏道に入って、不案内ながらもとにかく方向感覚だけを頼りに進んでみた。ほんの1分も走るとT字路にぶつかった。左に曲がると元の水戸街道に出てしまいそうだと思い、右に曲がった。10分ほど走ったところで、見覚えのある交差点に出た。もとのT字路に出てきてしまったのだ。仕方ないと思い、左に曲がったが予想外に水戸街道にはなかなか出なかった。そしてしばらく走ると、何とまた同じT字路に出てきてしまったのだ。

T字路の正面には、もう12時近くだというのに、クリーニング屋が明るい照明をつけており、ガラス戸の店のなかで親父さんが暑そうにシャツ一枚で立っている。まだ働いている風情であった。同じT字路を右に曲がり、左に曲がり、それを何度も繰り返し、ぐるぐる回っているということは意識していたが、どうすることもできず、一時間以上もそうやって走っていた。何度目かに同じT字路に出てきたとき、いつから気がついたのか、クリーニング屋の親父は訝しそうな顔をしてこちらを見ていた。向こうにしてみれば、同じ方向から同じ車が何度も来るのだ。不思議に思っただろう。

自分は、そこで車をおりていって道を訊けばよかったのかもしれない。しかし、もうその時点でその勇気はなくなっていた。ともかく数え切れないほど、クリーニング屋の前を右折し、左折した。ガソリンはだんだんなくなって来るし、走っていて見える景色は、家の近くのはずなのに、全く見覚えがなく、竹やぶが妙にゆれているのが、いっそう不気味に映った。背中は汗でびしょびしょになっていた。もう、おりていく勇気もなければ、どうすることもできなかった。ただ割と冷静に、なぜ自分はパニックにならないのだろうと考えたりもしていた。

翌日の昼間、まだ同居していた母親を連れて現場検証にいってみた。そして現場で、あらためてゾッとすることになった。クリーニング屋が正面にあったはずの、そのT字路は確かにあった。しかし、T字路の先は数十メートルの落差がある崖になっていた。クリーニング屋があったはずのところは空中ということになる。不思議な気分のまま、そして助手席の母親に笑われながら、周囲を走ってみた。確かに昨夜、走った景色と同じようではあったが、元のT字路に戻ってくることはできなかった。「こっちは八柱霊園の方かねえ」などと、からかうように母親は笑っていたが、自分は「もし車を降りていって、クリーニング屋に道を訊きに入っていたらどうなっていただろうか」などと考えてしまい、さらに怖気づいてしまった。それから、数年間は裏道に入るということができなかった。

東京の下町、江東区あたりの碁盤のような道では、まず経験しようのないことではあるが、こういった経験をしたことのある方は、この辺にはいないのだろうか。最近の下町では、河岸の柳が風に揺れ、白い着物の女性が立っている…というほどの風情がない。明るすぎて暗がりすらないのだから、仕方ない。それでも東日本大震災以降、無駄に明るいということはなくなった。しかもスカイツリーができたおかげで、方向感覚を失うこともない。以前は知らない町をうろつくことが大好きで、意図的に迷子になるようなこともして楽しんだ。残念ながら今の下町ではそういった楽しみは失われたようだ。

豊かな低音のみを紡ぎ出すようにブルースを歌うカサンドラ・ウィルソンのヴォーカルは、高音域や中音域を意識してカットしてあるかのように響く。ヴォーカルとベース・ラインが絡むさまは、まるで2本のベースが掛け合いをしているようでもあり、色気すら感じない。彼女のヴォーカルは個性的ではあるが、ただあまりに美しすぎて怖い、という気分になることがある。疲れたときには、聴かないほうがよい。癒されることは、まずない。

ちなみにあの夜、どうやってその状況から抜け出したか、おわかりだろうか。そう、ふと思いつき、バックして戻ってみたのである。必死で最初に入ってきたはずの方向に、バックで進んでいったのである。ラムダは広報視界が広く、バックはし易いクルマだった。そして見慣れた水戸街道まで出たときの、安堵感といったらなかった。あれだけ並んでいた車はどこへ行ったのか、渋滞は嘘のように解消していた。がらがらの水戸街道を10分ほど走って家にたどり着いたときには、もう立ち上がれないのではないかというほど疲れていた。

怖さゆえ必要以上に大音量で陽気なロックを鳴らしていたあの夜、あの兄貴から譲ってもらった三菱ギャラン・ラムダの中で、もしカサンドラ・ウィルソンの呟くような声を聴いていたら、取り返しのつかないことになっていたかも知れないという気分になることもある。暑くて堪らないような日は、カサンドラ・ウィルソンを聴きながらこの時のことを思い出すと、間違いなく涼しくなれるのである。

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(本稿は下町音楽夜話003「カサンドラ・ウィルソンを車の中で聴かない理由」に加筆修正したものです)

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