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2人の子供をバイリンガルに育てて今思うこと

私にはアメリカの片田舎で生まれた子供が2人(現在26歳の息子と23歳の娘)います。知られたメソッドもない中、ほぼワンオペで日本語を教えた結果、何とかふたりとも英語と日本語のバイリンガルに育ってくれました。

今回はそこに至るまでの来し方を振り返りつつ、バイリンガル子育ての経験者として私が今感じることを綴っていきます。



バイリンガル子育ての動機

まず、私と元夫が子供をバイリンガルに育てたいと思った動機は

  1.  日本に住む私の両親が子供と日本語で会話ができるように

  2.  将来子供が日本に住みたいと思った時に言葉が障壁にならないように

  3. 日本の歌や物語を日本語で伝えられるように

ということです。
が、私の中で一番強い気持ちとしてあったのは1番でした。

2回の流産と高齢出産を乗り越えて(娘はさらに2回の流産の末に誕生)生まれた息子の誕生を心から祝福して子育てを応援してくれた両親のことを思うにつけ、「孫とは日本語で話せるように育てなければ!」という半ば使命のようなものを背負っていました。

今思えば、日本語が分かるように育てようという動機がこんなウェットな思いだったからこそ、長い旅路を歩いて来られたような気がしています。

「継続は力なり」

これは、本当です。
自分の心の中に夢見るもの、あるいは辿り着きたいゴールがあって、毎日わずかでもいいので、それに向かって何か一つのことを実行する。
それが1週間、1カ月、ひいては1年、3年と続いていけば、何かが変わります。

日本語を教えるためにやったこと4つ

私たちが住んでいたのはアメリカ、ノースカロライナ州で子供の父親はアメリカ人でしたから、放っておいても子供の母国語は英語になるという環境でした。

なので、日本語を教える務めはひたすら私の肩にかかっていた訳で、私が頭をひねって、日本語を教えるためにやったことは…。

①  何でもかんでも日本語で実況中継

私は子供をだっこし、家の中や外を歩き回って私の目に映るものを何でもかんでも事細かに、まるで野球の試合でアナウンサーが実況中継をするかのように日本語で話して聞かせていました。

「今日は天気がいいわねえ〜。昨日はまだつぼみだったお花が今朝は開いたわねえ。赤い花です。あら、ハチドリが飛んできた!」

「あ、パパがおでかけよ。今日は青いシャツと黒いズボンでおでかけです。」

「これからランチの準備をするよ。今日は何にしようか?ママはスパゲッティがいいかなあ」

ま、こんな具合に、私がひとりでいれば無言で心の中で思っているようなことを全部音声に変換する感じです。

慣れるまでは、はっきり言って疲れました。でも、そうするしかないと思って割り切ってやってました。笑笑

②  本の読み聞かせを習慣化

これはよく言われることですが、本の読み聞かせを楽しいと感じてくれる子供に育てることは非常に重要だと思いました。

日本に一時帰国した際にはスーツケース一杯、重量制限ギリギリまで絵本や童話を詰め込んでアメリカに持って帰ったものでした。

なるべくたくさんの本を持ち帰りたかったので、新品の本はなるべく買わずに古本屋を巡って1冊100円くらいで手に入る絵本を山のように買い込みました。

日本語が分かるようになったら本を読んで聞かせるのではなく、日本語が理解できるように育てるために小さい時から(分かる分からないは関係なく)滝のように日本語のシャワーを浴びせた感じです。

読む側が楽しんで読むこと、感情を込めて読むことも大切です。

棒読みだったり、親がつまらなそうに読んでいたのでは、子供は乗ってきません。一緒に楽しむことが大事です。

③  車の中で日本語の童謡や童話の録音を流す

アメリカの生活は車の移動と切っても切れない関係にあります。

日本の田舎では車が必需とはよく言われますが、アメリカの田舎ではおそらく乗っている時間と距離がその10倍はあります!

私が子供を車に乗せて移動する膨大な時間を何もせず、無駄に過ごすはもったいないので、私はほぼいつも日本で買ってきた日本語の童謡や童話のテープ(当時はカセットテープ!)をかけていました。

少し大きくなってからは、長いお話を吹き込んだCD、今で言うところのポッドキャストのような内容のものもどんどんかけていました。

④  フラッシュカードで日本語の語彙を教える

日本にいれば自然と耳にするような言葉も、アメリカにいたのでは耳にするのが難しいものがあります。

語彙を補足するため、私はいろんなものの絵が描いてある幼児教育用に用意されたフラッシュカードを通販で購入し、ジャンルごとに名前を日本語で読み上げて聞かせていました。

いくら家の周りを歩いたところで象やライオンはいませんから、普段見ることのない動物の絵、懐かしい日本のさくらなどの花や植物の絵、食べ物や家具の絵など様々です。

子供の脳は吸収力が大人より断然すぐれているので、覚えたかどうかすぐには分からなくても、「えっ!覚えてるの?」と大人がびっくりするようなことがそのうち起こります。

日本語子育てを可能にした5つの要素


1.  テレビのない生活
当時の私たちの生活には日本語のテレビを見る時間というのがなかったので、逆にそれが良かったのかも知れません。

小さい子供はテレビから言語を学んだりしません。

私の従兄弟はまだ赤ちゃんだった頃、両親が共働きだったため来る日も来る日も近所のおばあちゃんの家に預けられていました。

赤ちゃんを抱っこして世話をするだけの体力のないおばあちゃんは、ご飯を食べる時以外は従兄弟をずっとテレビの前に座らせて子守をしていました。

そのうち、両親は従兄弟と同年代の子供たちが言葉を話すようになっているのに「うちの子は何も言わない」と心配になり、医者に診てもらいました。

「どういう育て方をしていましたか?」
「ずっとテレビの前に座らせていました…。」

テレビは、人の代わりにはなりません。

私は、子供が言葉を学ぶ瞬間には何か人との交わりがあって、例えば、誰がどういう状況で何と言ったのか?を理解し、

その時に子供が自分の目で見て、耳で聞いて心が感じたものが言葉(=意味の分かる音声)として言語野のシナプスがつながっていくのだと思っています。

繰り返し聞くことも重要です。何度も何度も同じ経験をすることで、言葉は定着して行き、どう言った場面で使うのが適切かという理解を深めます。

2.  親の考え方
子供をバイリンガルに育てるというのは、一般的にはとても好ましいことのように捉えられていますが、そうは思わない人もいます。

アメリカでお世話になっていた美容師さんはハンガリーからの移民2世でアメリカで生まれ育ったため母国語は英語になりましたが、お母さんとはハンガリー語で話していました。

彼女はひとり娘にハンガリー語を教えたいと望んでいましたが、ご主人はアメリカ人でハンガリー語を理解しないため、家の中で妻と娘が自分の分からない言語で会話するのを拒みました。

悲しいことですが、それで彼女には娘にハンガリー語を教えるという選択肢がありませんでした。

私の元夫はJapan as No 1の時代に日本に在住した経験もあり、日本の価値を理解していたので、私が子供に日本語を教えることを応援してくれました。

なので、家庭内では私と子供とは日本語、子供は父親とは英語、みんなで話すときは英語という環境が次第に定着していきました。

3.  ステイホームマム(専業主婦)でいられたこと
どれだけ優れたメソッドがあっても、バイリンガル子育てを成功させるにはそれを実行するための人、そしてその時間と場所が必要です。

もし私が子供を誰かに預けて毎日フルタイムで働いていたら、経済的な余裕は大きくなったかも知れませんが、子供に日本語を教えようとあれこれ知恵を絞る時間的余裕は恐らくなかったでしょうし、そもそもその体力的パワーが残っていなかっただろうと強く思います。

その意味では、経済的な余力を確保してくれた元夫に感謝しています。私は器用に複数のことをこなせるタイプではないので、もしフルタイムの仕事を持っていたらきっとそっちの方に集中していただろうと思うからです。

バイリンガルに子供を育てるには、相応の人的環境作りは必須です。

4.  日本との結びつき
日本は私には母国であっても、子供には見知らぬ国、アメリカとは違って(最近はそうでない人も多くなりましたが、)目も髪も黒い単一国民からなる遠い国です。

娘が確か4歳くらいの時、「なぜ私に日本語なんか教えようとするの?日本語を話す友達なんか誰もいないのに!」と反発されました。

娘の思いはもっともで、そういう思いを持つに至った子に日本語を強制するのは止めようと、娘にはそれから日本語の読み聞かせなどをすることはなくなりました。(最近、娘は「何故あそこで私を説得して日本語を教えることを続けてくれなかったの!」と嘆いていましたが…。笑笑)

子供に、「自分の半分は日本でできている」ということを体感してもらおうと、私は子供を連れて毎年のように一時帰国していました。(元夫もよく一緒に来ていました。)

経済的な余裕があったのね〜と言われそうですが、日本での滞在費は実家にお世話になることでカバーしてもらい、日々の生活も倹約を旨としながらアメリカ版陸マイラーを決め込んで渡航費用を捻出していたのです。

そうすることで日本の食事を楽しみ、日本語を話す人々と触れ合い、折り紙を折って七夕飾りをし、金魚釣りをしにお祭りへ行くなどの日常を知ることで、次第に子供たちは日本に慣れ親しんでいきました。

やはり、そうやって自分の日本側のルーツを知ることも子供たちの成長にじわじわと影響を与えていくことは間違いありません。

5.  個人的な強い動機
最後に、これはやはり一番の重要事項で、日本語が話せるようになってもらいたいという「強い動機」がないことには実行が伴いません。

「ローマは1日にして成らず」ならぬ、「言葉は1日にして成らず」です。

「必要は発明の母」と言いますが、「継続の母」でもあると私は思っています。

月並みなようですが、動機の根源は愛でした。

両親が私に注いでくれた愛情に、私の子供が日本語でおじいちゃんおばあちゃんと会話することで報いたいという強い希望が私にはありました。

それがなくて、単にバイリンガルはカッコいいからとか、将来役に立つと思うからというような思いだけだったら、きっとあそこまで自分の時間を割いて、時には子供と対峙しつつも日本語を教えようという気にはならなかっただろうと思います。

結果と現状、そして

以上4,000字程で振り返ることができたのは、ほぼ息子が5歳ほどになるまでの話で、娘のことについてはわずかしかご紹介できませんでしたが、そちらはまた別の機会に…。

結果として、苦労の甲斐あって息子は日本語を日常的な会話なら問題なく理解し、日本で育ったように自然に会話できる青年に育ちました。今は他界した私の両親とも何の問題もなく(当時)会話していました。

ただし、日本語学校へ通わせられるような環境ではなかったので、読み書きの方はまだまだと言ったところです。

娘の方も今では私と英語を半分ほど交えながら、日本語でも会話するまでになりました。密かに漢字の練習などもやっているようです。

さて、ここで日本語教育はすべて私が成し遂げたものかというと実はそうでもありません、多分。

と言うのは息子がまだ小さかった頃、とあるアメリカ人のアドバイスでバイオリンのレッスンに通わせ始めたからです。

結果的にそれは息子が地元の芸術大学音楽校を卒業して演奏家としての学位を取得、今では週末に教会や結婚式などで弾いて収入を得るまでになりました。

「日本語とバイオリン?何の関係があるの?」と言われそうですが、これを説明するのも長い話になりますので、今回はこの辺で終わりにします。

私の経験談がお子さんの言語教育でお悩みの方の一助になれば幸いです。


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