見出し画像

 博士は、とにかく真面目で有名だった。ただ優秀なだけでなく、己の利益を度外視して社会のためにひたむきに研究を続けられる人だった。

 今日も博士は研究に没頭している。最近開始した、ワクチン開発のための研究だ。世界的に大流行し多くの死者を出している、あるウィルス感染症をなんとか食い止めようと、寝る間を惜しんで実験を続けていた。

 そこへ、医大生を名乗る男から「私を助手として使ってくれませんか」という連絡があった。どこで博士の研究を聞きつけたのか知らないが、毎日感染者が増えていく状況を黙って見ていられず、少しでいいから手伝わせてほしいとのことだった。

 博士は断ろうとした。実力のある協力者がすでに十分いたからだ。一刻も早いワクチンの開発が必要なこの状況で、医学生の勉強に付き合ってあげられる余裕はない。

 しかし、博士は結局彼を研究室に迎え入れた。彼の圧倒的な熱意と勉強量に負けたのだ。よく独学でここまで、というレベルの知識量が彼にはあった。世界を救うという使命感がそうさせたのか、博士が進めていた研究の3割ほどは、彼がたった一人で検証を終えていた。


 彼を助手として起用してから、博士の研究は加速した。仕方なく研究への参加を許した博士だったが、彼は想定していたよりはるかに役に立った。

 彼は1時間のうちに何度も博士を呼んでは新しいアイデアを出した。簡単には進まない研究だ。見えてきた光明が消え去るたびに、彼の新しいアイデアが博士を救った。

 数えきれない試行錯誤の末、助手はまた博士を呼んだ。

「博士、見えてきました! おそらくこのパターンです」

 この研究の最中に何度も起こったことではある。これでいける、ついに完成だ、と思って進めると、どこかで思い通りの反応が見られなくなるのだ。今回もそれか、と頭の片隅で思いつつ、博士は彼の実験結果を覗き込んだ。

「これは…」

 博士は絶句した。極めて優秀な博士である。ワクチンの完成と言っても差し支えない実験結果だということが、さらなる検証をする前からわかったのだ。

「素晴らしいよ、ついに完成だ。おめでとう」

 そう言った博士の顔は曇っていた。素直に喜べなかったからだ。

「この研究結果は、君が発表するといい。君が成し遂げたものだ」

「いえ、そんな、博士の研究ですよ」

 助手は驚いて、博士に駆け寄った。博士が大きなため息をつく。

「私は、真面目で優秀な研究者だと自分のことを思っていた。世間もそんなふうに私を評価してくれた。本気で社会を良くしたいと考えているし、そのためならどんなに大変な研究でも頑張れる。でも、そこには自分がリーダーであるという大きな前提があったんだと気づいたよ」

 博士は助手が使っていた実験器具を乱暴に床にぶちまけた。

「自分でやりたかったんだ。この手で世界を救いたかった。手伝ってもらうのは問題ないが、あくまでそれは補助だ。私はいつの間にか、君に頼りすぎていた。これではどちらが助手かわからない。ああ、もうこの研究は終わりだよ」



 助手は博士の研究室から飛び出し、拾ったタクシーの中で依頼人に電話をかけた。

「成功しました。研究は潰しましたし、博士も当分は動かないでしょう。成果分の報酬も振り込みをお願いします。ええ、いただいた資料が役に立ちました。音声データも改めてお送りしましょうか? はい、そのように」

 電話を切ると、彼は運転手に話しかけた。

「自分の手で成し遂げたいという気持ちって難しいですよね。同じことを成し遂げようとしている人が何人もいたら、誰か一人にしか叶えられない願いですから。まあそのおかげで僕は食えてるんですけど」

 彼は運転手の返事を待たず、「ここでいいです」と言って財布を取り出した。運転手も特に返事はせず、ただ淡々と運賃を受け取った。

いつもありがとうございます。いただいたサポートはすべて創作活動に投資します。運用報告はきちんとnoteにて公表。そしてまた皆さんに喜んでもらえるものを提供できるよう精進いたしますので、何卒よろしくお願いします。