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生きづらさの紐とき。第3考「あるある、の癒し」

*本当はそれぞれオリジナルないきづらさ

単に「いきづらさ」といっても、社会と適応できないつらさや、自分に自信を持てないつらさ、自律神経の乱れによる気分の不安定なつらさ、など、実際には中身は様々ある。

一般的に考えられているよりもずっと複雑で人によってバラバラなのだと思う。脳疾患、精神疾患、神経症、認知のクセ、記憶、経験、トラウマ、インナーチャイルド、自律神経、体温、内臓、循環器系のことや、ホルモンバランス、天候、気圧、季節、日々の生活習慣……あらゆる絡みあいのなかで、結局はそれぞれがオリジナルの「いきづらさ」をもっているんだ。

一方で、それだけ多種多様なはずなのに、総じて「いきづらさ」とまとめてみても、意外とみんなが似たようなつらさの感覚をもっていることは興味深い。

*「わかってもらえない」の共有と共感

なぜ総じて括れるのかというと、つらさそのものではなくて「つらさを理解されにくいつらさ」が「いきづらさ」の本質だからだと思う。
1考、2考ではそれについて考えた。

僕は「いきづらさ」の「理解されにくさ」を、みんなで共有してみるのがいいと思い「いきづらさあるある」を、おしゃべりするというワークショップを行なっている。

こういったやりかたは、お互いを慰め合うだけ、と言われることもある。けれど、凍えそうな人がバラバラにじっと耐えてもしかたがない。集まって少しでも暖をとるのが自然な行動だと思うんだ。

ただ、暖をとりながら寒い寒いと言っても、これまた仕方がない。「寒すぎて、もう笑っちゃうね」と笑いあえることができれば嬉しい。それってあたたかさがあると思うんだ。
もし「私がいちばん寒くてつらいんだよ」とみんなが言いだしたりしたら、そこは余計に冷えこんでしまうだろう。

そこには「共感」の問題がある。
あることをみんなで共感できたときには、一体感がうまれる。自分だけじゃなかったんだという安堵感もあるし、親近感も湧くし、微笑ましいというか、まさに「あるある!」というような笑いが生まれやすい。

しかしそれとは別で、話す側が「わかってほしい」と周りに共感を求めだすと、それは底なしの欲求になることがある。どれだけ満たしてもどこからか流れ出ていて、そのうちに共感が足りないと言い出し、周囲を非難することもある。

「共感」は求めるものじゃなく、みんなの中に自然と湧き上がってきたときに、辛いことでも笑えるようになるんだ。

*おしゃべりは出来事へフォーカス

「いきづらさあるある」をおしゃべりしていると、その行方は暗い話題にもなりやすい。人や環境への文句を連ねることも仕方がないだろう。過去の失敗談や自責の念から自分を中傷することもあるだろう。どんな話題からでも自分の不幸話に結びつけてしまうこともたくさんある。

こういったネガティヴな感情ストーリーというのは「つらさにまとわりついている雑念」のようなもので、これが大切なことを見えにくくしてしまうことがある。

よくある話題で言うと、朝の気分で、学校やしごとに行くことができない。とても大切な用事にでも「行くことができない状態」にハマってしまうことがある。それを逃げとか、甘えとか、責任感がないと決められてしまう。
「なんでできないの?」と言われても、本人だってなぜできないのかわからないからこそ、これは本当に辛いのだ。

しかしそこで、非難されたことへの悔しさや、理解されなかったことへの怒りは、おしゃべりの場を重いものにしてしまうだろう。

それよりも、「朝の気分で大事な用事にいけないことがある」その出来事がとても大切なんだ。
その経験は、善でも悪でもなく、誰に評価されるべきことでもない。

ただ、その事実を口にしてくれるだけで、誰かがホッとすることがある。「あるある、それわかる。私もあるよ。」という優しい一体感をつくりだしてくれる。

「いきづらさ」の日常的なあるある。
ぜひ気楽に、はなしあってみてほしい。

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