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生きづらさの紐とき 第7考 「いきもの」として生きよう。何にもないのがいいんだよ。

「生きる意味」なんて考えるとこが、人は業が深いんだ

生きる意味とか考えるから、すべてのことに意味が必要になってしまうのだ。でも「別に意味なんてないっすよ」とかいうと、偉い人から怒られたりする。意味は深遠なほうが、がんばった感があるからだろう。

でも、そしたら意味のないものには価値がなくて、同じ時間や労力やお金を使うなら、価値が高くてより良い経験をしなければいけないようになる。これはどんどんエスカレートする。
とうとう「自己実現」できているひとは生きる意味を見つけた豊かな人だ、ということになってしまい、私も自己実現したい!ということで、みんなSNSで自慢合戦やりはじめてしまう。

僕だって自慢はみんなに聞いてほしい。SNSは自慢ではないと言う人もいるだろうけど、それは表層の話だよ。ただインスタやfacebookやらで楽しいことはどんどん拡散できたほうがいいんだ、世の中が少しでもハッピーになるならそれほど合理的なことはなかなかないもの。

でも、世間はあんまりハッピーにならない。そのSNS上のハッピーな風景が、ただ自分が承認してもらいたいだけの顕示欲だと、どっかでみんなわかってしまうのだろう。そのひとだけのハッピーじゃないか、と。

そもそも「自己実現してるよ」とわざわざにアピールしてしまうのは、周りの承認を得たいからである。するとその人はいまだ自己実現できてないことを、自分で言ってるようなもんだ。

ライオンの自己実現

ライオンは獲物がとれなきゃお腹がすくし、狩りが下手すぎるとそのうち自分が獲物にされて死んでしまうだろう。

「また逃した…」くらいは思うのかもしれないのだが、獲物がとれなかったことをくよくよ悩んだり「俺はもうダメなライオンだ。生きてる価値がないからいっそ誰かにたべてもらおう」なんて卑下しない。そんな時間があったら、次の獲物を探すのだ。

なのに人は、当たり前に起こりうる失敗くらいで、簡単に自分の全てを否定することがある。そして同じようにできない人がいたら、自分を棚にあげてけなしたりする。

はたまた、ライオンは「なんのためにオレ毎日獲物とってんだっけ?」と自問自答もしない。

人は何かをすることに意味があるかどうか悩むことに時間をつかう。その時間をつかったら何かしら済ませられそうなものなのに、だ。

さらにライオンは目の前に松坂牛とそこらへんの牛が一緒に立ってても、より「近い」か、より「でかい」かぐらいでしか迷わないだろう。霜降りジューシーでは牛を選ばない。

ひとは、食べ物を身体で食べていない。「価値」で食べようとする。つまり脳で食べているのだ。人は頭で考えてばかり。悩まなくていいことまで、比べなくていいことまで。

生きる意味はそこなし沼だ

生きる意味は、ひとにとって、考えずにいられない難題であり、しかもその問いからはにげられないという苦行である。

しかし、そんなことばかり考え悩んでいては今日、いまこの瞬間を健やかに生きられない。
すると手っ取り早い答えが欲しくなる。そこで、誰かが代わりに生きる意味を説いてくれたら、人は安心して勤勉となり生産性をあげられるようになる。それが宗教的なものになるのだ。

何かを信じることで得られる安心感とひとの生産性には関係がある。つまり、信仰と経済とは簡単にむすびついているのだ。
生きる意味にもがき苦しんでいる人は生産性が良くない。経済活動に寄与できない。だから、みんながおんなじ方向むいて、「あんまり考えないで過ごせたら」どんどん生産性をあげて豊かになれる。

なので、生きる意味などということは、考えて仕方がないどころか、時間を無駄にしてしまう。発展を滞らせている。考えこんでいる暇があったら手をうごかして、豊かになろう、豊かになればなんでも手にはいるのだから、と思わされている。

生きる意味など考えずに、ひたすらと豊かになることが幸せで、それを目指すのがいきることだと、いつからか思っていたのだろう?

本質とは何か

しかし、だ。だからといって生きることが何なのかを考えずに過ごすのは、味気ない。
ライオンは狩りに意味など求めないが、人はライオンではなく「意味を考える」ことを許されている。生物としてそれができるのだから、選んでいいのだ。それが回り道を楽しむ旅なら、それで良いはずなのだ

今日一日を穏やかにすごすためには人生の意味はややこしい存在であり、ちょっと鬱陶しいものでもある。しかし人生の意味を考えなければ「今日」の一日はいっこうに深まらないから、明日も明後日も繰り返しのようになってしまう。

なんだろう?
このややこしい構造は?

このややこしさ、何か根本的な思い違いをしているのではないだろうか?

解釈を変える

生きる意味についてひとつの解釈をしてみるよ。

「生きる意味」が私たちの一日に何かをもたらすのではなく、「生きる意味」とは「今日一日」そのものである。という解釈だ。
つまり「生きる意味」とは、今日一日おきる単純なことがくみあわさって、複雑にみえているだけなのだ。

考えて答えを探すようなものじゃなく、一日の中にある様々な出来事を体感して得られる感覚が生きる意味なのだ。生きる意味の答えは日々過去に消えていってしまう。そこに残らないが、身体にしみついていくものもある。そういったものこそが答えなのである。

すると意味を見出したいのなら、考えの深さではなく、体感の深さが大切になる。感じとったことを体に刻み込まなければ何も残らない。

日々の所作、しごと、目に見える色、かたち、におい、味、そうした体感によって得られることの集積から「生きる意味」はうかびあがってくる。

食の意味を考え続けるよりも、毎日それを食べて、食べ物の変化、身体の変化、季節の変化を感じることが、意味になっていく。

針仕事の意味を考え続けるよりも、毎日何かを縫い、手指の感覚、布の手触り、しあがりを感じ纏い生活することが、意味になっていく。

感じとるちから

そもそも僕たちはみんな赤ちゃんのときに「考える力」が先にあるのではなく、手足を動かして物事に触れることではじめて、感触を知り、味を知り、かたちを知り、音を知り、それらのつながりから仕組みを知っていく。
さきに「行動」があって、インプットされ、そして考えるようにできているのだ。「考える力」がいくら備わっていても、手足を動かして物事の感触をたしかめなければ、考える力を応用することはむずかしい。

「感じとる力」が繊細で敏感であればあるほど、受け取る情報は多く、それらの集積も複雑なものになる。すると「意味が」が深くなる。

情報化社会の「あたまでっかち」は、この感じとる力の乏しさにあるのではないだろうか?
考え過ぎて不平不満ばかり口にして、メディアによって煽られた文言ばかりを繰り返してしまい、自分の感覚で表現できないからではないだろうか。ものごとを「受け取らない」「受け入れない」体質になってしまうと、いきている感覚、ただ単に生活していることの大切さを、得ることも残すことも少なくなってしまうのだ。

何もない、くらいがいい

僕らが本当に住んでいる世界はテレビの中でもなければ、ネットの中でもない。じゃあ、現実の会社や学校かというと、そうだろうか。
僕らは人間社会の中にいるが、本当にそうかな?

家から少し出て、近所の公園にでも行ってみる。
そこで「自分の生きる意味」が必要になるような事なんてあるだろうか。
自分に過剰に干渉してくるものなんてあるだろうか。そこにある時間の流れは、テレビやネットや会社や学校の時間のようにあくせくと流れているだろうか。

この公園でながれている、何もない時間空間が、本当の僕らの生活だと僕は思う。こっちが真実で、他が虚像に見えてくる。
そこに咲いている花や、草や木々を見てみれば、どんな場所に咲いていても、どんなに曲がりくねって立っていても自然体だ。当たり前だ、それが自然なのだから。

彼らはすべて受け入れている。種がおちたその場所で伸びて咲く。彼らは枯れて終わりなわけじゃない、また種をおとして、芽が出て、来年咲く。その繰り返しをずっとやっている。
そこには意味なんて「何にもない」また種をおとして、芽が出て、来年咲く。何もないことを淡々と繰り返すことが意味なのだ。
それは「いきものの意味」なのだ。
「いきものの意味」はこの毎日をすごすことだ。ぼくたちは、ひとである前にいきものなのだから「いきものの意味」はこの毎日をすごすことだ。それでいいじゃないか。

人間の生きる意味を考えるからわからなくなる。
いきものとして生きよう。

何にもない毎日を。
もっと何にもない毎日を。
もっともっと何にもない毎日を。

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